真備町(まびちょう)はかつて岡山県吉備郡にあった自治体(町)である。2005年8月1日、編入合併により倉敷市となった。この記事では自治体時代の真備町、現在の倉敷市真備地区(真備支所管内)の両方について述べていく。倉敷市の北西部にあたり、同市玉島地域の北部、および総社市の南西部になり、総社市(旧総社市・清音村・山手村)とともに総社圏域を形成している。倉敷市や総社市のベッドタウンとして急速に人口が増加し、地区東部はスーパーマーケットなどの郊外店の出店が相次ぎ激戦区となっている。地区内の企業は、総社市同様、倉敷の水島関連の下請け企業が多い。その他に農産物としてタケノコがあり、県内を代表する産地である。地区内東部の川辺・有井地区では、国道486号沿線・周辺地域でスーパーマーケットをはじめとしたロードサイド店が林立している。高梁川の西岸に地区がある。地区の南北端は丘陵となっており、その丘陵間は比較的広い平野部となっている。その中央部を高梁川支流の小田川が東流し、地区南東端で高梁川と合流する。丘陵には竹林が多くタケノコが特産品である。町周辺に数多くの弥生時代の遺跡が確認されていることから、当時から稲作民が多数居住していたと思われる。岡田の山之谷採取の石器、下二万金峯寺裏山発見の石斧、尾崎の熊野神社裏山の黒宮大塚(弥生後期の墳丘墓と推定される)、妹の蓮池付近で発見された銅鐸などのほか、小田川沿いの平野周辺部には紀元前後の弥生遺跡が点々と位置し、当時の真備町一帯にかなりの水田が開けていたことを物語っている。古代は豪族・下道氏(しもつみちし)の支配する地域であり、この下道氏より奈良時代には遣唐使となりのち右大臣まで昇進した吉備真備を輩出している。これが町名の由来となっている。江戸時代には伊東長実が領主となり、以降代々岡田藩伊東氏の領地となった。1871年(明治4年)、廃藩置県により、岡田藩は岡田県になり、さらに備中地方の各県が統一され真備町は深津県(のち小田県に改称)内の下道郡に属する十余の各村となる。明治9年には備前、備中、美作の各地域が合併し、昭和27年に真備町が誕生。太平洋戦争末期に横溝正史の疎開地となり、戦後も暫くここに居留した。彼の寓居は現在一般公開されている。歴史的には吉備郡の流れを汲む総社市圏域に属しており、平成の大合併の際には当初総社圏域での新設合併を目指していたが、途中から倉敷市との合併も模索をし、合併を巡る住民投票や町長選の結果などの紆余曲折の末、倉敷市に編入合併となった。これを機に地区内の警察・消防の管轄が総社から玉島に変更となった。ただしゴミの収集は総社圏域で引き続き行っており、総社圏域西部の中核としての機能も未だ持ち続けている。倉敷地成立時に各大字の頭に「真備町」を冠したものに改称された。倉敷市編入に伴い2009年6月1日より倉敷MAに属し、市外局番は086となっている。それ以前は総社MAに属し市外局番は0866(市内局番は97及び98)であった。郵便物の集配業務は倉敷郵便局(郵便区番号「710-13」)が担当している。2006年までは箭田郵便局の管轄区であった。
出典:wikipedia
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