イツセイとは、日本のサラブレッド競走馬である。1951年当時、安田賞の名称だった安田記念の初代優勝馬。同世代の著名馬には、トキノミノル・ミツハタ・トラツクオーらがいる。なお、全32戦、芝コースで出走した。11月5日の未出走(東京競馬場、以下 東京)がデビュー戦となったが1着。その後2戦も勝ち、12月10日の朝日杯3歳ステークス(中山競馬場、以下 中山)では、デビュー以来5連勝中のトキノミノルとの全勝対決となったが、トキノミノルに4馬身差をつけられ2着に終わった。当年の戦績は5戦4勝。3月18日の4歳A特別(中山、1着)から始動。そしてこのレース以降、保田隆芳が主戦騎手として手綱をとることになった。その後1着2回、2着2回の戦績を経て、5月13日の皐月賞(中山)へと挑んだが、またしてもトキノミノルに2馬身差の2着に甘んじた。続く6月3日の東京優駿(東京)では1馬身4分の1と、最も着差が縮まったものの、結局トキノミノルの2着に甘んじた。ところが6月20日、トキノミノルが破傷風で急逝。これにより、トキノミノルに替わる同世代ナンバーワンという声が高くなるが、実績は必ずしもその通りにはならなかった。東京優駿の後、7月1日の第1回安田賞(現在の安田記念。東京、1600m)で、1分38秒0のレコード勝ちを収めたレースを含め4連勝(内レコード勝ち2回)を果たしたが、2500mの距離で行われた9月23日の毎日王冠(東京)では、同世代のミツハタに敗北。しかし続く9月30日の優勝(東京、2000m)では、当年の秋の天皇賞馬となるハタカゼに7馬身の差をつけ、2分04秒0のレコード勝ち。さらに10月14日のカブトヤマ記念(中山)ではミツハタに5馬身の差をつけ、11月3日に行われる菊花賞(京都競馬場)へ向けて弾みをつけた。しかし菊花賞では圧倒的1番人気に支持されたものの、勝ち馬のトラツクオー、2着のサチホマレに6馬身も離される3着とまさかの完敗。さらにこの一戦で初めて、3着以下の着順に甘んじた。その後いずれも2400mの距離で行われた11月25日のセントライト記念(東京、2着)、12月9日の中山特別(中山、6着)では、ともにミツハタの前に敗れた。3月10日の特ハン(東京)から始動。このレースを含め以後5連勝を果たしたが、西下はしなかった。5月18日の東京杯(現在の東京新聞杯。東京、当時2400m)では1番人気に支持され、当年の春の天皇賞を勝ったばかりのミツハタと対決。しかしミツハタにレコードタイムで駆けられて2着に終わり、またしても2000mを超える距離で勝てなかった。その後最後のレースとなる7月5日のオープン(東京、1着)まで4戦して3勝したが、ついに2000mを超える距離では勝つことができなかった。一方で、レコード勝ちは通算4回マークしており、これに関連してライバルのミツハタに騎乗していた渡辺正人は、『いや〜(イツセイは)速かった。』と、後に述懐している。引退後種牡馬となり、1958年の皐月賞馬タイセイホープの他、1959年の春の京都記念を勝ったイリユウなどを輩出。同世代のライバルだったミツハタやトラツクオーは種牡馬時代、特筆すべき産駒を出しておらず、種牡馬として同世代では最も実績を残している。父系2代父のテトラテマや、同じく3代父のザテトラークの勝利実績がマイルまでの距離に偏っているため、大川慶次郎が自身の著書で、『イツセイの血統では、2000mを超える距離は基本的に持たない。』と述懐しており、実際にイツセイの2000m以下での戦績はトキノミノルの2着4回以外は全て勝利している。
出典:wikipedia
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