藤原 良仁(ふじわら の よしひと、弘仁10年(819年) - 貞観2年8月5日(860年8月24日))は、平安時代前期の貴族。藤原北家、左大臣・藤原冬嗣の七男。官位は従四位下・中宮大夫。承和10年(843年)請われて春宮蔵人となり、のち主蔵正・春宮大進と皇太子・道康親王に仕えて、承和13年(846年)に正六位上から従五位下に叙せられる。嘉祥2年(849年)従五位上・春宮亮に昇進する。嘉祥3年(850年)春宮大進・亮として仕えた道康親王の即位(文徳天皇)に伴い、二階昇進して正五位上・中宮亮兼右兵衛権佐に叙任される。天皇の側近として蔵人頭・右近衛中将を務めたほか、右馬頭・木工頭・大舎人頭・左京大夫などを歴任し、またこの間仁寿4年(854年)には従四位下に叙されている。しかし、次期皇位継承に関連して天皇と兄の太政大臣・藤原良房との対立が緊迫化した天安元年(857年)9月に越前権守に左遷される。翌天安2年(858年)2月兵部大輔に遷任、同年11月中宮大夫。母の服喪中の貞観2年(860年)8月5日病死。享年42。最終官位は中宮大夫従四位下。容姿が美しく、風神のように颯爽としており、服装も美しく非常に鮮やかな装いをしていた。人柄は淡雅かつ高潔で、仏教への信仰心も厚かった。若くして大学寮に学び、読書に耽った。馬が唯一の趣味で、公事を終えて退朝ののちは馬を愛玩していたという。また、孝心厚く、母の死の際には哀啼哭泣し血を吐いて気絶し、しばらくして蘇ったが、悲慟があまりに強くて病んでしまい、服喪中に没したという。注記のないものは『六国史』に基づく。
出典:wikipedia
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