青木 宣親(あおき のりちか、1982年1月5日 - )は、宮崎県日向市出身のプロ野球選手(外野手)。現在はMLB・シアトル・マリナーズに所属する。MLBでは2014年から登録名を「Nori Aoki(ノリ・アオキ)」としている。日本プロ野球史上2人目のシーズン200安打達成者。及び日本プロ野球史上唯一の2度のシーズン200安打、歴代4位のシーズン安打記録(209安打)を保持する(2015年シーズン終了時点)。妻は元テレビ東京アナウンサーの青木佐知(旧姓・大竹)。2児の父。日向市立日知屋小学校に入学した後に1年生時から正式に全日知屋スポーツ少年団の一員となり、6年生時には投手として県大会優勝を果たす。しかし日向市立富島中学校ではチームがそれほど強くなく、県大会の上位進出は果たせなかった。宮崎県立日向高等学校では2年生時からエースとなり、3年生時の春季大会で優勝を果たすも夏の大会は準々決勝で敗れた。早稲田大学人間科学部スポーツ科学科に指定校推薦で進学。本人は「とにかく勉強するよりなかった」と語っている。高校時代に肩を壊したため、大学では野手へ転向した。早大の同期には鳥谷敬・比嘉寿光・由田慎太郎、1学年上には和田毅、1学年下には田中浩康、2学年下には武内晋一・越智大祐がおり、後に6人全員がプロ入りした強力打線「1番・田中、2番・青木、3番・鳥谷、4番・比嘉、5番・武内、6番・由田」でチャンスメーカーとして活躍し、早稲田大学野球部史上初の4連覇に貢献している。の3年春の東京大学1回戦では5打数5安打5打点1四球の活躍で、1試合6得点という六大学野球記録を達成した。同年の東京六大学野球秋季リーグ戦では、打率.436で首位打者のタイトルを獲得した。同リーグにおいて、ベストナインを3回受賞している。通算58試合出場で190打数63安打(打率.332)、0本塁打、20打点。2003年のドラフトでヤクルトスワローズから4巡目指名を受け、入団した。背番号は「23」。1月にアリゾナ州の球団施設でワークアウトを受け、球団首脳のプレーチェックを受けた。17日に交渉が纏まり、総額250万ドルの2年契約(3年目は年俸190万ドルの球団オプション)でブルワーズへの入団が決定。背番号は「7」。それまで着けていた背番号「1」はコーリー・ハートが、「23」はリッキー・ウィークスがそれぞれ着けていたため、それ以外の空き番号から選ぶ必要があった。スプリングトレーニングでは27試合の出場で打率.299、1本塁打、9打点、OPS.801を残し、スプリングトレーニング参加選手最多の4三塁打を記録。4月6日のセントルイス・カージナルス戦の5回に代打でメジャーデビュー。ハイメ・ガルシアと対戦し、1打数無安打に終わった。20日のコロラド・ロッキーズ戦ではメジャー初本塁打かつプロ入り後初となるランニング本塁打を記録。4月は主に代打や守備固め要員として起用されたが、5月から先発での起用が増え、5月下旬からスタメンに定着。6月7日のシカゴ・カブス戦では日本人初となる、サヨナラ本塁打を含む1試合2本塁打を記録した。前半戦は77試合の出場で打率.301、5本塁打、OPS.818、11盗塁の成績を残し、日本人選手としてはイチロー以来となる打率3割での折り返しを達成。後半戦当初は無安打が続き、7月は打率.260に終わるが、20試合連続出塁を記録するなど出塁率は.342を記録。8月以降は復調し、9月28日のシンシナティ・レッズ戦では10号本塁打を含むメジャー移籍後初の3長打を記録し、日本人ルーキー史上3人目の二桁本塁打・二桁盗塁を達成。10月2日のサンディエゴ・パドレス戦で日本人ルーキーではイチロー以来となる30盗塁に到達。後半戦は74試合の出場で打率.278、5本塁打、OPS.763、19盗塁を記録。日本人史上8人目の規定打席に到達し、シーズン通算では打率.288、ナ・リーグのルーキー中4位の出塁率.355、同7位タイの10本塁打、同1位の30盗塁などを記録し、新人王の投票では5位であった。1番打者としての出塁率.353はリーグ2位だった。は開幕から1番・右翼手としてスタメン起用され、開幕戦となった4月1日のコロラド・ロッキーズ戦では日本人史上4人目となる開幕戦での本塁打を記録。4月は打率.250に終わるが、5月は14試合でマルチ安打を記録し打率.343と復調する。6月5日のオークランド・アスレチックス戦でNPB/MLB通算1500安打に到達。5月25日のピッツバーグ・パイレーツ戦の第3打席から6月10日のマイアミ・マーリンズ戦の第1打席まで、球団タイ記録となる72打席連続無三振を記録。19日には育休リスト入りし第2子となる長男の誕生に立ち会う。7月8日のレッズ戦でシーズン100安打に到達した。前半戦は88試合の出場で打率.294、4本塁打、出塁率.360、10盗塁の成績を残す。28日のロッキーズ戦でNPB/MLB通算100本塁打に到達。8月10日のシアトル・マリナーズ戦では岩隈久志とメジャー移籍後初対戦するが4打数無安打を喫する。9月7日のカブス戦ではヤクルト時代のチームメイトの林昌勇から安打を放ちシーズン150安打に到達。後半戦は66試合の出場で打率.276、4本塁打、出塁率.350、10盗塁を記録し、シーズン通算では最終的に155試合の出場で打率.286、8本塁打、出塁率.356、リーグ11位の20盗塁の成績を残し、三振率5.9パーセントは両リーグで最も少なく、140本の単打はリーグ最多であった。シーズン終了後には全米野球記者協会ミルウォーキー支部の会員投票によりブランドン・キンツラーと共にチームの“unsung hero(縁の下の力持ち)”に選ばれる。10月29日にチームが翌年の契約オプションを行使。2013年12月5日にウィル・スミスとのトレードでカンザスシティ・ロイヤルズへ移籍。ロイヤルズでは東京ヤクルト入団時と同じ背番号「23」を着用することが12月10日に決定し、登録名は「Norichika Aoki」から「Nori Aoki」へ変更された。は開幕から1番・右翼手としてスタメン起用される。4月26日のボルチモア・オリオールズ戦ではチェン・ウェインとメジャー移籍後初対戦。6月10日のニューヨーク・ヤンキース戦では黒田博樹とメジャー移籍後初対戦する。5月下旬から死球による腕や足の痛みに苦しみ、5日のカージナルス戦ではヤディアー・モリーナの投手への返球が頭部に当たることもあった。6月17日のデトロイト・タイガース戦では左脚を痛め途中交代し、21日に軽度の肉離れと診断されてメジャー移籍後初の故障者リスト入りする。後半戦から復帰する予定だったが、アレックス・ゴードンの故障に伴い7月11日に復帰する。前半戦は69試合の出場で打率.260、本塁打なし、出塁率.328、7盗塁の成績で折り返す。7月24日のクリーブランド・インディアンス戦ではプロ入り後初の指名打者として出場し、延長14回にサヨナラ安打を記録。8月5日のアリゾナ・ダイヤモンドバックス戦ではロイヤルズ移籍後初本塁打となる満塁本塁打を記録。14日のアスレチックス戦ではNPB/MLB通算500打点を記録。8月24日まではシーズン通算打率.261、出塁率.330を喫し、この月絶好調だったジャロッド・ダイソンの起用に伴い出場のない日もあった。しかし27日のミネソタ・ツインズ戦から9月3日のテキサス・レンジャーズ戦まで6試合連続安打を記録してからは復調。15日にはこの日から3連戦となったシカゴ・ホワイトソックス戦で4安打を記録し、翌日の第2戦でも4安打を記録。さらに翌々日の第3戦でもクリス・セールから3安打を放ち、ジョージ・ブレットが持つ3連戦での球団安打記録を更新。15日からの1週間で14安打、長打3本、打率.636などと活躍して週間MVP受賞が期待されたが、実際の受賞者は先発投手として2勝0敗などを記録したコーリー・クルーバーであった。9月は打率.379と絶好調で、後半戦は61試合の出場で打率.317、1本塁打、出塁率.377、10盗塁の成績を残す。シーズントータルでは、故障の影響もあって打撃面ではメジャー挑戦後最低の成績で、盗塁数も最低の17に留まったが、守備面では初めてDefでプラス(0.2)になった。チームは1勝差で地区優勝には届かなかったがワイルドカードを獲得し、29年ぶりのポストシーズン進出を果たした。オークランド・アスレチックスとのワイルドカードゲームでポストシーズン初出場。9回に同点犠飛を放ち、チームは延長12回で勝利。ロサンゼルス・エンゼルスとのディビジョンシリーズ第1戦でポストシーズン初安打を記録。第3戦ではのフランク・ホワイトとジョージ・ブレットに次ぐ球団史上3人目のポストシーズン全打席出塁を記録し、チームも3連勝でシリーズを突破する。ボルチモア・オリオールズとのリーグチャンピオンシップシリーズも4連勝で突破し、チームのポストシーズン8連勝はメジャー歴代最長記録となった。サンフランシスコ・ジャイアンツとのワールドシリーズでは、第1戦は1-7で敗れチームの連勝が止まる。チームは第2戦で29年ぶりとなるワールドシリーズ初勝利を挙げるが、2試合連続無安打で第3戦から先発を外れ風邪も発症。第4戦では代打で出場するも併殺打を喫し、第5戦でも先発を外れ守備のみの途中出場に終わる。第6戦で先発に復帰。2打席目でワールドシリーズ初安打となる適時打を放ち、チームも10-0で勝利し3勝3敗となる。第7戦も先発出場するが3打数無安打を喫し、チームも2-3で敗れシーズンを終えた。ポストシーズン通算成績は41打数8安打で打率.195、出塁率.292、OPS.487、特にワールドシリーズでは14打数1安打で打率.071と精彩を欠いた。シーズン終了後にFAとなった。1月19日に、年俸470万ドル+出来高の単年契約(翌年の契約は年俸550万ドルの球団オプション)でサンフランシスコ・ジャイアンツと契約を結んだ。背番号は、ロイヤルズ時代と同じ「23」で、ベンチコーチのが着用していた背番号を譲ってもらう形となった。開幕から1番・左翼手としてスタメン起用され、開幕から9試合連続安打を記録。5月25日から27日のブルワーズ戦では3試合で9安打を記録し、28日のアトランタ・ブレーブス戦まで自己最長となる5戦連続マルチ安打を記録。6月は11日のニューヨーク・メッツ戦まで8試合連続安打を記録し、20日までにリーグ5位の打率.317を記録。オールスターファン投票の中間発表でも外野手部門4位に位置づけるほど好調を維持していたが、20日のロサンゼルス・ドジャース戦で右足に死球を受け右足腓骨を骨折し、21日に故障者リストに登録された。7月21日にAAA級サクラメント・リバーキャッツにリハビリ登録され、その後メジャーに復帰。8月9日、シカゴ・カブス戦でジェイク・アリエータから頭部に死球を受け途中交代。12日のヒューストン・アストロズ戦で復帰したが、4回が終わったところでめまいの症状を訴え、5回の守備からベンチに退いた。7日間の故障者リスト入りを経て20日に復帰したものの、その日から5試合連続で三振を喫するなど調子を落とした。そのまま試合に出続けていたが、打率は頭部死球前の.302から.287にまで急降下した。9月5日、練習前に脳震盪のような症状が再発した為スタメンを外れた。その後、数週間のリハビリが必要と診断され休養。シーズン中の復帰を目指していたが、そのままシーズンを終えた。最終的にMLB挑戦後初めて規定打席に到達出来なかった。11月4日に球団が契約オプションを行使せずFAとなった。2015年12月3日にシアトル・マリナーズと2017年の再契約をどうするかは球団・選手の双方が権利をもつことで正式に契約を結んだ。背番号は8に決まった。は開幕から不振に陥り、4月の月間打率が.205と出遅れた。5月は月間.284と持ち直したが、6月は再び不調で、6月24日にAAA級タコマへ降格となった。降格までの成績はMLB挑戦後ワーストとなる打率.247、OPS.636。特にこれまでのシーズンで得意にしていた対左投手との対戦成績が打率.177と苦しんだ。降格の理由の一つとして、監督のスコット・サーバイスもこの点を指摘している。マイナーでは打率.369と結果を残し、約一か月後の7月21に再昇格。復帰後は主に相手先発が右投手の時に先発起用され、打率.316と好調だったが、直近の対戦投手に左投手が集中するという理由で8月27日に最降格。9月6日に再昇格すると、20試合の出場で打率.379、3本塁打を放ち、チームのポストシーズン争いに貢献した。シーズントータルではメジャー5年間で初めて規定打席に到達せず、打率、出塁率はキャリアワースト、守備面でもキャリアワーストのDef-8.2を記録した。走塁面では盗塁成功率.438(7盗塁9盗塁死)に、牽制死も目立ち、各部門で不本意なシーズンとなった。日本プロ野球では通算打率.329を記録し、首位打者を3度獲得。安打を量産することから「安打製造機」と称される。メジャーリーグのスカウトからは「MLB以外でプレーしている選手の中で最高の選手。めっきり少なくなった理想的なリードオフマン」「パワー以外のすべてを兼ね備える。コンタクト能力に秀でており、2番打者として理想的な選手」と評されていた。卓越したミート感覚で安打を量産し、2ストライク後の打率は2007年には球界1位、2010年にもリーグ1位を記録。「強く振ること」を心がけ本塁打数が前年から10本増加した2006年からは二桁本塁打を記録する長打力も備えた。プロ入り当初は左投手を苦手としていたが、2005年から2011年にかけては右投手に対し打率.327、左投手に対し打率.333と左右の違いを苦にしなくなった。MLB挑戦後の2013年~2015年にかけては、毎年打率.330以上を記録し、対左を得意とするようになっている。10打数に1個以上の割合で四球を選ぶ選球眼も備え、2007年から2010年まで4年連続で出塁率4割以上を記録した。メジャーリーグ移籍後も三振率で両リーグトップを記録し、ブルワーズ時代に監督を務めていたロン・レニキーから「天賦の才を持っている。あんなに手と目をうまく連動させる選手は、これまで見たことがない」と絶賛された。打撃フォームは例年マイナーチェンジしており、「打てない時期が続くとき、元に戻せるなら問題は簡単です。なかなかそうはいかないから、逆にフォームをちょっとずつ切り替えていくことで打てない時期を短くできる」と言い、何通りかの打撃フォームを状態によって使い分ける。守備ではジャイアンツ移籍後は第2回WBCでも経験した左翼手として起用されている。ブルワーズ時代とロイヤルズ時代は主に右翼手として起用され、2014年まで右翼手としてDRS13、UZR12.9を記録。外野守備では捕球経路の取り方の不安定さとフェンス際の飛球処理に難があることが指摘されているが、スピードを生かした守備範囲の広さが高く評価されている。ヤクルト時代にはメジャーのスカウトから「肩は20-80段階で45(やや平均未満)。レフトが向いている」と評されるなど肩は特別強いわけではないものの、正確な送球を持ち味としている。一方で、FANGRAPHSにおけるDef指標では2012年から2015年の合計で-9.4としており、平均以下となっている。ヤクルト時代には中堅手として起用され、2006年・2007年と2年連続で300刺殺以上を記録(セ・リーグ1位)し、ゴールデングラブ賞に選出された。2008年には失策を減らしリーグ1位の守備率.996を記録。2005年から2009年までは簡易RFでリーグトップ3に入っていたが、2010年は右翼方向の打球の処理が悪くUZR-6.3と平均を下回り、失策や記録に残らない雑なプレーを見せることもあった。2009年には監督の高田繁から守備の怠慢さを指摘されており、特に2009年7月30日の広島東洋カープ戦での中堅守備では、田中浩康が弾いた打球に対するカバーを怠ったことで東出輝裕の二塁進塁を許した(記録は田中の失策)ことを試合後に厳しく叱責され、翌日から数試合、左翼手の福地寿樹とポジションを入れ替えられたことがあった。「複数ポジションをこなせるように」との当時の監督の古田敦也の方針で2006年に1試合(8月19日)だけ二塁手として起用されたこともある。走塁面ではコンスタントに一塁到達4秒を切り、バント安打時には3.68秒を記録。盗塁成功率はNPB通算76パーセントを記録している。メジャー移籍後は2014年までの通算70パーセントと成功率が落ち、またロイヤルズ時代は、メジャー屈指の俊足として知られるジャロッド・ダイソンの存在もあり、試合終盤には代走を送られることもあった。
出典:wikipedia
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