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アメリカ陸軍情報部

アメリカ陸軍情報部(アメリカりくぐんじょうほうぶ、Military Intelligence Service, MIS)は、第二次世界大戦期にアメリカ陸軍が有した部局である。戦略的情報および戦術的情報の収集および分析を目的とした。第二次世界大戦中のアメリカ陸軍には、MISの他に信号保安局(Signal Security Agency, SSA)、防諜隊(Counter Intelligence Corps, CIC)といった諜報機関が設置されており、これら3組織の隊員は世界中で活動していた。太平洋戦線には日系2世の将兵で編成された語学要員部隊が派遣され、翻訳や情報収集、文書の分析、投降の呼びかけ、捕虜の尋問といった任務に従事し、戦後の対日占領任務にも参加した。また、リッチー・ボーイズとして知られるドイツ・オーストリア系隊員による語学要員部隊も存在した。アメリカ陸軍情報部(MIS)に先立つ情報機関としては、第一次世界大戦中に設置された軍事情報課(, MID)があった。MISを始めとする3組織はいずれもMIDおよび参謀第2部(Army G2)の指揮下にあった。MISが設置されたのは1942年3月のことである。第二次世界大戦のほとんどの期間を通じて、ヘイズ・A・クローナー准将(Hayes A. Kroner)が部長を務めた。MISの任務は戦略的情報および戦術的情報を収集・分析し、これの周知に努めることであり、前線に派遣されたMIS隊員は捕虜尋問官や情報分析官といった職を務めた。バージニア州内には、MIS管理下のドイツ人高官尋問施設があった。カリフォルニア州のトレイシー収容所(Camp Tracy)も類似の役割を持った施設で、日本人はこちらに送られた。MISによって収集された情報は、ロンドンおよびワシントンD.C.にある軍事情報研究部(Military Intelligence Research Section)のオフィスへ持ち込まれて分析を受けた。情報紀要(Intelligence Bulletin)は、MISが収集・分析した情報を元に作成された冊子である。枢軸軍の戦術や兵器に関する最新の情報を伝えるべく、前線の将兵に配布されていた。真珠湾攻撃の1ヶ月前にあたる1941年11月、サンフランシスコ・の内にて第4軍情報学校(Fourth Army Intelligence School)が設置され、まもなくMIS語学学校(MIS language school, MISLS)と改称された。MISLSの校長は日系将校ジョン・F・アイソで、その他に4名の日系人インストラクターと60名の生徒(うち58名は日系人)が所属した。1942年5月には最初のMISLS卒業生がアリューシャン列島や南太平洋の戦地に派遣されている。同年5月25日、軍事地域から全ての日系人を排除する旨の命令により、MISLSはミネソタ州へ移動し、1944年8月には同州のフォート・スネリングへの移転に伴いその規模が拡大された。MISLSは終戦までに約6,000人の卒業生を輩出し、そのうち85%が日系人だった。MISに所属した日系将兵の多くは帰米2世(日系2世のうち、日本で教育を受けた後にアメリカへ移った者)であった。MISLSの授業では、日本語の読み書き・会話・翻訳・通訳・草書の読み方や捕虜尋問、『作戦要務令』や『応用戦術』を使っての軍隊用語、日本の地理・歴史・文化といった、前線の日本兵から入手した手紙・日記・地図等の押収文書の翻訳や、日本兵捕虜の尋問の為に必要な基礎知識となる広範囲な科目を、6か月という短期間で集中して教え込まれた。日本語と英語のどちらかが不十分な生徒は、その訓練期間を9か月~1年に延長された。1週間の授業時間も、平日は9時間、土曜も4時間という極めてハードなスケジュールが組まれていただけではなく、膨大な量の宿題も出され、消灯時間を過ぎても明かりを求めて、トイレで勉強する学生も少なくなかったという。オーストラリアのブリスベーン郊外にあるに配属されたMIS隊員は、海軍乙事件の際には、現地の抗日ゲリラが福留繁から奪い取った新Z号作戦計画書の解読並びに翻訳に尽力した。他にも、大戦末期の沖縄戦では少なくとも日系人通訳兵(非MIS隊員)が170人、語学兵(MIS隊員)が152人派遣されていたことが判明している。沖縄戦では、防衛プランや軍隊の位置を示した文書、砲兵隊の位置を示した地図などの日本語文書を翻訳したことや、沖縄方言で投降を呼びかけたりしたことによって、沖縄戦の短縮に貢献し、MISが派遣されていなければ更に犠牲者が増えていたと言われている。一方、軍政府内の住民用尋問室では、日系人通訳による暴力的な尋問が行われることがあった。また、沖縄戦と進駐軍MIS隊員のなかには、「米軍が今もっとも必要とする人間」として認められた現実に満足して、日本人を見下す者もいた。当時の日本政府機関や民間の団体が、何らかの許可申請や陳情を行うのには、まずこの窓口にいる日系2世の担当官に媚を売る必要があった。任務の性質からMISの存在は戦中戦後を通して長らく極秘扱いとされ、元隊員らも日本側から「裏切り者」と非難されることを恐れて経歴を明かそうとしない者が多かった。MISの存在がアメリカ国内で公に知られるようになったのは、1972年にニクソン大統領(当時)が第二次世界大戦期の軍事情報の機密扱いを解除する大統領命令11652号を発令してからのことだった。1980年5月9日には、MISLSの後身にあたるカリフォルニア州モントレーにある(DLI)の3つの建物に、第二次世界大戦で戦死したMISの日系人兵士の名前が冠せられた。戦後55年経った2000年4月、部隊に対して授与されるものとしては最高級の栄典となるがMISに贈られた。2010年10月、アメリカ合衆国議会(第111議会)にて日系人部隊(MIS、442連隊、100大隊)への議会名誉黄金勲章授与に関する法案が承認された。授与式典は2011年11月に催された。

出典:wikipedia

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