本項目では、フランスの皇帝ナポレオン三世が慶応または文久年間に江戸幕府に対して贈った馬(アラブ種)について記述する。1860年頃、西ヨーロッパでは微粒子病によりカイコが壊滅に近い状態に打撃を被った。これに対し、江戸幕府はフランスに蚕紙3万枚を2回に分けて寄贈。フランス側は返礼としてナポレオン三世から徳川家茂宛にアラビア馬(アラブ種の馬)を贈った。外務省では蚕紙は1500枚と15000枚としている。1863(文久3)年、公使に蚕紙寄贈云々勘定奉行に記録が残る。1865(元治2)年2月最初の蚕紙が送られ、8月に次の蚕紙が送られ、翌年、ロッシュが自身所有のアラビア馬1頭を将軍へ進呈する旨伝えている、と外務省資料にある。。1867(慶応3)年、馬の到着前から、現白井市の名主で目付牧士川上次郎右衛門ほか30人が横浜に行き、フランス人から飼育伝習を受けたと、白井市の資料にある。5月15日、綿貫夏右衛門と牧士、ほかに、別当という馬係26人に、伝習御用が命じられたと、『千葉県の歴史』にある。牧士らは、5月18日に横浜に行き、27日に戻って来た時には全員が洋装になっていた。新暦5月29日、馬はアルジェリアからフランス軍事顧問団の本隊より後、横浜に到着と、澤護(敬愛大学)は、論文に記している。輸送担当はシモン・カズヌーブで、社会情勢も分析した上で、文久は慶応(『輸入種牛馬系統取調書』の1860年は1866年)の誤りで、文久年間の送付説を明快に否定している。当時の技術では、蚕卵の送付は夏には行えず、澤に従えば、1866年初頭フランス着で、8月20日まで家茂の死去も秘されており、馬の送り先は家茂である。送付の時期についてのニ説は後述する。Meron Medzini "DURING THE CLOSING YEARS OF THE TOKUGAWA REGIME"(Harvard College 1971)では、士官2人に、フランス宮廷から乗馬指導者instructorも兼ねた年老いた馬師riding masterが同行してきたとある。旧暦6月26日(新暦7月27日)、馬はフランス人14人余りが横浜から乗馬し江戸城に届けられた。日本仏学史学界では、「奥祐筆手留めの慶応3年6月26日の条」と原典を示し、贈呈式の前に雉子橋付近の厩舎に一旦収容された、としている。大手門内下乗橋外で贈呈式が行われ、フランス人一等士官1名に大小一腰紅白縮緬五端、兵士4名に洋銀200枚が贈られた。2頭は将軍の馬として召され、残りは新橋の馬小屋に運ばれ、さらに翌日、牧士はフランス人と共に乗馬して横浜に戻り、翌年まで飼育を続けた後、馬は小金牧に移された。馬は26頭で、駒10、駄15、控1である。『輸入種牛馬系統取調書』と照合すると、駒は牡、駄は牝を示すと考えられる。控1の意味は不明だが、馬が25頭とする説の元になった可能性が高い。残り24頭が小金牧に来た事になる。贈呈式後、馬が収容されたのは、横浜の太田陣屋で、26頭の馬は5班に分けられ、1班に1人ずつの牧士と1頭に1人ずつの別当がつき、飼育方法の伝習訓練が行われた。『千葉県の歴史』の原文のまま人名を示すと、フランスの関係者にはシャノアン・デジャン、馬教師には、ダイクール・エッサ、プリガッシュ・カズヌプなどがいた。伝習は半年に及んだため、牧士は何度か交代している。1867(慶応3)年7月小金原続村々『乍恐以書付奉願上候(外国之馬茂小金牧江放被遊候風聞之儀ニ付)』があり、小金牧へアラビア馬が来た事が確認できる。御勘定奉行『亜刺比亜馬小金表江率移候義ニ付申上置候書付』との資料もある。片桐一男(青山学院大学)は、中野牧・下野牧の牧士がアラビア馬を引受け管理したとしている。原資料が同じと考えられるが、白井市の資料と一致する。1868(慶応4)年、馬は2度に分けて小金牧へ移された。1度目は、1月4日に神田橋御門外の騎兵屯所、後、1月22日に五助木戸御囲、正式には「中野牧厩詰用所」へ移された。新たに設けられた中野牧厩詰用所には囲い場、厩、詰所があった。『千葉県の歴史』には「放された」とあるが、野馬として放牧されたとすると、厩の存在、西洋式の飼育方法と矛盾する。五助木戸は五香駅の東に当り、厩詰用所は現在の陸上自衛隊五香駐屯地付近と推定される。詳細は小金牧参照。2月18日に1頭が病死した。2度目の移送は、3月5日で、1度目と同様に行われた。『千葉縣東葛飾郡誌』に、アラビア馬20頭が慶應期に将軍へ贈られ、小金牧の中野牧高木村に建てられた厩舎で、外国人2名が来て、すべて洋式で飼育されたが、約2年で維新となり成績は上げられなかった、うち1頭は後に駒場農学校で割と長生きした旨記述がある。厩舎の地名は、『千葉県の歴史』の記述と矛盾せず、下総で外国人を雇うことは異例であり、幕府の馬に対する重視を示す。『千葉県東葛飾郡誌』の記事の原文は、代々牧士の家系で、貴族院議員も務めた三橋彌によるものであるが、三橋彌は『千葉県議員名鑑』によると、1932年に65歳で、20頭は伝聞による誤差が入り込んだか、どちらか一方の移送の頭数か、最終的に残った頭数か、不明である。馬の到着時、徳川慶喜は大阪にいたため、慶喜は馬を見ていない事になる。松戸市の公式ホームページでは、馬は25頭、慶喜に贈られ、慶応3年4月には横浜に着いたが、大阪にいた慶喜の下には届かず、慶喜の写真にある馬は、ナポレオン三世から贈られた26頭には該当しないという説を紹介している。。農商務省農務局『輸入種牛馬系統取調書』(1888年、以下、取調書)には「佛帝ナポレオン三世ヨリ幕府へ送付セシ馬疋毛附写」として、牡11頭・牝15頭のアラビア名・フランス名、特徴を記した、1860年フランス宮内省「カアン」育馬学校から徳川将軍への馬送付時の書付が掲載され、計26頭の記載がある。うち、牝2頭に名前の記載がなく、体高・年齢が同じで色も似ている。同書発行時、何頭かは生存とある。1896年、村上要信『日本馬匹改良策』に、ほぼ同じ書付があるが、カアンがカマンになるなど、書付の原文ではなく『取調書』を写した可能性が高い。村上要信は、馬は文久元年横浜港に到着、若干が雉子橋の厩で飼育されたのを見た旨記している。一方で、文久元年に来たと信じていたため、別の馬の可能性も生じる。カアンは1935年帝国競馬協会『競馬に関する調査報告』で、「アルゼリー」に支所もあったCaenの馬の供給所と考えられ、誤植でなければ、原文を訳してカマンとなる可能性は低い。1868(明治元)年、4月12日、徳川慶喜が江戸を出て松戸宿に一泊、水戸街道を水戸に向かった。江戸中野牧厩詰用所が襲撃を受け、一部のアラビア馬と西洋馬具を奪われたが、4月28日には残った馬のうち、雄10頭が騎兵屯所へ移された。襲撃は慶喜の松戸宿宿泊後しかあり得ないため、4月12日〜27日の間と考えられる。牝については不明だが、元々、牡は11頭のため、奪われた馬はごく一部と推定される。将軍の馬として江戸城に留め置かれ、小金牧に来なかった2頭のうち1頭が牡なら、牡は奪われなかったことになる。『千葉県の歴史』では、馬が新政府の所管となったその後は不明とし、1873年にブリガッシュ・カズヌプが建白書を出し、その中で9頭を確認した事だけを記している。1871(明治4)年12月9日『仏国政府ヨリ旧幕府ヘ寄贈ノアラヒヤノ馬ニ付同公使ノ好意ニ答フ』『仏国政府旧幕府ヘ差送ノアラヒア馬散逸ニ付取聚収方伺』があり、明治維新に伴う馬の散逸が判る。文書に途上で馬を見たフランス公使の指摘から、散逸した馬と雉子橋の厩で馬が何頭か確認できた事、雉子橋の馬は大切に扱われ繁殖にも役立っている事、飼育等は来日したフランス「有名の牧師カズノブ」に聞くべき事等とある。この日の文書提出は、1894(明治27)年農商務省農務局『畜産要務彙集』でも裏付けられる。文書では、明治維新で大名の財産・権限をも取り上げた明治政府が、散逸後の馬の持ち主に対し、差し出させるのは甚だ不条理と異例の配慮を示し、「散逸」後の所有者に対する特別な配慮と馬の回収に消極的である事が判る。小金牧の高田台牧跡に広大な土地を所有し迅速測図に大隈邸と記載されるほどの家屋を有していた大隈重信の名も見られる。国内の混乱もあるにせよ、公使からの指摘後の捜索開始は、明治政府の馬の重要性に対する未認識を示す。文書中、フランス公使に対して使われた「気の毒」という言葉は、文脈と次の文書から、本来の「気分を害する」の意として使われた可能性が高い。馬は30頭とされている。1872(明治5)年4月5日付『先年仏国より厚意を以旧政府へ差送りたる亜刺亜馬の義に付大蔵省より掛合』では、馬が数頭とされ、別段蕃殖の姿も見えず、フランス公使より度々苦情申立てがあり、大蔵省から兵部省に、馬のうち静岡県に残っていた牡牝2頭を送るよう要請がなされている。同4月13日付『兵学寮より沼津兵学寮にアラヒヤ馬到着の儀に付申出』で2頭の到着が確認できる。1873(明治6)年、3月、澤護によると、再来日後のカズヌーフ自身による『産馬意見書』が提出され、その中で馬は小金牧へ連れて行き、係の教育指導に当たる手筈だったが、突然の変事により御破算になり、その後、馬も離散したが、9疋の種馬を確認していると記述がある。幕府の馬の重視と維新後の馬の散逸、カズヌーフへの具体的な地名の提示から、幕府の飼育計画の存在も判る。3月14日付『元勧農局用地雉子橋門外厩一棟秣置場一棟焼失』した。6月、カズヌーフが明治政府に雇用された。『函館ノ賊ニ応援スル仏国人ニ対シ遺憾ナキ旨ヲ公使ニ報ス』、フランス語の原文とともに『宮内省仏国馬術教師カズヌーフ雇入』の公文書が残る。1874(明治7)年11月21日、カズヌーフが死去した。カズヌーフ死去前後について、1886(明治19)年の今泉六郎『大日本馬種略』を再録した、1896年の陸軍乗馬学校の同名書に、最近、慶応3年秋、フランス皇帝ナポレオン3世からアルジェリー種の良馬が贈られ、この件について親しく詳細を聞いた「鼓(正しくは支が皮)氏」の話の概略としての記述がある。飼司カズヌーフが馬をつれて来た事と本邦馬産の改良を希望したものである事の後に「然ルニ當路者ソノ然ル所以ヲ察セズ徒ラニ尋常一様ノ進物ノ觀ヲナシ盡ク之ヲ姻族重臣ノ間ニ分チ」「維新ノ后、余、浪華ニ在リ、夙ニ彼ノ優種ノ暴殄ニ瀕セルヲ慨シ」馬を探した事と、福山藩にいた1頭は鼓の働きかけにより、兵部省を経て宮内省所有となり、それが若紫である事、越前家に残っていた3頭は旧家臣吉田某の私有となっており、事情により公有にならず、フランス人アマドーの手に落ちた後、行方不明になった事が記されている。さらに、それより前に、鼓が同行して奥羽の牧場へ探究に行ったが、カズヌーフが病に倒れ終に立たず、鼓の素志も画餅に帰したが、早く今日の盛代に逢ったので、カズヌーフの鬼(魂)ももって瞑すべきであるとある。鼓は『官員並御雇教師牧馬蓄産為取調宮城県外七県』から、カズヌーフと共にいた東北に赴いた鼓包武と考えられる。澤護論文とも一致し、内容が裏付けられる。鼓は馬の離散を強く批判しているが、長州出身の鼓が馬の到着時の幕府の内情に詳しかったとは考えにくい以上に、馬の離散に憤慨した時期を、維新後でかつ鼓が大阪にいたと記し、離散が維新後である事が二重に判る形になっている。時系列上、解りにくい話の構成であるが、離散が維新後というカズヌーフの話と矛盾しない。本邦の馬の改良を希望したのはフランスではなく幕府と考えられる事、馬の離散が幕府によるものと明記していない事、幕府陸軍創設に関り、フランス軍事顧問団とも接点のあった福山藩に馬が渡っていた事、旧親藩の旧家臣から新政府ではなく、カズヌーフの母国の人間に馬が渡り、その理由が省略されている事から、馬の接収に際し新政府側に、「ことごとく、姻族重臣の間で分ける」等、何らかの不手際があり、その不手際を鼓が知っていた事が示される。当時、鼓は大尉とはいえ、長州出身の陸軍軍人で、その意向に反して馬を手に入れ、新政府に馬を渡さなかった事から、アマドーはある程度の権力を行使できたと考えられ、御雇外国人として記述された『兵部省代たる林兵部少丞仏国アマド君との間に取極むる仮定約』『外務大少丞御省雇外国人へ相渡置臨時通行免状御返却可申候』の、1871〜74年に雇用された騎馬関係のフランス人アマド、『御雇外国人一覧』の騎兵関係のフランス人アマトルイの可能性が高い。『馬学書印刷の義に付伺』では、フランス騎兵教師として、アマト、カスヌーフが並んで記され、ほか2人の御雇外国人の名がある。雇用の期間・目的と国籍からアマドーはカズヌーフと交流があったと見られる。カズヌーフの俸給は最初250円、後に300円、アマドーは150円で、ブリュネとも親しく、フランス公使を通じて日本政府に苦情を申入れるだけの力を持ったカズヌーフに馬が渡らなかったため、鼓の話からも、3頭の馬はカズヌーフの死後、発見され、カズヌーフが見つけた9頭と別と推定される。福山藩の1頭も、鼓の話からカズヌーフが見つけた9頭と別の可能性が高い。1875(明治8)年の馬の動向について、1941年日本競馬会『宮内省下総牧場における競走馬の育成調教』には、「明治8年、勧農局試験場より牽入れられた16頭のうち、著名な牝馬吾妻號はナポレオン三世から贈与された7頭中の1頭、佛アラ高砂號の持込馬で、蕃殖成績優秀、現今尚この血液受けたるもの多く、今日の下総牧場の基礎となり、又本邦各馬産地に散在し斯界の為忘れることのできない功績を残してゐる」とあり、輸入馬の表に、老松・佛國産サラブレッド・鹿毛、高砂・佛國産アラブ・芦毛が記されている。1877(明治10)年、村上要信は兼務先の取香種蓄場で、巴里と名づけられたイロンデールを見たと『日本馬匹改良策』に記している。その後、イロンデールは駒場、ついで、上野で飼われ、一頭も子を産まなかったと記している。また、若干を雉子橋の厩で見たともしているが、厩が火事になる前以外、時期については不明である。『取調書』に出立前に交尾とあり、持込馬を産む可能性がある馬は3頭いるが、エルグエタガは巴里と名づけられ、複数の資料に子を産まなかったとあり、上野で飼育されていたため、高砂ではない。高砂は、アンマンスかファトマのどちらかである。芦毛の場合、個体差にもあるが、概ね6歳頃までには全身が白くなり、原毛色を見る事は難しくなるため、6歳で鹿毛とあるファトマが高砂である可能性は、ほとんどないため、高砂はアンマンスとほぼ特定される。血統書のないサラブレッドはあり得ず、また、本来、軍馬のため、老松はサラブレッドではなく、当時のサラブレッドに対する正確な知識の欠如を示す。一方、1917(大正6)年『馬の飼養蕃殖』には、アラブ種は体高が14ハンド(約142センチメートル)から14ハンド2(同147)、より大きいものもおり、サラブレッド種は14ハンド2から16ハンド2とある。『取調書』に一括してアラビア種とあるため、高砂と老松の種類を分けた特徴は、両者の体高の違い以外には見出せない。体高147以上の鹿毛の牝はいないが、1センチメートル、蹄鉄の厚み程度までの誤差を許容すれば、老松は146のナアーマである。あくまで仮定に基づくため、断定は難しい。鹿毛と黒鹿毛は日本でも以前から区別されていたため、147のダラダが老松の可能性も低い。千葉県両総馬匹農業協同組合関東軽種馬生産育成組合では、1878(明治11)年、吾妻が取香種蓄場に移管されたとしている。大町桂月の短編『三里塚の櫻』で、三里塚に「牝馬吾妻之塚」とある木標があり、吾妻が30年前の明治9年に死亡した旨、記している。同短編は大正5年とあり、死後30年なら、吾妻の死亡は明治19年である。塚は芝山の観音教寺に移され、「名馬吾妻之塚」とした石碑があり、傍らに吾妻が牡2頭牝9頭を産み、死亡を明治29年推定33歳とする説明文がある。桂月は飲酒しながら三里塚を訪れており、後述の吾妻の仔の生年からも、吾妻の死亡は明治29年が正しいと考えられる。前掲、宮内省下総牧場の資料は、実際に吾妻を飼育し塚を築いた下総牧場で書かれており、吾妻が高砂の持込馬である事の信憑性は高い。日本軽種馬協会JBBA NEWS 2006年9月号武市銀治郎の記事に、「明治10・11年内藤新宿試験場から香取種蓄場に牽入れられた高砂、四ツ谷、老松、巴黎、吾妻、第二四ツ谷など歴史に足跡を残した」とある。表記順からも吾妻は高砂の子、第二四ツ谷も名前から四ツ谷の子と考えられ、高砂、四ツ谷、老松、巴黎の4頭がナポレオン三世より贈られた馬で、巴黎=巴里で、エルグエタガにあたる。小金牧の将軍の乗馬用の場所で飼育されるはずだった馬の3頭は佐倉牧跡の宮内省の牧場で飼育された事になる。若紫は『宮内省より乗馬車の義掛合』で、1874年12月、陸軍省より宮内省に献上された「西洋種乗馬若紫」と考えられる。不用となり、1877年10月、陸軍への下渡しが決定されたとあり、前述の鼓の話は1874〜1877年の間と考えられる。『取調書』には、1874(明治7)年、亜喇比亜から陸軍省の購入として、「星栗毛 若紫 牡 同7年宮内省へ献納 同10年返付 同11年宮城縣へ貸付」とあり、年号も含め内容が一致する。牡で星栗毛はアラビア名ムーバレック フランス名ベニーだけである。『取調書』には、明治7年、亜喇比亜から陸軍省の購入として他に牝4頭の記載がある。若紫も含めた5頭のうち、購入金額が記してあるのは牝1頭だけのため、牝3頭は明治7年の輸入ではなく、すでに日本に持ち込まれていた可能性が高く、若紫同様、当記事に該当する馬の可能性があるが、断定はできない。参考として示すと、牝3頭は、浜名、三島は静岡県に同じ地名があるが、関係は不明である。『取調書』には、亜喇比亜より開拓使管理局及北海道庁購入として、の記載もある。村上要信は、明治元年は2年の誤りかも知れないとしているが、いずれも、開拓使の発足前である。1899(明治32)年陸軍騎兵実施学校『宮崎鹿児島両県産馬調査報告』に、日本到着は1863(文久3)年とした後、鼓談話の引用と見られる記述があるが、散逸の時期が判る部分は割愛されている。その後、ナポレオン三世の馬についてまとめられているため、重複も含めて示す。「慶応年間若干頭は薩摩に牽入れたるは更に疑無きが如きも確証なし。明治4年中は大蔵省牧畜掛所管の雉子橋官邸に未だ数頭養畜せられ居りたるも後ち行く所を詳かにせず。星青毛牝「パリス」号(明治4年雉子橋官邸に養われしものの1疋)は一時駒場農学校に畜養せられ後ち上野動物園に移され明治27年に斃れたり本馬は嘗て流産せし後遂に受胎せず。」ほかに、若紫が明治初年に兵部省、後、宮内省に移された事と「アマドー」(馬術教師)の記述がある。兵部省は明治元年には存在せず、明治初年は明治の初め頃を指す事になる。1913年『鹿児島県畜産史上巻』に、「最近に於いて著名なるは15代将軍慶喜の慶応3年秋」の後、鼓談話の引用と思われる記述があるが、「当路者」が「幕府当路の執政」と変更され、散逸の時期を示す部分は割愛されている。続けて、但し其の内若干頭は我薩藩に牽き入れられたること疑無けれど確証を得ず、とある。疑いはないという文面通りで時期が幕末なら、幕府から島津久光か薩摩藩士が馬を受け取り散逸に荷担した事になるが、大阪にいた慶喜を差し置いて、江戸の幕臣が薩摩に渡したとは考え難い。他の資料との整合性からも、維新後に薩摩藩の関係者が私物化し、「若干」を薩摩に持ち帰った可能性が高い。前述の明治政府による馬の持ち主への異例の配慮とよく一致し、長州の鼓の談話で馬の散逸が名指しではないものの非難され、散逸が維新後と判る形になっている事とも整合性がある。同じ『鹿児島県畜産史上巻』には、文久3年に当記事の馬が贈られ、薩摩の比志島牧に「鹿毛にて星及び白毛混れる洋種牡馬5頭を入れたるが」「牧中の牝馬と親和せずして一頭の産駒だに得ざりし」「該牝馬も漸く衰弱痩痒したりければ、御厨に引上げたりとなん」と記した後、『宮崎鹿児島両県産馬報告』とほぼ同じ内容を記述、諸書にある「若干は我薩摩に牽き入れられたりと云えば」この5疋ではないか、但し、口碑には英人医師ウルユスが船載せし馬匹と言うとの記述がある。比志島牧は慶応元年に廃止されたため、廃止前を指すなら、当記事の馬には該当しない。また、黒鹿毛等を入れても鹿毛の牡は3頭である。一方、小金牧から江戸に10頭の牡が移送されたのに対し、維新後に確認された牡馬が極端に少ない事とも矛盾せず、鹿児島に子孫を残さなかったため、疑いは確証がないという事とも合致する。なお、ウルユスは、1877(明治10)年『7月23日 旧ウルユス館へ本日転移 軍団砲廠』等の資料から、実在し、維新後、鹿児島に長期間滞在した人物と確認できる。時期、場所、国籍、職業はウィリアム・ウィリスと一致する。したがって、馬が鹿児島にもたらされたのは維新後になる。『南部馬史』では、後述の広沢安任鼓談話を基にしたと考えられる記述と、「蚕卵紙に報ゆるに我が有益にして殊に将軍の好めるを聞き之に贈答したる也」の記述がある。1903年『下総御料牧場要覧』の表に所有するサラブレッドが牝10、牡20、計30で、輸入年度内訳として牝の欄に文久年間6、明治10〜13年計7の数字と、備考としてフランスから幕府への贈与の記述がある。総数と内訳は合わず、牡の欄が空欄のため、6頭は牝だけなのか牡牝合計なのか不明だが、30頭は1871年の文書と一致はする。同文書に基づいたなら、一致は当然である。村上要信は、馬のうち1頭のイロンデールは巴里と名づけられ、1877(明治10)年頃、下総御料牧場の前身で村上の兼務先の下総種畜場、後に駒場農学校、さらに、上野の博物館での飼育を見た事と、この牝馬は子を全く産まなかった事を記している。1909年廣澤安任(談)『奥隅馬誌』に、子孫を残した馬もいるらしいが、騒擾で散亡し功を奏しなかった事、下総種苗場で残馬を見た事、1886(明治19)年の『時事新報』に生存するのは29歳のハリー号だけで駒場農学校にいる事等がある。『三四郎』に、野々宮君の先生が学生だった時分、「馬の先生」が酒代のため、構内で飼っていたナポレオン三世時代の白い老馬を売ったという話がある。構内は本郷を指すと考えられるが、東大に複数のナポレオン三世の馬がいた可能性より、駒場の話が入り込んだ可能性の方が高い。澤護は、1892(明治25)年エルグエタガ生存の新聞記事を紹介しており、青(黒)の毛色の外の特徴も、『取調書』と一致する。野々宮君の先生が学生の時分は漱石が学生の時分と重なるが、エルグエタガは葦毛の白馬ではなく、漱石は少なくともエルグエタガを見ていないと推定される。漱石自身が学生時代に聞いた話と考えられるが、「まさかナポレオン三世時代でもなかろう」とあり、信じていたか不明である。外に、上野動物園でのナポレオン三世から贈(送)られた馬の生存の話が、1888年前掲『取調書』、1893(明治26)年、子供向けの学齢舎『教育動物園』にあり、当時、広く知られていた事が示唆される。前掲『宮崎鹿児島両県産馬調査報告』によると、1894(明治)年に死亡した。『取調書』記載の馬について、順に、原文の番号、アラビア名、フランス名、特徴、幹(体高)、原文作成時点での年齢を記す。推定できるアラビア語の名前は、アラビア語での編集ができない事と、原文がアルファベットと考えられるため、アルファベットで表記する。『取調書』に○とある欄は○と記す。1926年『第1巻』〜の帝国競馬協会、『第11巻』〜日本競馬協会『馬匹血統登録書』(以下、巻数のみ)にある吾妻の子孫等、関連があると思われる馬を次に示す。『第13巻』までと『第18巻』甲種登録すべて、間の巻の主な馬の該当する系統、登録馬の登録番号を示す。見落しは多いと思われる。登録番号前のアングロアラブ種等を示す「は」、準サラ等種別表記は略す。「に」は雑種とされる「乙種登録」を示す。『第2巻』のアングロアラブ種の登録番号は、30〜152で、高砂の血統は約1/4を占める。『第3巻』以降、各巻のアングロアラブ・ギドラン等の登録番号の最後は『第10巻』まで、292、400、468、551、630、763、940、1056、『第14巻』まで、1146、1231、1321、1603、『第18巻』まで、1781、1957、2087、2259で、登録番号で出典を示す。牡のみ牡と記す。牝が続く牝系の子孫は最初の牡まで高砂のミトコンドリアを引継いでいる。ツとッ等は区別されていない。吾妻が明治3年生なら、高砂の日本への持込馬ではないが、初期の子孫の多くが下総御料牧場産で、前述の吾妻の特徴に該当する馬は他になく、高砂の子と考えられる。馬齢の数え方の混乱か、幕府からの引継ぎの関係で明治生まれとした可能性も高い。吾妻・第2高砂・第2四ツ谷の父馬も本稿に該当するなら、子孫を残した馬がさらに多い事になるが、想像の域を出ない。初期の馬については『馬匹血統登録書』と矛盾する部分もあり完全に信用はできないが、『競馬成績書』等の産地・親馬・種類等から複数の条件の合う馬を示し、『第18巻』以降は、日本軽種馬協会の検索システムJBISによる結果と他の馬も検索できる事を示す。他、前述の資料からの推定はその旨を記す。戦後は主に系統の中で最も若い馬を示す。高砂の血統は、21世紀のザラストアラビアンに及び、セカイライフ以降のサラブレッドにミトコンドリアが引継がれている例もある。一部の馬でナポレオン三世にもたらされた遺伝子の比率を誤差を避けるため分数で示す。高砂-第一高砂-トヨ1931年6歳の資料もあるが年齢から各同名の別馬と推定『登録書』に明記されてはいないが、他で高砂の子孫とされ、生年と生産地から可能性がある馬を参考として示す。原典未確認のため、『第6巻』までと、主な馬、原典が示せる馬を記す。馬が到着した時期については、文久・慶応の両説があるため、前述の内容と重複するが、両説の根拠を併記する。1861〜1864年が文久、1864〜1865年が元治、1865〜1868年が慶応だが、いずれも年の途中に改元され、また、太陽暦・太陰暦、馬齢の数え方のずれにも注意が必要である。『取調書』の書付には1860年とある。26頭の馬の名前・特徴がそれぞれ記され、農商務省の文書であり、信憑性は高い。明確な根拠がない限り否定しがたい。後に、1866年を1860年と誤った可能性はあるが、当時の日本人が慶応を文久と誤るとは考えにくい。日本着は翌1861(文久元)年と考えられる。実際に馬を見た村上要信は前掲書に書付の写しを掲載し、1860年に我が萬延元年と注釈をつけており、疑いを持っていなかったと考えられる。廣澤が触れた、ハリー号が明治19(1886)年に29歳とする新聞記事は、現在、馬の生年月日が不明のため、『取調書』の書付と照合した場合、三通りの考え方ができる。書付と新聞記事の年齢を満年齢とし、イロンデールが7歳のうちに日本着とすると、29歳はその22年後のため、1864(文久4)年日本着である。残り二通りは慶応の節に記す。『下総御料牧場要覧』に文久年間に輸入、『畜産要務彙集』では蚕種数万枚に対する返礼として文久年間に来たとしている。今井吉平の記述は、第二次長州征伐前の時期の将軍の権威に関する認識の欠如を示す一方で、大正初期には馬が文久期に来たと信じられていた事を示す。今井幹夫は蚕卵紙が文久元年と慶応元年の2回にわたって送られ、馬は文久年間に来たとしている。廣澤安任は、慶応2年末〜慶応3年末(太陽暦1867年1月〜1968年1月)在職の慶喜公の時に来たと記している。会津藩士であった廣澤が将軍の在職期間を間違える可能性は低い。廣澤が触れた新聞記事は、日本での年齢を数えとするか満年齢とするかでさらに二通りの考え方ができる。書付の7歳を、日本人が当時の習慣に従い、数えの8歳と考えたとすれば、日本着は数えの9歳、数え29歳はその20年後のため、日本着は1866(慶応2)年となる。新聞記事の29歳を満年齢とすると、8歳、1865年(元治元年・慶応元年)日本着になる。『東葛飾郡誌』の記述は、鎌ヶ谷の牧士の末裔で貴族院議員でもあった三橋彌による明治39年の新聞記事を掲載したものである。少なくとも小金牧へ来たのは慶応年間であった可能性が高い。慶応2年2月25日作成とされる『亜剌比亜馬横浜表江牽移候義ニ付申上候書付』の内容は未公開のため、アラビア馬到着の前か後か不明だが、国内から横浜にアラビア馬を移送する可能性は極めて低い。慶応2年12月29日「仏国帝へ製鉄器械語学伝習大砲寄贈三兵伝習留学生委託「アラヒヤ」馬種ヲ伝ウル等ノ数件ヲ陳謝ノ国書」とする資料が残る。今泉六郎は前掲書中で慶應3年秋に贈られたと記している。旧暦での秋は7〜9月である。カズヌーブがブリュネと行動を共にする等、軍事顧問団の一員とする資料、カズヌーブと馬を結びつける資料は多い。輸送の手間を考慮すると、馬は、1867年1月(慶応2年12月)の軍事顧問団より後に到着した事になる。今井吉平自身、「カズヌーフ」が「附添来れり」と記している。ただし、今井はイロンデールをアイヨンデールと記し、書付の原文は見ていないと考えられる。クリスチャン・ポラックによれば蚕卵紙の発送は1965年11月で、澤護の説を裏付けている。
出典:wikipedia
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