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多胡羊太夫

多胡羊太夫(たご ひつじだゆう)は、奈良時代天武天皇の時代(672年〜686年)に活躍したとされる上野国(群馬県)の伝説上の人物(豪族)。伝承では多胡郡の郡司だったとされる。多胡碑によれば、「和銅4年に近隣3郡から300戸を切り取り「羊」なる者に与え多胡郡とした」と記載される「羊」なる者であるとされる。なお、多胡碑の原文は漢文であり「給羊」の句があることから発想された。人名説以外に方角説時刻説などがあるが、現在学説では人名説が有力である。名前については、多胡(藤原)羊太夫宗勝、小幡羊太夫とも表記されることがある。『羊太夫伝説』では、武蔵国秩父郡(現在の埼玉県秩父市または本庄市)で和銅(ニギアカガネ)と呼ばれる銅塊を発見し朝廷に献上した功績で、多胡郡の郡司とともに藤原氏の姓も下賜されたと伝承される。この和銅発見により、年号が慶雲から和銅に改められたとされる(続日本紀卷四。ただし、実際の発見者と羊太夫が同一であることは証明しきれない。)上州小幡氏が多胡羊太夫の子孫と称する。現代でも群馬県高崎市及び安中市の多胡氏を羊太夫の流れを汲むとする説もある。(群馬県安中市中野谷の羊神社由来)伝説によれば、羊太夫は、武蔵国秩父郡(埼玉県本庄市児玉町河内(神子沢)羊山(ツジ山)には、羊太夫に関連すると伝わる採鉄鉱跡と和銅遺跡がある)で和銅を発見し、その功により藤原不比等から上野国多胡郡の郡司と藤原姓を賜り、渡来人の焼き物、養蚕など新しい技術を導入、また蝦夷ら山岳民と交易するなど、地域を大いに発展させたが、)(武蔵国高麗郡の)高麗若光の讒言により朝廷から疑いをかけられ、討伐されたとある(群馬県安中市中野谷の羊神社由来)。斎藤忠『日本古代遺跡の研究 文献編』によれば、多胡羊太夫は、蘇我氏に滅ぼされた物部守屋滅亡(587年)に連座し、上野国に流された中臣羽鳥連の末裔であるとしている。 考古学者尾崎喜左雄(元群馬大学教授)は、「(伝承によれば、多胡碑のある多胡郡には)帰化人が多かったはずなのに(多胡羊太夫がいたとされる群馬県高崎市)吉井町付近にはそれを思わせる大きな古墳がないのは不思議だ」と同時代の他の地区との間に文化的差異があったことを指摘している。多胡碑によると「和銅4年に近隣3郡から300を切り取り「羊」なる者に与え多胡郡とした」とある。ただし、多胡碑は金石文であり、「羊」の解釈については、方角説、人名説など長い間論争がなされてきた。現在では、前述した尾崎が主張する人名説が有力とされている。「羊」が人名であるとした場合、その正体は、など、さまざまな説が百出しているため、はっきりしない。上野国風土記などの古風土記は、これについての記載がなされていると考えられるが、現存しておらず、その逸文も発見されていない。流石に渡来人、キリスト教徒であるという説は、確たる証拠等が出土しない限り、納得できない。ただし久保有政は、仏教伝来の歴史においてシルクロード経由で大乗系の仏教が日本に伝わってくる間に、ユダヤ教やゾロアスター教やネストリウス派キリスト教の影響をかなり受けていることを指摘しており、キリスト教とは言えないまでも、奈良時代には仏教と混交した形で入っていると主張している。『日本書紀』によれば当時数十戸を賜う対象は皇族の皇子くらいの者であり、臣下に当たる「羊」が300戸も賜わったのには相当な理由や功があったと推測できる。以上のように、伝説の羊太夫と多胡碑の「羊」は、同一人物ではなく、存在した時代等に差異があり、多胡碑の「羊」が太夫伝説の羊太夫のモデルとなった、とするのが妥当であろうという趣旨の説を古田史学会を中心とする郷土史家が主張している(増田修「多湖碑の「羊」と羊太夫伝承」、古田史学会『市民の古代』第10集、1988年)。伊藤東涯による『盍簪録』(1720年(享保5年))や青木昆陽による『夜話小録』(1745年(延享2年))をはじめとする数多くの古文書や古老の伝承などに、次のような『羊太夫伝説』がみられる。この『羊太夫伝説』で、筆録された写本や地方史誌等に集録されているものは、二十数種あるとされる。この話の舞台は、群馬県西南部を西から東に流れる鏑川流域に沿った地域と秩父地方である。それぞれの『羊太夫伝説』にほぼ共通するあらすじは、次のようなものである。昔、この地に羊太夫という者がいて、神通力を使う八束小脛(ヤツカコハギ。八束脛ともいう)という従者に名馬権田栗毛を引かせて、空を飛んで、都に日参していた。あるとき、羊太夫が昼寝をしている小脛の両脇を見ると羽が生えていたので、いたずら心から抜いてしまったが、以後小脛は空を飛べなくなってしまい、羊太夫は参内できなくなった。朝廷は、羊太夫が姿を見せなくなったので、謀反を企てていると考え、軍勢を派遣し、朝敵として羊太夫を討伐した。落城間近となった羊太夫は、金の蝶に化して飛び去ったが、池村で自殺した。八束小脛も金の蝶に化身し飛び去ったとされる。しかし、『羊太夫伝説』のなかには、著しい差異がみられる古文書もある。『神道集』(文和・延文年間・1352年〜1361年)においては、羊太夫は、履中天皇の時代(400年〜405年)の人として登場する。この話では、羊太夫自身が神通力を持ち、都と上野国を日帰りしたという話が残されている。また、687年に創基した釈迦尊寺(群馬県前橋市元総社町)には、羊太夫のものとされる墓がある。寺の由来では、中臣羽鳥連・妻玉照姫・子菊野連は、守屋大連の一味同心として、蒼海(元総社)に流罪となるが、後に大赦を受け、菊野連の子青海(中臣)羊太夫が、玉照姫が聖徳太子から譲り受けた釈迦牟尼仏の安置所として、釈迦尊寺を建立したとされる。伝承では、羊太夫の従者である八束小脛は神通力を持ち、大いに太夫を助けたとされる。また一部の伝承によっては、山の知識に優れていたとも、馬術にすぐれていたともされる。このことから小脛は、羊太夫に協力した渡来人や蝦夷等の人格化ではないかとする説がある。他にもその正体については、山岳信仰の現れとして山神・天狗の類であった説、名前通り土蜘蛛、つまり蝦夷であったという説、役小角に縁のある修験者であったり、鉱山を探す山師であったり、高い呪力を持つシャーマンであったりと諸説あり、伝承によっては、男であったり男装の乙女、物の怪ともされる。ある時期に、渡来人や蝦夷等の協力が得られなくなったことが、羊太夫伝説が指し示す事実であるとする説もある。里見郷の上里見神山における伝承では、八束小脛は、榛名山の女天狗であり、銅鉱山を羊太夫に教えたのも小脛の仕業との話も伝わる。そのバリエーションには、全てを与える代わりに自分を裏切ったら全てを失うと請願を立てさせた話、銅鉱石から金を作り出した伝説(利根川流域上流(草津、沼田付近)には銅鉱床があるため、洪水で流された黄銅鉱、黄鉄鉱がしばしば河原で見つかり、砂金と間違われるという)、羊太夫が討伐された後、彼の財産であった金銀財宝がたちまち錆び腐った等の話もある(おそらく黄鉄鉱などを金や銀と間違えたことをさす話であろう)。類似するものとして、『日本書紀』神功皇后九年(209年)の条に「荷持田村に、羽白熊鷲という者有り。其の為人、強く健し、亦身に翼有して、能く飛びて高く翔る。・・・層増岐野に至りて、即ち兵を挙りて羽白熊鷲を撃ちて滅しつ。」という説話がある。古田武彦によれば、これは羽白熊鷲を撃滅した女王に、卑弥呼以前の筑紫統合の始源の女王の姿を見、『日本書紀』の編者が『日本旧記』から切り取り、神功との接合を企図したものであるという。羽白熊鷲撃滅譚は、筑紫における神話の時代の説話であろう。羊太夫伝説も、関東における神話の時代の説話との関係を指摘している。また、古田は、羊とは日辻ではないかという説も唱えている。久保有政は、松浦静山がその著書の中で、多胡碑のかたわらの石槨に「JNRI」という文字が見られ、また碑の下からは十字架も発見されたと書き記していることを挙げ、羊太夫とネストリウス派キリスト教との関連性を指摘する。「JNRI」は、ラテン語の"Jesus Nazarenus, Rex Iudaeorum"の頭文字をとった略語であって、"ユダヤ人の王ナザレのイエス"を意味し、十字架刑に処せられたイエス・キリストの頭上にかかげられた言葉であるとされ、「INRI」(この場合、Iesusの頭文字である。)とも記されることがある。久保は、これについて東方キリスト教の残滓が日本まで到達したことを示すものであろうとしている。また「INRI」について、ヘブライ語は筆記においては母音が省略され子音のみ表記されるため、「INaRI」と母音を補い、稲荷信仰との関連も指摘されている。しかし、この説の根拠となる遺物に関しては、江戸時代にキリスト教信者によって捏造された可能性が否定できない他、語呂合わせ的な主張でもあり、説を補強する確かな遺物でも発見されない限り、この説を取ることは困難である。TVアニメ化された07th Expansion竜騎士07による『うみねこのなく頃に』の作品中に登場するヒロイン・ベアトリーチェ(Beatrice)は、黄金の蝶に化身する、魔術(神通力)を使う、対価と引き換えに金銀財宝を与える、悲劇的な終末など、その影響が見られる。

出典:wikipedia

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