五條天神社(ごじょうてんじんしゃ)は、京都市下京区にある神社。病気退散・厄除け・農耕・医薬の神として信仰されている。通称は「天使の宮」「天使社」。当初は「天使の宮」「天使社」と称し、後鳥羽上皇時代に「五條天神宮」へ改称された。社号の五條は、当社北側にある松原通がかつて五条通と呼ばれていたことに由来する。なお、社号の天神と菅原道真とは直接の関連はないが、境内社として筑紫天満宮があり、道真が祀られている。社伝によれば、創建は延暦13年(794年)、平安京遷都の折、空海が勧請したとされる。病気退散のため社前に靭(ゆき)を掲げて祈願し、室町時代以降は疫神、医道の祖神とされた。また伝教・弘法の両大師も唐への出発前、当社において無事帰国を祈願している。『義経記』では、一条堀川に住む陰陽師・鬼一法眼の謀略で源義経が北白川の印地大将・湛海と闘う場として当社が設定されており、また武蔵坊弁慶出生や義経・弁慶の出会いに深く関わる神社として登場する。『祇園社記』によれば、久寿年間(1154年 - 1156年)等の一時期には、祇園社(のちの八坂神社)の末社であったとされている。その後、大永8年(1528年)・天明8年(1788年)・元治元年(1864年)の大火に類焼するも、その都度復興している。例祭には厄祓けに訪れる参詣者が多い。また節分には宝船図が授与される。この古図は日本最古のものとされ、船に稲穂を一束乗せただけの簡素な図案が描かれており、厄除け・病除けのご利益があるとされる。元治元年(1864年)の大火後再建された社殿が東向きに鎮座する。また社殿裏には、下記の末社が建てられている。当社の境内は、中世には東西4町・南北5町の広さがあり、周囲は森で囲まれていたとされるが、天正14年(1586年)、豊臣秀吉が京都に通りを新設(天正の地割)した際、敷地内の鎮守の森などを貫通したことから一帯の地名が「天使突抜(てんしつきぬけ)」になったとされる。過去の文献では「天使壱丁目」「天子のつきぬけ」等表記が異なるものの、宝暦12年(1762年)刊『京町鑑』には現在とほぼ同じ表記の地名「天使突抜一町目」より同四丁目までが確認できる。また町内には東中筋通があるが、同書では通りの一部が「天使突抜通」と記されている。
出典:wikipedia
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