デュッラキウムの戦い1081年に行われたノルマン人と東ローマ帝国の戦闘である南イタリアを征服したロベルトはミカエル7世ドゥーカスの退位を口実に東ローマに侵攻した。(ミカエル7世の皇帝時代、ロベルトはミカエルの皇太子であるコンスタンティノスと自分の娘を結婚させる約束をしていた)バルカンに上陸したノルマン軍は、アルバニアのデュラッキウムを包囲した。ロベルトは幾度も攻めよせたが、守備隊長のゲオルギオス・パレオロゴスの防戦のため、占領することはできずにいた。アナトリアでの戦いを終わらせたアレクシオス1世コムネノスは援軍を率いてデュラッキウム郊外に布陣した。そこでこのまま長期戦に持ち込みノルマン軍を疲弊させるか、戦いを挑むか、将兵たちの間で意見が分かれたが、ヴァリャーグ親衛隊の隊長であるナムピテスの決戦するべきとの主張が皇帝に受け入れられ、ノルマン軍との決戦が行われることになった。ノルマン軍は、皇帝軍最前列にいたヴァリャーグ親衛隊めがけて突撃した。ヴァリャーグはこの攻勢を撃破し、逆にノルマン軍に攻撃を仕掛けた。だが味方の軍勢から離れすぎてしまったヴァリャーグ隊は伏兵の攻撃を受けて敗走した。生き残った者は教会へと逃げ込んだが、ロベルトはこれを見逃さず、火を放って教会ごと焼き払ってしまった。別の史料によると、教会が小さく、逃げ込めなかった多くの兵が屋根に登った。そのため、重みで屋根が崩落し、中にいた者たちを圧死させたという。東ローマ最精鋭部隊であるヴァリャーグ親衛隊の壊滅と惨劇を目のあたりにした皇帝の傭兵たちは恐れをなして次々と逃げ出した。これを見たノルマン軍は再度総攻撃を仕掛け皇帝軍を蹴散らした。皇帝軍を敗走させたノルマン軍はデュッラキウムを占領した。ロベルトはようやくバルカンに橋頭保を築くことができたが、神聖ローマ帝国の南下を聞き、占領地を息子のボエモンに任せて、イタリアに帰国することになった。神聖ローマ帝国の南下を食い止めたロベルトは再度ギリシャ侵攻をもくろんだが、その矢先病死してしまった。
出典:wikipedia
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