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ジャンプ放送局

『ジャンプ放送局』(ジャンプほうそうきょく)は、1982年10月から1995年12月まで集英社の少年向け漫画雑誌『週刊少年ジャンプ』において連載された読者投稿コーナー。略称はJBS(Jump Broadcasting Station)。コーナー全体を放送局(JBSという略称と開始当時のロゴがTBSのパロディ)、個別のコーナーをテレビ番組に見立て、テレビ番組や芸能、友人に関すること、スポーツ、ゲーム、ジャンプ連載の漫画など、多岐に渡るテーマで投稿ハガキを募集し、構成担当(放送局長)のさくまあきらによって選ばれたハガキが誌面に掲載されるという形を取っている。また当時の漫画誌の投稿コーナーには無かった「半年を1レースとし、掲載されるごとにコーナーに応じて得点が加算され、1レースを通じての総合得点を競う」という方式をとった。レースで競い合うことなどから、投稿者を「投稿戦士」「戦士」と呼称している。開始当初は土居孝幸によるオリジナルキャラクターの局員達が誌面をにぎわせていたが、程なく実在のスタッフたちも頻繁に誌面に露出するようになった。ハガキ1枚採用につき、そのコーナーの掲載得点分のJBS缶バッジ(約30種類でランダムに選ばれる)と、リーフレットの「JBS新聞」が送られた。また、優勝者には豪華賞品と集英社ジャンプ編集部への招待(同時に取材を行い、その模様が冒頭2ページに独占掲載された)、最も高得点を獲得した新規投稿者には新人賞(過去に1枚でも採用された者がペンネームを変えた場合は対象外)、ランキングベスト10に入った投稿者には単行本1ページ(1期6代目までは3分の1ページ)を自己PR等に使用できる権利が与えられた。ジャンプでは読者コーナーも他の連載漫画作品と同じく雑誌付属のハガキによる読者人気アンケート調査の対象とされている。その中で厳しいランキング競争を勝ち抜き、13年2ヶ月(3期計27レース)の長期に渡り連載が続けられた。一方、他のジャンプ掲載の漫画はジャンプ放送局のアンケート順位を上回れるかが連載継続の1つの目安とされていた。このことについて、さくまは「投稿コーナーより人気の無い作品はまずい」「数々の連載が打ち切りに追い込まれて申し訳ないと思っている」と語っている。また、ジャンプの他の漫画作品と同じくジャンプ・コミックスから単行本が刊行された(以下、巻数のことを「VTR○(○は数字)」と表記する)。VTR15では読者からの投稿ハガキを集めた単行本として巻数の新記録を樹立、最終的に全24巻におよび、漫画雑誌の巻末投稿コーナーとして1つの金字塔を打ちたてた。ジャンプ放送局開始以降、影響を受けた投稿コーナーはジャンプ系のみならず他誌にも多数見受けられ、「放送局」形式はひとつのフォーマットとして定着している。連載が長期にわたる中で、さくまが眼精疲労、頚椎椎間板ヘルニア等により体調を崩してしまい、毎週送られてくる約4万通の膨大な投稿ハガキに目を通し続けるのは厳しいという判断から、1995年12月にJBSは終了した。なお、コミックスの発売時期などから誤解されがちであるが、さくまが脳内出血で倒れたのはJBS終了後、『チョコバナナ』の編集長を務めていた時のことである。また、JBS終了の告知は本誌より先にJBS新聞で発表されていた 。2010年8月30日に、ニコニコ動画で連載当時のスタッフが集結して『帰ってきたジャンプ放送局』が放送された。同年11月27日には第2回が放送された(後述)。JBSでは投稿者のことを「投稿戦士」と呼んでいた。『ビックリハウス』、『VOW』、『月刊OUT』、『ファンロード』、『ゲーメスト』などの雑誌の投稿コーナーや『オールナイトニッポン』、『コサキン』などのラジオ番組の、いわゆるハガキ職人の投稿層と重なることが多い。活躍した投稿戦士の中には現在、マスコミ四媒体で活動している者も少なくない。またミクシィではジャンプ放送局のコミュニティに元・投稿戦士が名を連ねており、ツイッターやフェイスブックにおいても交流が行われている。歴代30位以内の投稿者他多数。ジャンプ放送局の通称JBSは前述の通り「Jump Broadcasting Station」の略であるが、同じ略称を用いる実在の放送局(放送事業者)に、社会福祉法人視覚障害者文化振興協会の運営する視覚障害者向けラジオ放送「JBS日本福祉放送」がある。このJBSとは「Japan Broadcasting Service For Persons With Visual Impairment」の略称である。JBS日本福祉放送の開局は1988年(JBSへの呼称変更は1992年から)であるため、1982年に始まったジャンプ放送局のほうが、現存する放送事業者よりも先にJBSの呼称を使用していたことになる。放送局以外では、日本ビジネスシステムズがJBSの略称を使用しており、かつては新日鉱ホールディングス(現・JXホールディングス)の総合人材サービス会社である株式会社JBS(現・JXキャリアサポート)が存在した。初期のJBSでアシスタントをしていた猫乃都は、JBSに加入する以前に『ファンロード』の方で活動しており、同誌1985年1月号では彼女の漫画と共に土居の手による「ジャンプ放送局の逆襲!」という1P漫画が掲載、出版社の枠を超えた出張、夢のコラボレーションが実現した(ファンロードの編集長・イニシャルビスケットのKこと浜松克樹とさくまが親友同士であった、ジャンプの連載作品をファンロードが度々取り上げていた、など両雑誌は関係が深かった)。同漫画ではさくまがAUTO・MAG、冨田英義、紅林由紀宏、邦宅杉太など当時の常連達に「おまいらジャンプ放送局で実力つけてからロードに投稿すなっ!!」「まったくジャンプ放送局の投稿者の頭脳流出が多すぎる!!」とツッコミを入れ、そのあと「こんなことでへこたれるわしらではない!!」と猫乃都がJBSのアシスタントに加入する旨を宣伝した。要は常連投稿者流出の逆襲として猫乃都をロードから引き抜いた、ということらしい(実際にそのような取引が両者でなされていたかは不明)。そして最後に、当時さくまが編集・自費出版していた漫画雑誌『マンガハウス』の宣伝がなされていた。それによると同誌一巻にはファンロード常連の椎名崇、二巻には猫乃都が漫画を描いたそうである。ニコニコ動画内ニコニコ生放送で、2010年8月30日に『さくまあきらアワー 〜帰ってきたジャンプ放送局〜』が、同年11月27日には『さくまあきらアワー 〜また帰ってきちゃったジャンプ放送局〜』が放送された。さくまあきらを始めとした連載当時のスタッフが出演し、ジャンプ放送局が文字通り放送として復活を果たした。さくまと親交のあるお笑いタレントがゲストとして招かれ、ジャンプ放送局への思いを語っている。その中で麒麟の川島明や鉄拳もハガキを投稿していたというエピソードが語られた(なお、掲載されることはなかった)。

出典:wikipedia

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