実隆本源氏物語系図(さねたかほんげんじものがたりけいず、略して実隆本)とは、三条西実隆が整えた源氏物語系図をいう。内容の異なる幾つかの系図が現存するが、最初の完成は1488年(長享2年)である。実隆本以前に存在した全ての源氏物語系図は、大きく九条家本の流れを汲むもので、現在では一般的な本文である青表紙本や河内本が成立する以前の本文に基づいて作られたものであり、巣守三位など現存する源氏物語の中には現れない人物についての言及もしばしば見られるなど当時の標準的な本文となりつつあった青表紙本による源氏物語とはしばしば整合性の取れないものであった。そのような中で三条西実隆によって整えられた「実隆本」はそれ以前の古系図とは形式と内容がいくつかの点で異なっていた。実隆本以前はさまざまな源氏物語系図が存在したが、実隆本が成立して以後は湖月抄に収められた天文本などのわずかな例外を除いて実隆本の流れを汲むものが主流となっていった。池田亀鑑は源氏物語系図を時代で区分し、実隆以前のものを「(源氏物語)古系図」、実隆以後のものを「新系図」と呼んで区別した。(すみれ草以降は更に別とする)三条西実隆の日記「実隆公記」の記述や現存する複数の「実隆本源氏物語系図」の内容や奥書の違いによって、少なくとも4ないし5種類の系統の「実隆本源氏物語系図」が存在することが確認出来るため、一度に完成したのではなく何度か繰り返し考察を加えて改定・発展していると見られている。「実隆公記」の記述によると、もともと三条西家には源氏物語古系図が存在したと見られ(これが昭和初期になって三条西家に所蔵されていた源氏物語古系図として三条西公正によって紹介されたものと同じであるかどうかは不明)、それを書写したり貸し借りしたり、校合を行っていた。また宗祇や肖柏といった源氏物語に造詣の深い当時の知識人たちの源氏物語についての講釈を聞き、あるいはこれらの人物と議論を交わしている。また既存のさまざまな古系図を調べ、その校合や改訂を行っていたが、部分的な校訂では飽きたらずに全面的な改定を行うことになった。実隆によって行われた「実隆本系図」の作成は、いわゆる三条西家本と呼ばれる源氏物語の本文の制定や細流抄などいくつかの三条西家系統の注釈書の作成などと合わせて三条西家の源氏学を形成するものである。「実隆公記」には源氏物語に関連する記述を数多く確認することが出来、その中に源氏物語系図に関連する記述だけでも以下のような記述が見られる。なお、実隆公記には日記そのものの記述の他に、日記に転用した手紙等の紙背文書にも源氏系図関係の記述を持つ文書が幾つか見られる。実隆本源氏物語系図としては以下のものが現存する。この他に実隆の日記によれば「永正17年」のものが存在すると考えられるが、これに属すると考えられる写本は現存しない。古系図と対比したときの実隆本系図の最大の特徴は人物の配置にあるとされる。古系図ではある人物の子孫を並べるときにまず長子を記述し、その後に「父親→長子→長子の長子→長子の次子→次子→次子の長子→次子の次子」という順序で長子の子孫を全て記述してから上の世代に戻って次子を記述するという、「しばしば下の世代から上の世代に戻ることのある配置」を原則(=旧原則)としており、これに対して実隆本はまず長子以下の子をすべて記述し、その後「父親→長子→次子→長子の長子→長子の次子→次子の長子→次子の次子」といった順序で記述していくという親の世代、子の世代、孫の世代がそれぞれまとまって記述される「下の世代から上の世代に戻ることのない配置」を原則(=新原則)とするとされるが、長享2年本は冒頭部分のみ新原則に則って記述されており、その他の部分は古系図以来の旧原則のままである。これに対して明応8年本では長享2年本とは逆に後半部分のみ新原則になっており、その他の部分は古系図のままの旧原則になっており、試行錯誤の跡が見られる。文亀4年本に至って初めて系図全体を一貫して「下の世代から上の世代に戻ることのない配置」(=新原則)で記述されるようになっている。実隆が作成した源氏系図の最初の版であり、長享2年6月10日に伏見宮邦高親王に献上したものの系列であると考えられる。古系図と比較したとき個々の人物の記述が大幅に変わっているが人物の配列方法は冒頭部分を除いて概ね古系図のものを受け継いでおり、冒頭部分にのみ「下から上に戻ることのない」といういわゆる「新原則」で並べられている。この系統の系図には以下のような長い跋文が付されている。「光源氏の物語系図といふ物、いずれの代より出き、誰人のしわざなりといふ事をしらず、異同まち/\にして、是非わきまへがたし、さだめて展転書写のあやまりなるべし、この比この物がたりに心よするともから三四ヶ年かほと互にあひかたらひ五十余帖のうちしつかにひらきみて煩乱をかりたいらけ浮詞をきりきる就中氏族たしかならす前後みえさる輩をは一巻/\におきて一人/\をしるせり但わらは随身こときそのしなかすにもあらす、そのことわささせる詮なき物にいたりてはこれをのそくついにして詞論潤色をへすなはち書写校合をとくるもの也、おほよそ彼物語は代々のもてあそび物として、家々の注釈かずおほしといへども、桃花坊の禅閣の花鳥余情を抄して、松岩寺の左府の河海の遺漏を決し給へるに過ぎたるはなかるべし、彼序にも残れるをひろひ、あやまりをあらたむるは先達のしわざにそむかざれば、後生のともがらなんぞしたがわざらんやと、筆を残し給はれば、今の系図のおもむき此義理にひとし、かくさだめおける中にも、なおあやまりなきにあらざるべし、将来の君子かならず心ざしをおなじくすべしといふことしかり、ときに長享二のとし青陽の三月、これをしるしおはりぬ」なお、実隆公記によれば長享2年本には上記の跋文にあるように3月に一度邦高親王に献上したものと6月になって改めて献上したものとが存在することになるが、現存する者は全て6月本の系統であると考えられる。長享2年本の系列に属すると考えられる写本には以下のようなものが存在する。長享2年本と比較すると人物の配列方法について旧原則と新原則とが逆転するなど一新されている。明応8年本の系列に属すると考えられる写本には以下のようなものが存在する。古系図やこれまでの実隆本系図と比べると、人物の配列方法が新原則で一本化されており、実隆本源氏系図の一応の完成に位置づけられている。文亀4年本の系列に属すると考えられる写本には以下のようなものが存在する。この他に絵入源氏物語(慶安三年版、承応三年版)、首書源氏物語といった版本に収められている系図もこの系統に属する。その他以下のような版本に附載された系図が文亀四年本の系統であると認められる。この永正9年本では古系図から文亀4年本まで同一人物であるとされている鬚黒の父であり今上帝 (源氏物語)の外祖父にあたる左大臣と冷泉帝の女御の父である左大臣を別の人物とするという形で左大臣の系譜に手を入れている。この系統の系図には以下のような奥書を有している。永正9年本の系列に属すると考えられる写本には以下のようなものが存在する。ワールド・デジタル・ライブラリー 国際連合教育科学文化機関によるデジタル・ライブラリープロジェクト
出典:wikipedia
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