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制服 (ナチス親衛隊)

本稿ではドイツの政党国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の準軍事組織である親衛隊(以下SS)の制服について記述する。SS隊員ははじめ突撃隊(以下SA)と同じ褐色シャツ型制服を着用していたが、1932年にSSの制服として有名な黒いスーツが制服として採用された。1938年には黒服と同型のフィールドグレー色の制服が導入された。一方SS特務部隊(武装SS)では陸軍型の野戦服が使用された。武装SSの戦車・装甲車搭乗員(以下戦車兵)も陸軍の戦車兵とほぼ同型の黒い制服を着用していた。SSで使用された制帽は共通してトーテンコップ(髑髏)が帽章として使用されていた。ナチスの最初の準軍事組織であるSAは褐色で統一されたシャツのような上着とネクタイ(党員はネクタイに党員章)、ズボン、ケピ帽を制服として使用していた。SSは1925年4月に結成されたが、1932年までSAと同型で色だけ異なる制服を使用していた。シャツ型上着はSAと同じで褐色だったが、ケピ帽の色が黒く、ネクタイも黒く、ズボンも黒い物を使っていた。またハーケンクロイツの腕章に上下に黒のストライプを入れることでSAと差別化を図った。色以外でSAの制服と違っていたのは、ケピ帽にトーテンコップ(髑髏)の徽章を入れていることがある。1926年11月にSAがその制服に階級と所属部隊を明らかにするための襟章を導入。これに倣ってSSも1929年8月に襟章を導入した。SAは所属する部隊を示す方法として襟章に様々な色を設けていたが、SSの襟章は銀と黒で統一されていた。SSでは所属部隊は左腕の袖のところのカフタイトル(袖章)で示した。SAと同様に襟周りや襟章の縁にパイピングを入れた。このパイピングは黒服以降の制服にも受け継がれたが、1940年には廃止された(しかし襟周りのパイピングは廃止後も使用されることも多かったという)。ただし黒服以前の制服は特に支給されておらず、各隊員が自前で揃えるものであった。黒服制定以降にはこの褐色シャツの制服は「伝統の制服(Traditionsanzug)」と呼ばれるようになり、ナチ党の式典などで着用されるようになった。ただ褐色シャツは基本的にSAの制服であり、この服を式典で着たがるのは野党時代の闘争を懐かしむ古参SS隊員だけであったという。親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーもこの服を好まず、彼は式典には黒服で出席していた。1932年7月7日に制服が大きく改訂され、SSの制服として有名な黒い勤務服(SS-Dienstrock Schwarz)が定められた。黒服のデザインをしたのはグラフィックデザイナーのSS上級大佐カール・ディービッチュ()といわれるが、これを疑う説もある。黒服のデザインのモデルとなったのはプロイセン王国時代の第1近衛軽騎兵連隊()と第2近衛軽騎兵連隊()であるという。「黒」は神聖ローマ帝国やプロイセン王国の旗の一部を構成する色でもあり、ドイツにとって象徴的な色で高貴な部隊であることを意味する。黒いネクタイをつけた褐色のシャツの上に黒いスーツを着用する。スーツの前ボタンは4つ付いており、開襟して着用する。ふた付きポケットが胸、腰に2つずつ計4つあり、腰ポケット2つは斜めになっていた。肩章は右肩にのみ装着する。背部には腰の部分にベルトフックとベルト止めの役割があるボタンが二つ付いており、ボタンから裾までひれのようなプリーツが入っている。黒スーツの下に着るシャツは基本的に褐色のシャツだが、礼服として着用する場合には白いシャツを用いることも許可されていた。1938年頃からは日常勤務服としても白いシャツが併用されるようになった。制帽はケピ帽から軍の制帽に似た物に変更された。ただ黒服初期の制帽は第一次世界大戦のドイツ軍や戦後のヴァイマル共和国軍の軍帽の流れを組んでいたので、あまりトップが高くなく、潰れているような感じの物が多かった。下士官・兵士に支給する黒服はナチ党の「国家装備統制局」(Reichszeugmeisterei,略章RZM)と契約した民間企業の工場において製造されていた。一方将校はRZM規格品をSS被服販売所で購入するか、オーダーメイドで仕立てる場合がほとんどであった。上級隊員は1933年のうちには黒服を手に入れたが、下級隊員の間では1935年ぐらいまで黒服以前の褐色シャツ制服が黒服に混在して使用され続けたという。1939年6月27日以降には夏用に黒服と同じデザインで色だけ異なる「白服」が将校にのみ支給された。着用期間は4月1日から9月30日までであった。しかし白服はベルヒテスガーデンでの式典を除きほとんど着用されなかったという。白服はここで見られる。1935年に親衛隊特務部隊、続いて1936年に親衛隊髑髏部隊でアースグレー色やアースブラウン色の野戦服が導入されたため特務部隊と髑髏部隊は日常制服としては黒服を着用しなくなった。以降は一般SSだけが黒服を着用していたが、1938年に一般SSに常勤する隊員にフィールドグレーの新しい勤務服が導入されたため、彼らも日常制服としては黒服を使わなくなった。以降の黒服は礼服としてのみ使用されるようになった。しかし一般SSの予備役的な存在であった非常勤一般親衛隊隊員にはフィールドグレー勤務服が支給されなかったので、彼らは日常制服としても黒服を使用し続けた。戦争がはじまると非常勤一般親衛隊員は続々と徴兵され、大幅に数が減少した。彼らの分の余剰になった黒服は徽章などを外して外国人SS部隊や占領地現地民による補助警察シューマ(,略称Schuma)の隊員に支給された。戦時中のドイツ国内で日常制服として黒服を使用していたのは予備役的存在となっていた4万人の一般親衛隊非常勤隊員が中心だった。そのため黒服は兵役忌避者の象徴となり、嘲笑の的になってしまったという。1938年からSSの本部(SS-Hauptamt, 国家保安本部、経済管理本部など12の本部)に勤める一般SS常勤隊員にフィールドグレー勤務服(SS-Dienstrock Feldgrau)が支給された。前述したが、一般SSでも非常勤隊員にはこのフィールドグレー勤務服は支給されなかった。基本的に黒服と同型だが、黒服が右肩にのみ肩章があるのに対してフィールドグレー勤務服は両肩に肩章があった。またハーケンクロイツの腕章の代わりに腕の部分に鷲章が刺繍されることとなった。開襟で着用した武装SSのフィールドグレー野戦服とも似ているが、異なる点としてはこちらは黒服と同型なので前ボタンが4つで開襟での着用しかできず、また背部にベルト止めボタンが2つ付いている点である。一般SS常勤隊員には、支給制服を着る者、SS被服購買所などで自ら選んで買った制服を着る者、洋服店で仕立てさせた制服を着る者などがあった。武装SSと異なり、一般SSでは階級が低くてもお金に余裕があるなら自分で制服を仕立ててかまわなかった。逆に将官であっても裕福でない者などは支給品を着ている場合もあった。SSは貴族・ブルジョワなど既存の上流階級に抵抗するいわば「革命勢力」であった。能力さえあれば家柄に関係なく出世できたので将官だからといって裕福であるとは限らなかったのである。戦時中には一般SSでも武装SSのフィールドグレーの野戦服を着用する者が増えた。特に占領地勤務者にそれが顕著だった。SSの制服には「勤務服」(Dienstrock)と「野戦服」(Feldbluse)があり、武装SS(SS特務部隊)隊員には両方とも支給されていた。「勤務服」については一般SSのものと同じである。「野戦服」が武装SSだけに支給される特別な制服である。SS特務部隊やSS髑髏部隊も当初は一般親衛隊と同じ「黒服」を着用していたが、派手すぎて戦場での作戦行動や強制収容所警備に不向きであったので野戦服が作られることになったのである。草創期のSS特務部隊にはアースグレーの野戦服が支給されたが、このアースグレー野戦服ははじめ部隊ごとに様々なバリエーションがあった。1935年初めに「ライプシュタンダルテ・アドルフ・ヒトラー」と特務部隊用に統一されたアースグレー色の野戦服が支給されるようになった(M35野戦服)。M35野戦服は1935年11月のSS指令で正式に認可された。アースグレー野戦服の形状は基本的に黒服と同じだったが、前ボタンが黒服より1つ多い5つあり、ラペルを閉じて着ることができた。ただし将校のは前ボタンが4つであり、開襟でしか着用できなかった。1936年3月には髑髏部隊にもアースブラウン色で同型の野戦服が日常勤務用として支給された(なお髑髏部隊以外の強制収容所所員は通常の勤務服を着用していた)。陸軍M36野戦服の影響からか、1936年になると部隊によっては襟をダークグリーンにしている物も見られるようになった(特にライプシュタンダルテの下士官兵士)1937年にこの二つの野戦服が統一されてフィールドグレーの野戦服が制定され、特務部隊と髑髏部隊に支給された。これはM37野戦服と呼ばれる。ドイツ陸軍のM36野戦服をモデルにして作られたが、襟が制服と同じフィールドグレーである点(陸軍のは襟の部分がダークグリーンであり、服と色が異なった)や下ポケットが切り込み式で斜めについている点(陸軍のは上下ポケットともに貼り付け式で水平になっている)などが陸軍M36野戦服と異なった。詰襟でも開襟でも着る事が出来た。ただ1940年ぐらいまでアースグレーの野戦服を着用している部隊もあったという。戦争がはじまり、武装SS隊員数が急増した1939年末に武装SSは陸軍のM36野戦服の大量採用を余儀なくされた。これにSSの徽章をつけた野戦服が1940年から支給されるようになった(M40野戦服)。陸軍M36野戦服の使いまわしなので襟がダークグリーンの物もあるが、陸軍野戦服も1940年以降に生産された物は襟がフィールドグレーになっていた。SS被服工場でもM40野戦服に準じた野戦服が製造されており、これは襟をフィールドグレーにして製作していた。もともとSS被服工場はダッハウ強制収容所にしかなかったのだが、1939年にラーフェンスブリュック強制収容所にも置かれるようになり、第二次世界大戦緒戦の勝利により占領地にも続々と置かれ、1941年にはSS被服生産体制が整い、陸軍に頼ることなく独自に野戦服を支給できるようになった。1941年からSS被服工場で作られるようになったM41野戦服は外見はM40野戦服(陸軍野戦服流用品)と変わらなかったが、裏の仕様がだいぶ変わっていた。さらに1942年になるとポケットのプリーツをなくしたM42野戦服が支給されるようになった。さらに1943年にはポケットの口の形が単純化されてまっすぐにされたM43野戦服が支給されるようになった。素材もウールの使用量が大幅に減らされて保温機能が悪化した。1944年には更なる生産工程の簡素化のために野戦服が全軍共通になり、記章のみが異なる「M44野戦服」が生まれた。これは極端に丈が短く、下ポケットが消滅している。そのため、まるで英軍の野戦服「バトルドレス」()のようになってしまっている。素材はさらに粗悪品となり消耗が激しかったという。陸軍と同様に武装SSでも兵士・下士官は支給物、将校は独自にオーダーメイドした物を着用した。そのために将校は被服手当を受けていた(SS将校の受けていた被服手当は陸軍将校より多額であった)。SS将校たちははじめ特務部隊のM35野戦服やM37野戦服と同型の野戦服を仕立てることが多かったが、やがて陸軍将校と同型の野戦服を仕立てるのが一般的になっていった。そのため襟がダークグリーンになっていたり、腰ポケットが斜めの切り込みポケットではなく水平の貼り付けポケットになっていたりする物が多かったが、中には武装SSの制服規定に合わせて襟をフィールドグレーにしたり、腰ポケットを斜めの切り込みポケットにした物もあった。ただし消耗を避けるため、戦闘中には将校も支給品の野戦服を着用する者が多かったという。武装SS(SS特務部隊)は迷彩服の先駆者である。世界で初めて迷彩服を正式採用して大量に支給した。現在でこそ世界中の軍隊で当たり前のように使われている迷彩服であるが、当時の繊維・染織技術で迷彩服のような複雑なプリント生地を大量に製造するなどということは前例のない試みであった。SS特務部隊の迷彩服の研究は1935年から始められた。まず迷彩ヘルメットカバーと迷彩ポンチョ、顔面偽装具といった迷彩装備が開発された。これらが1936年末にSS特務部隊ドイッチュラント連隊の演習に実験的に使用された結果、迷彩装備を使用した場合には兵の消耗を15%抑えることができるという結論が出されたことによって採用が決定した。迷彩ポンチョ自体はすでに陸軍でも開発されていたのだが、SS特務部隊ではこの後迷彩だけを目的とした迷彩スモックを開発がすすめられ、1937年末に世界初の規格型迷彩スモックを誕生させた。このスモックは通常の野戦服の上にかぶって着用し、胸元には切れ込みが入っており、紐で留めていた。当初、手作業で作成していたため、数は限定的でポーランド戦争の頃には一般的ではなかったが、1940年6月頃に生産が機械化できるようになったため、1941年の独ソ戦の頃からほぼすべての武装SS部隊に迷彩スモックが行き届いたという。さらに1944年3月には迷彩スモックに代わって迷彩柄の上着とズボンが揃った迷彩服が登場した。これは単体で着用してもよかったが、従来のスモックと同様に通常の野戦服の上から着用してもかまわなかった。ドイツ陸軍の戦車兵の黒い軍服は有名であるが、武装SSの戦車兵も同じく黒い軍服を着用した。初めは陸軍の戦車兵の軍服が支給されていたが、1938年頃からSSが管理する強制収容所の被服工場で武装SS独自の戦車兵軍服の制作が開始され、1941年頃からこれが大量支給されるようになり、1942年以降には陸軍の物は使用されなくなっていった。陸軍の物と比べると親衛隊の戦車兵軍服は丈が短く、下襟が小さいことなどがあげられ、下襟が小さいがゆえに武装SS戦車兵の前合わせは垂直になっている。陸軍の戦車兵軍服は上襟周りに兵科色のパイピングが入っているが、武装SSは将校が銀のパイピングを入れるのみだった。さらに陸軍のものは背中の生地を二枚継ぎ合わせていたので背中に縦に一本縫い目が付いていた。しかし武装SSは一枚だったので縫い目がなかった。また襟章は陸軍が髑髏を入れていたのに対して武装親衛隊は親衛隊の階級章を入れていた。ズボンも武装SSと陸軍では若干異なり、武装SSのものは隠しベルトがなく、代わりにウエストの両側にバックル付きの絞りが付いていた。また武装SSではズボンの左右腰についているポケットやズボン前部に付いている懐中時計用ポケットの蓋が2つのボタンで留められていた。ネクタイは黒、シャツはグレーかブラウンが通常だが、オプションで黒いシャツも認められていた。1943年に戦車兵が車外に出た場合を想定して迷彩オーバーオールが支給された。リバーシブルになっており反転着用でき、裏面は秋の迷彩パターンになっていた。ただ秋面の方は胸ポケットがなかった。さらに1944年1月には戦車兵に支給されていたリード・グリーンのツーピース作業着が迷彩柄に取り換えられることになった。1940年4月にLSSAHに突撃砲中隊が初めて編成されたのに伴い、武装SS用の突撃砲兵軍服が制定された。武装SS戦車兵の黒軍服と同型だが、色がフィールドグレーであった。しかし1941年頃までは陸軍の突撃砲兵の軍服が流用されることもあった。1942年夏頃から武装SS用突撃砲兵軍服が広く支給されるようになった。戦車軍服と同様に将校は上襟の襟周りに銀パイピングを入れることがあった。またLSSAHのみ下士官は襟周りにトレッセを入れた。武装SSは北アフリカ戦線には従軍していないが、南ヨーロッパのバルカン半島の戦いには従軍しており、気温の高いギリシャでの戦闘において武装SS将兵たちは陸軍のコットン製の熱帯用野戦服を独自に調達して使用した。これがきっかけとなり、武装SS独自の熱帯服の開発がすすめられることとなった。1942年から支給されるようになった武装SSの熱帯野戦服はドイツ軍ではなくイタリア軍の熱帯野戦服「サハリアーナ(Sahariana)」をモデルにして作られており、肩から胸を大きなフラップが覆っており、胸ポケットのボタンでとめる仕様になっていた。このフラップは放熱効果のために付けられていたという。素材は陸軍熱帯服と同じコットン製。前ボタンは4個で開襟して着用する。ボタンは洗濯に便利なよう着脱式になっている。1943年にはポケットのプリーツを省略したM43熱帯服が製作されるようになった。熱帯服の登場とともに各種熱帯帽や熱帯シャツ、熱帯ズボン(半ズボンもあった)なども導入された。戦時中、SSも国防軍と同様に人手不足から後方任務に女性補助員(SS-Helferinnen)を動員した。SSの女性補助員には「女性補助員」と「戦時女性補助員」の区別があった。SS経済管理本部の1943年の命令によると前者はSS帝国学校の卒業者、後者は東部占領地域に派遣される者であるという。女性補助員はネクタイを付けずに白いブラウスを着用し、その上にフィールドグレーの背広を着た。この背広は前ボタンが3つ、左右の腰の部分にふた付きポケットがあり、左胸にもポケットが付いていた。ポケットはいずれも切り込み式であった。スカートは背広と同じフィールドグレー色だった。靴は黒い靴を履いた。さらに黒い略帽風の帽子をかぶった。この帽子には男性SS隊員の略帽と違って折り返し部分がなかった。また髑髏の帽章は付かず、鷲章だけが付いていた。女性補助員はSSのルーン文字が入った黒い布製パッチを胸ポケット部分に貼り付けた。また通信を担当する者は左袖に通信隊を示すブリッツ(雷光)章を入れることもある。一方戦時女性補助員の場合にはSSルーン文字のパッチは付けなかった。1932年の黒服の導入と同時に黒いオーバーコート(Mantel)が制服に定められた。このオーバーコートは前ボタンは一列6個のダブルになっており、斜めの切り込みポケットが腰の部分の左右に付いている。後ろには両端に離れたボタンで止められたハーフベルトが付いている(ナチ党型ハーフベルト)。また黒服と同様に左腕にはハーケンクロイツの腕章をつけた。ウール製のコートと革製のコート、レインコートの三種があったが、一般SSではやがてウール製コートは使われなくなり、皮製コートが一般的になった。コートにも徽章類を全てつけたが、勲章はコートに付けてはならなかった。基本的に下に着用している制服と同じ色のコートを着るのが原則であり、1935年にSS特務部隊でアース・グレーの野戦服が制定されるとともにアース・グレー色のオーバーコートも制定された。ついで1937年に野戦服の色がフィールドグレーに変化したのに伴い、1939年に陸軍で使用されていたフィールド・グレーのオーバーコートが武装SSにも支給された。陸軍オーバーコートは後ろのハーフベルトを中央のボタンで止める。はじめ襟がダークグリーンだったが、1942年に襟がフィールドグレーになった。陸軍のオーバーコートは襟章は付けてはならなかったが、武装SSでは付けても構わなかった。ただ戦争後期になるにつれて付けない者が増えた。なお一般SSでは最後までオーバーコートに襟章を付け続けた。下士官兵士は支給された物を着用した。将校はオーダーメイドする者も支給品を着る者もあった。冬季には高級将校の間ではコートの襟に毛皮をつけるのが流行ったという。将校の中で多かったのはオーダーメイドした皮コートである。この皮コートには基本的に襟章は付けなかった。袖章もあまり付けなかったようだが、付けている者もいたようである。なおオーバーコートが何色であってもSS准将以上の階級の者の場合は下襟にはシルバーグレー色(かなり白に近い)を入れ、開襟で着用するのが普通であった。SS将官の中には襟の縁取りにシルバーグレーのパイピングを入れている者もいるが、これは特にSSで規定していたわけではなく個人の好みで行われたようである。親衛隊の帽章は共通して「交叉する骨の上に髑髏」で知られる「トーテンコップ(ドイツ語で髑髏)」の徽章が入っていた。トーテンコップは、一見海賊旗の旗印にも似ているが、海賊旗の髑髏章は、頭蓋骨の下に交差した骨が配されているのに対し、トーテンコップは頭蓋骨が骨に重なっている。トーテンコップは元々ドイツや北欧・東欧地域では古来より用いられている徽章であり、親衛隊の帽章のトーテンコップのデザインはプロイセン王国時代の軽騎兵をモチーフとしていると言われている。「骨になっても祖国のために戦う」という意味がある。当初親衛隊は下顎がない伝統的なトーテンコップを使用していたが、1934年に陸軍が戦車兵の軍服を制定してその襟章に同じくプロイセン時代からのトーテンコップを使用したため、混同されないよう親衛隊のトーテンコップの形に変更が加えられ、下顎がつけられてよりリアルな髑髏になった。この形は伝統的なものではなく親衛隊独自のトーテンコップである。1923年〜1929年にかけては、親衛隊制帽のトーテンコップの上にはドイツ帝国軍やヴァイマル共和国軍と同様に円形章(コカルデ)が入っていたが、1929年秋にナチスの鉤十字の上に羽を広げて留まる鷲をデザインした「鷲章」が取り入れられることとなった(ナチ党政権掌握後、国防軍も鷲章に変更されている)。この「羽を広げて留まる鷲」のデザインは古代ローマ帝国時代を起源とする伝統的なデザインで、さらに1936年に鷲章のデザインが変更され、大型になり鷲の羽が横に広くなった。この新しいSS鷲章は陸軍の鷲章と似ているが、よく見ると若干デザインが異なっている。陸軍のは羽根の上端が一番長いが、SSの鷲章は羽根の中間部分が一番長くなっている。SAと同型の制服を着用していた頃に使用された帽子。SAの使用したケピ帽は褐色だったが、SSの物は黒く、また髑髏の徽章を付けるのが特徴的であった。1932年制定の黒服用制帽に取って代わられた。クレッツヒェン()は帝政ドイツ軍で使用されたバイザーのない制帽のような帽子である。SSが使用したものは色が黒く、正面に髑髏の帽章と鷲章を付けた。ここで帝政時代のクレッツヒェンとSSのクレッツヒェンを見られる。クレッツヒェンはSSが誕生したばかりの1925年頃からSSで使用されてきた。1933年から1934年にかけて特務部隊で頻繁に使用された。しかし1935年に黒い略帽が制定されると取って代わられた。1932年7月7日に黒服とともに黒い制帽(Dienstmütze)が制定された。それ以前のケピ帽に代わる帽子であった。髑髏などSS専用の徽章類を除けば陸軍制帽とほぼ同形状である。最初の物は黒だったが、制服の色に併せてアースグレーやフィールドグレーの制帽が作られていった。将校はアルミモールの顎紐を使用し、兵士・下士官は革の物を使用した。制帽の縁取りの色は大佐以下の階級の者は白、准将以上の階級の者は銀を使用した。1940年5月には縁取りの色を兵科色にするようにとの命令が出されたが、同年12月には白・銀に戻すよう再命令が下された。しかしこの命令に従わない者が多く、兵科色の縁取りがなされた一般制帽がその後も広く使用され続けたという。陸軍と同様にSSでも制帽の代わりとしてクラッシュキャップが使用された。クラッシュキャップはコレクターたちの間での俗称であり、正式名称は野戦帽(Feldmütze)という(後に支給を廃されたので旧式野戦帽という)。一般制帽と似ているが、帽子の中に形状を保つためのワイヤーが入っていないため、ふにゃふにゃしている。髑髏と鷲章は機械織りの刺繍であることが多かったが、金属製である場合もあった。通常のクラッシュキャップのつばは革製であるが、SSでは1938年に「SS下士官用野戦帽(Feldmütze für Unterführer)」という下士官用クラッシュキャップが制定しており、これはつばが革ではなく布だった。この影響で将校でもつばが布の物を使う者がいた。陸軍ではクラッシュキャップは1938年に支給を廃されているが、武装SSでは1940年前後に支給を廃されたとみられる。しかし持ち運びに楽であるため、支給を廃された後も多くの前線の武装SS将兵がオーダーメイドしてかぶっていた。オーダーメイドを惜しんで一般制帽からワイヤーの支えを取り除くなどしてクラッシュキャップ風に改造している例も見られる制帽の代わりに用いられた略帽である。正式名称はクラッシュキャップと同じく野戦帽(Feldmütze)である。船のような形なので「小舟(Schiffchen)」という愛称があった。日本では一般に略帽と呼ばれている。SSで最初に略帽が制定されたのは1934年だった。特務部隊の下士官兵士用にアースグレーの野戦服用に制定された。1935年には黒服用の黒い略帽も登場した。こちらはクレッツヒェンに代わるものとしての導入であった。その後、アースブラウン野戦服やフィールドグレー野戦服用の同じ色の略帽も登場した。これらの略帽は折り返し部分の前部をえぐったような陸軍の略帽に似た形状である。正面に髑髏のマークが入ったボタンがついており、左側面部分に鷲章が入っていた。1939年末に兵科色がSSに導入されると陸軍と同様に略帽の前部に山型のパイピング(Soutache)を付けるようになった。1940年からは新型略帽が導入された。こちらの略帽は空軍の略帽のような流れる形状であり、鷲章とボタンではない髑髏帽章を正面につけた。1943年以降は下記の規格野戦帽に取って代わられた。陸軍、空軍、SSで規格が異なっていた略帽を統一するため、1943年6月11日に陸軍で統一規格野戦帽(Einheitsfeldmütze)が制定された。この帽子は日本では一般に規格帽と呼ばれている。1943年に制定されたためM43帽とも呼ばれる。SSでは1943年10月1月にこれが採用された。陸軍の物とほぼ同じだが、折り返しを止める前部のボタンが陸軍の規格帽は二個ボタンのみなのに対して、武装SSの規格帽には一個ボタンの物も存在した。また武装SSの規格帽には鷲章が真横についている物もあった。1942年6月1日に制定された迷彩柄のバイザー付きの帽子。この帽子は武装SS独自のものである。夏季迷彩と春季迷彩の二種類がある。迷彩効果最優先のこの帽子には鷲章や髑髏などは付けないはずだったが、一時的に徽章を入れるよう命令が下された時期もあった。この命令は後に撤回されているが、付け続ける将兵も多かったという。フェズとは中東の伝統的帽子。ムスリムの兵士が多い第13SS武装山岳師団と第23SS武装山岳師団でのみ着用が許されていた。鷲章とトーテンコップが入っていた。兵士下士官はモス・グリーン、将校は赤いフェズ帽をかぶった。また赤いフェズ帽は礼装用でもあった。ドイツ軍の象徴ともいうべきシュタールヘルム(鉄兜、Stahlhelm)については、SSは陸軍の物と同じ物を使った。貼りつけるデカールだけSSと陸軍で異なった。陸軍のシュタールヘルムには35年型、40年型、42年型の3種類が存在する。1936年からSS特務部隊に35年型が支給されるようになった。それ以前のSSのシュタールヘルムは主に一次大戦時代の物やSS国家主計局で作った物が使用されていた。もっとも西方電撃戦ぐらいまでの頃には一次大戦時のシュタールヘルムが依然として用いられていたという。1935年型は空気穴がヘルメット本体と別パーツになっているが、40年型以降は一体化されてプレス加工になった。また材質がモリブデン鋼からマンガン・シリコン鋼に変更された。ついで1942年7月6日には更なる工程の簡素化が行われ、これまでヘルメットの縁が中に折り曲げられていたのが、縁を少しだけ外側にそらすだけの1942年型が生まれるようになった。3つのシュタールヘルムの違いについてはここが詳しい。SSの鉄兜ははじめ右側にSSルーン文字のデカール、左にハーケンクロイツのナチ党旗のデカールが貼られていたが、迷彩効果のうえで問題があり、1940年3月に左のナチ党旗のデカールは外すよう命令があり、以降は急速に見られなくなった。その後は右側にSSルーン文字のデカールだけを付けていた。1943年11月にSSルーン文字のデカールも外すよう命令が出ているが、こちらは外されることはあまりなく敗戦まで一般的に見られた。外国人部隊の場合には左側にSSのデカールを貼る例も見られる。襟章は親衛隊大佐以上と親衛隊中佐以下で大きく異なった。親衛隊大佐以上は左右対称になっている柏葉で階級のみを示した。親衛隊中佐以下は右襟の襟章で所属する師団や所管を示し、左襟の襟章で階級を示した。たとえば右襟章に数字だけが入っている場合はその数字は一般SSの所属連隊の番号を指している。右襟章が無地の場合は技術専門職、あるいはSSの本部や司令部の要員であることを意味している。トーテンコプフ(髑髏)の右襟章ならば親衛隊髑髏部隊、トーテンコプフ師団、強制収容所所員などであることを示す。SSのルーン文字の右襟章をよく見かけるが、これは他の右襟章を付ける立場にないすべてのドイツ人・ゲルマン人隊員が付けていた襟章である。1940年には親衛隊特務部隊のドイツ人・ゲルマン人師団は独自の右襟章を廃されたため、SSルーン文字で統一された。敵に何師団かばれないようにという防諜上の理由であるという。ただ外国人義勇兵はそれぞれの師団の独自の右襟章を使い続けた。階級章については親衛隊大佐以上は柏葉と星の数で示し、親衛隊中佐以下は星と線で示した。しかし親衛隊特務部隊(武装親衛隊)においては1938年に陸軍型の肩章を導入したので襟章での階級表示は二重表示になるので不要という話も出るようになった。そのため大戦初期に襟章の変更が繰り返されて襟章の階級章が廃されたり復活されたり混乱した時期があった。しかし結局ヒムラーはSS独自の階級章も示す必要があるとして陸軍肩章と旧来の親衛隊襟章による二重の階級表示とした。なお迷彩服用の階級章も存在していた。SSの階級と階級章については変遷があり、煩雑なので詳しくは親衛隊階級の項を参照のこと。SSにおいて肩章は1933年5月に導入されたものである。黒服の肩章は右肩にしかついてなかったが、SS特務部隊や武装SSの野戦服、一般SSのグレーの制服には両肩に肩章が付いていた。基本的にSSでは細かい階級は襟章で示した。肩章は下士官兵卒、下級将校(尉官)、上級将校(佐官)、将官という大雑把な区別をする物だった。しかし1938年3月にSS特務部隊(武装SS)では陸軍と同じ肩章が導入され、肩章でも階級を表すようになった。一般SSは従来の肩章を使用し続けたが、やがて一般SSでも陸軍型の肩章を使用する者が増えた。また武装SSの肩章には所属部隊が分かるような徽章も入れられていたが、これは1943年10月のヒムラーの決定により廃された。SDや保安警察の所属者には警察型の肩章を使用している者も見られる。SSの制服の特徴の一つが「カフタイトル」である。カフタイトルは英語の呼び名であり、正式には「袖章」(Ärmelstreifen)という。SSの制服には左腕の袖の部分にこれが付けられている事が多い。陸軍もグロースドイッチュラント師団など一部の部隊がカフタイトルを使用していたが、SSではより多くの部隊で使用されていた。カフタイトルには所属する師団、連隊、本部、親衛隊地区などの名が書かれていた。たとえば一般SSの連隊所属者は、カフタイトルに所属連隊名が書かれ、カフタイトルの縁取りの色で所属大隊、番号で中隊を示した。なお部隊によっては名誉部隊名がつけられている事があるが、その場合は名誉部隊名のカフタイトルが優先された。他部隊へ転属した場合には必ず新しい部隊のカフタイトルに変更しなければならなかった。ただ新しい部隊にカフタイトルがない場合は以前の部隊のカフタイトルを使用することが許可されていた。矛盾しない組み合わせの場合、一人が二つのカフタイトルを付けているケースも見られる。親衛隊名誉指導者などにも独自のカフタイトルがあった。なお親衛隊全国指導者(Reichsführer-SS)の略称である「RFSS」のカフタイトルは親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーの幕僚であることを表す。「Reichsführer-SS」のカフタイトルも存在するが、これは第16SS装甲擲弾兵師団「Reichsführer-SS」の隊員であることを意味しており、ヒムラーの幕僚のカフタイトル「RFSS」とは別物なので注意が必要である。戦争中にはカフタイトルの授与式はやけに厳かになった。そこに書かれている部隊の名前を汚すことがないようにという意味が込められるようになったためである。ただ外国人師団には師団名を与えられていない場合があったり、また与えられていてもカフタイトルは授与されなかったケースが多い。部隊名やカフタイトルがその部隊に与えられるためには、それにふさわしい戦功を立てることが期待されたといわれる。あるいは外国人部隊は本来はSS隊員としてふさわしくないという思想でそうなっていたのかもしれない。カフタイトルに書かれる文字はヒトラーの手書きである「ライプシュタンダルテ・アドルフ・ヒトラー」以外は初めゴシック体で表記されていたが、後に標準ラテン字体に変更された。ナチ党政権掌握(1933年1月30日)以前からナチ党かナチ党組織(SSである必要はない)に所属していたSS隊員は、1934年2月より右上腕部に古参闘士名誉章(Ehrenwinkel für Alte Kämpfer)を付けるようになった。後に基準が緩められて、国防軍や警察からSSに入隊してきた者のうち、一定の基準を満たしている者も付けることが許されるようになった。武装SSは1939年末に兵科色(Waffenfarben)を導入した。陸軍とは異なる独自の兵科色を使用した。主な兵科色は以下のとおりである。SSのベルトのバックルは、将校と下士官兵卒で異なった。将校は円形であり、下士官兵卒は四角形である。将校用も下士官兵卒用もバックルのデザインには国家鷲章が描かれ、その鷲章の周囲にSSのモットーである「忠誠こそ我が名誉(Meine Ehre heißt Treue)」の文字が入っていた。この言葉は1931年末にSSのモットーとして定められてベルトのバックルのデザインに採用された。なお陸軍や警察のバックルには「神は我らと共に(Gott mit Uns)」という文字が入っていた。将校用の丸型バックルは外れやすく、戦場には不向きだったので陸軍将校がよく使用していた二本爪バックルの茶色ベルトを使用する者が多かった。SSの短剣(Dienstdolch)は、1933年12月に制定された。黒い鞘と柄の短剣で、刀身にはSSのモットーである「忠誠こそ我が名誉(Meine Ehre heißt Treue)」の文字が刻まれていた。黒服や黒服のコート、「伝統の制服」の着用時に帯刀した。これは新規隊員全員に授与された(ただし自己負担)。1933年短剣は1940年に製造が中止された。一方1936年には鎖付きになった1936年版短剣が製造された。これは隊員のうち所持希望者が独自に購入する物だったが、買う者はあまりいなかったという。名誉短剣も三種類存在する。1934年2月にSA幕僚長エルンスト・レームが古参SS隊員9900人に授与した「レーム短剣」、1934年7月以降にヒムラーがSA粛清の功績者に与えた「ヒムラー短剣」、1936年に制定されたSS高官の誕生日に授与する「誕生日短剣」である。1933年以降、SSの将校と下士官は陸軍と同型のサーベルを自費で購入して帯刀することを許可された。1936年にSSと警察専用の長剣が作成され、下士官以上ならばいつでも購入できるようになった。名誉長剣も存在する。士官学校卒業生やヒムラーが選んだ将校に送る親衛隊全国指導者名誉長剣とSS高官の誕生日にヒムラーが個人的に贈る誕生日長剣である。親衛隊全国指導者名誉長剣の写真はここやここで見られる。1934年4月に制定された髑髏をかたどった指輪。正式名称は親衛隊名誉リングという。始めは古参党員用の指輪だったが、後に基準が緩められて3年以上SSに勤務した将校は事実上だれでも持てるようになった。左手薬指にはめる事を定められていた。

出典:wikipedia

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