チャン・ヴァン・ザウ(, 1911年9月6日 - 2010年12月16日)はベトナムの革命家であり、八月革命時の南部責任者。科学者、歴史学者、哲学者、教育者でもあった。1911年、タンアン省(現・ロンアン省)チャウタイン県アンルックロン社にて、裕福な地主家庭の長男として生まれた。家ではムオイ・キー (Mười Ký)と呼ばれたが、多くの人にはサウ・ザウ (Sáu Giàu) という名で知られていた。家庭の事情から、1926年にサイゴンに移り、シャスルー=ローバ高校(Collège Chasseloup Laubat、現在のレー・クイ・ドン高校)に学んだ。1928年の卒業後、家族に「2つの博士号を持って帰る」と約束してフランスに渡り、トゥールーズ大学に留学した。1929年3月、ザウはフランス共産党に入党し、労働運動やトゥールーズ市在住ベトナム人留学生・労働者の闘争運動に積極的に参加した。1930年5月、在トゥールーズベトナム人労働者・留学生の代表に選ばれてパリに行き、フランス大統領官邸前で開催されたイエンバイ蜂起首謀者の死刑反対デモに参加した。そのため彼は警察に逮捕され、Loa Roquillis 刑務所に収監され、その後フランス政府によって強制送還された。帰国したザウに父は「尽忠は尽孝でもある」と言った。ザウはサイゴンに戻り、フイン・コン・ファット学校にて教鞭を執るかたわら、サイゴン=チョロン地区での革命活動に参加した。この間、ザウはインドシナ共産党に入り、ハイ・チェウ (Hải Triều) と分業して自らは南圻地区委員会の学生班および反帝国主義班の責任者となった。ゲティン・ソビエト運動が高揚した後の1931年、ソ連の東方勤労者共産大学への留学生を組織して、そこで学んだ。1933年に卒業して帰国(テーマは「インドシナにおける土地問題」)。サイゴンに戻り、再び南圻地区委員会に参加し、『赤旗』紙 (báo Cờ đỏ) や共産叢書の出版に従事した。彼は演説の才と深い見識、さらにはフランスやソ連での活動経験によって有名であり、数千人のサイゴン市民を前にした演説会に幾度も参加して愛国心を鼓舞した。民衆や南部知識人の中でのザウの威信は日ごとに高まった。公然とした反植民地政庁活動により、彼はフランス留学時代から政庁に目を付けられていた。そのため、1935年6月25日、サイゴンのフランス法廷において、政府転覆活動の罪によって投獄5年・自由剥奪10年の刑を言い渡された。囚人番号6826mppとしてサイゴン監獄 (Maison Centrale de Saigon) にあったとき、彼は囚人の総代表に選ばれ、何度も監獄長に対して囚人の待遇改善を要求した。そのために隔離され、1937年6月26日、数名の同志とともに Bâtiment S にある別の監獄に移送され、刑期満了までそこで過ごした。1940年4月23日、ザウは刑期を終えて釈放されたが、数日後に拘束されてターライ収容所 (trại Tà Lài) に送られた。一緒に送り込まれた人間にタオ・ティ (Tào Tỵ) やジャーナリストのグエン・コン・チュン (Nguyễn Công Trung) がおり、護送した兵士はチュオン・ヴァン・ザウ (Trương Văn Giàu) だった。ターライにて、彼は再び被収容者の総代表になった。1941年末、ザウは数名の政治犯達による脱獄計画に参加した。ザウ自身は1942年3月の第2回の脱獄に、チャウ・ヴァン・ザック (Châu Văn Giác)、チャン・ヴァン・キエット (Trần Văn Kiệt)、ズオン・ヴァン・フック (Dương Văn Phúc)、チュオン・クアン・ニャム (Trương Quang Nhâm)、グエン・コン・チュン (Nguyễn Công Trung)、グエン・ヴァン・ドゥック (Nguyễn Văn Đức)、トー・キー (Tô Ký) と計8名で参加した。脱獄は成功し、(8名は)各地に散った。チャン・ヴァン・ザウはその後、幾度も居場所を変え、連絡を回復してサイゴンでの活動を再開する方法を探した。1943年10月13日から15日、ミトー省(現・ティエンザン省)のチョガオ地区にて、南圻諸省のいくつかの共産党系組織の代表が集まり、南圻地区委員会の再設立を議決した。ザウが不参加だったため会議はズオン・ヴァン・フック (Dương Văn Phúc) を書記に選出したが、フックは自分は臨時であって、いずれザウにこの職を譲るとし、会議もこれを了承した。南圻地区委員会書記という職にありながら、中央と連絡が取れず、グエン・アイ・クオックが帰国して党第1期中央委員会第8回総会が招集され、ベトミンが設立されたことをよく知らない状況の中、ザウは「諦めて座して待つこともできず、やむなく我々は自分たちだけで(南部における)革命の道を背負わねばならなかった」。わずかな間にザウと同志達は積極的に活動して基礎を建設し、もうすぐやってくると考えられたチャンスのために、強大な力を集結しうるよう目指した。彼は"「我々は全ての親日政党・宗派を合わせたよりも強くなければならない。そうしてはじめて政権を人民の手に取り戻すことができる。」"と主張した。その上で処委員会は:彼は次のように述べた:「革命は人民の事業であり、党の力量のみでは革命を起こすことはできず、多くの同胞の参加と蜂起とがなければいけない。」とりわけ、ファム・ゴック・タック (Phạm Ngọc Thạch)、グエン・ヴァン・トゥー (Nguyễn Văn Thủ)、フイン・ヴァン・ティエン (Huỳnh Văn Tiểng) といった秘密党員を通じて、先鋒青年 (Thanh niên Tiền phong) という組織の設立と組織掌握を後方支援した。南圻地区委員会は共産党員に活動の隠れ蓑を与え、解放地区委員会の共産主義同志たちのグループも含めた当時の他の各種政治組織を凌駕する一大勢力を素早く結集した。日本が連合国に降伏を表明した後、好機到来と見た地区常務委員会は1945年8月15日夜に蜂起委員会を設立し、南圻委員会会議を招集して、後日の蜂起予定およびサイゴンでの先鋒青年の宣誓式の機会について広く議論した。会議は16日夜にデム市場(chợ Đệm:現在のホーチミン市ビンチャイン県タントゥク市鎮)で開催されたが、(1940年に失敗した)の経験から、蜂起時期について何名かの代表達が激論を闘わせた。会議は周到な準備を継続してハノイからの連絡を待ち、蜂起の日を18日に移すことで合意した。17日、5万人の先鋒青年団員による開幕式がサイゴンで開催され、地区委員会が掌握する力量を見せつけた。しかしながら、地区委員は蜂起時期の延期に同意した。それに代わって、19日、ベトミンの指導者達は地区委員会を公然化し、そのわずか数日後にザウに政権掌握蜂起の指揮者の地位を渡した。ハノイでの蜂起成功の知らせを受けて、すぐさま8月20日の朝、チョ・デムで2回目の会議が開かれ、蜂起の方法と日程について議論した。しかしながら、依然として代表はサイゴンにあって蜂起を鎮圧できる力を持つ日本軍を心配していた。 ザウはタンアンで試験的に蜂起を起こし、代表達が地方に下って蜂起を発動することを提案した。タンアンでの蜂起は8月22日夜に成功した。8月23日夜の3度目のチョ・デム会議は全南部臨時行政委員会を即時設立し、チャン・ヴァン・ザウを主席とした。8月24日午後、タンアン、ビエンホア、トゥーゾウモット、タイニンの南圻委員会指導下の武装した先鋒青年勢力が権力を掌握し、サイゴンに集結した。8月25日、サイゴンでは大規模なデモが起こり、ほとんどの統治機構が臨時行政委員会の手に落ちた。1945年9月2日の独立式典では、南部臨時行政委員会はベトナムの声放送局の電波を受信してホーチミン主席の独立宣言をメガホンで流したが、上手く受信できなかった。ベトナム民主共和国臨時革命政府の保健大臣であるファム・ゴック・タック医師が政府の宣言を読み上げた。ジャーナリストのグエン・ヴァン・グエンは南圻地区委員会とベトミン南圻支部を代表してベトミン擁護を呼びかけた。チャン・ヴァン・ザウは南部臨時行政委員会を代表して、即興で独立式典を祝う言葉を述べた。当時彼は34才になったばかりである。これより前、1943年10月にザウが書記となって設立された南圻地区委員会と並行して、インドシナ共産党の別の組織が独立活動をしていた。これを区別するため、研究者は通常後者をその言論機関が『解放』紙だったことにちなんで解放地区委員会あるいは「旧ベトミン」、ザウが書記を務める地区委員会をその言論機関が『先鋒』紙だったことにちなんで先鋒地区委員会あるいは「新ベトミン」と呼んだ。1941年に旧南圻地区委員会が植民地政庁によって無効化されて以降、『解放』紙を秘密出版していたグループのうちチャン・ヴァン・ヴィ (Trần Văn Vi)、レー・ヒュー・キェウ (Lê Hữu Kiều)、レー・ミン・ディン (Lê Minh Định)、チャン・ヴァン・チャー (Trần Văn Trà)、靴職人のチェー (Chế)、ブイ・ヴァン・ズ (Bùi Văn Dự) といった人たちは独自に活動し、依然として地区委員の名義を使っていた。グループは南圻地区委員会を再建しサイゴンに置くことを計画したが、主要な構成員が追跡・逮捕される中では逃亡を続けざるを得ず、連絡が途絶えて招集することができなかった。新しい南圻地区委員会が設立された後、ザウは「解放」グループの一人であるグエン・ティ・タップ (Nguyễn Thị Thập) を地区委員会に加入するよう誘ったが、組織方法の違いから指導体制の統一には至らなかった。「解放」グループは独自に活動を継続し、独自の支部を建設していった。1944年11月、「解放」グループのほとんどの構成員が植民地政庁によって逮捕・投獄され、印刷所も破壊された。明号作戦で日本が仏領インドシナ政府を倒した後、多くの成員はこの機会を利用して脱獄した。1945年3月20日、「解放」グループはミトー省のソアイホット (Xoài Hột) に集まって臨時南圻地区委員会を設立し、ザン・トン・トゥー (Dân Tôn Tử、別名:チャン・ヴァン・ヴィ (Trần Văn Vi) )を書記に選出した。1945年5月、臨時委員会はホックモン県バーディエム社(x. Bà Điểm, h. Hóc Môn:現在のホーチミン市郊外)にて正式に地区委員会を設立して南圻幹事班と呼び、レー・ヒュー・キェウを書記とした。独立から1ヶ月にも満たず、臨時委員会管理下の勢力は多数ではあったものの、統治経験が多くなかった。多くの場所で無政府状態が発生した。他の政治組織もまた独自にその勢力を発展させた。南部に同時に2つの地区委員会組織が存在することは南部における共産党の可能性と威信とを徐々に低下させ、2つの組織の間に様々な矛盾と衝突とを生み出した。そのような中、1945年9月12日以降、フランス軍が続々とサイゴンに入り、常に挑発するあるいは不平等な条件を突きつけ、一方で各組織間の衝突を煽り、武力介入の機会を窺っていた。このような状況を前にして、臨時行政委員会は未熟で弱く抗戦準備のために時を稼ぐことしかできなかった。9月22日夜、フランス軍は南部臨時行政委員会の事務所、国家自衛局ならびにいくつかのその他の臨時政権の統治機構を武力で占領した。以前から準備していたおかげで、臨時行政委員会の首脳達は直ちに脱出して追跡の手を逃れ、各武装隊に反撃を指示した。1945年9月23日、カイマイ通り629番(現在のグエンチャイ通り)で行われた会議で、ザウは南部抗戦委員会の主席に選ばれ、南部抗戦の呼びかけを発した。同志たちに同じく、ザウは全力を尽くし、抗仏連合の力を集中するための様々な方策を使い、各武装政治グループが臨時行政委員会から離脱する流れを断固として鎮圧した。まさにこの指示以降、彼は対立する人間から残忍で冷酷で非情だと見なされるようになった。10月、中央はザウとファム・ゴック・タック医師をハノイに召還した。彼は南部の戦場に戻りたいとの希望を出し、叶えられない場合は、カンボジアとタイに渡って南部のために後方基地を造るよう願った。2つめの願いは聞き届けられた。彼は国外から多くの越僑青年を南部に戻って戦うよう運動する一方、南部の軍民のために武器を購入して物資を供給した。1946年末、中央はレ・ズアンを選んで南部に派遣し、「先鋒」グループと「解放」グループをひとつに統合し、武装単位を全てベトミンに併合し、全国で統一された名称を使用するようになった。旧ベトミン・新ベトミンの区別はこのときやっと無くなった。1947年初頭、ザウは通信局の総局長としてベトバックに呼び戻された。1951年、彼は教育・訓練省に入って大学予備・高等師範部門を設立した。1954年11月、文学師範大学と科学師範大学が設置され、彼は党の大学支部の初代書記になり、かたわら政治学・哲学・世界史・ベトナム史を講じた(現代ベトナムの師範教育のいくつかの部門の創設者と見なされている)。1955-1956年の学期で、ザウは国から最初の教授号を授与された。1956年にハノイ総合大学(現・ベトナム国家大学ハノイ校)が成立し、彼は党のハノイ国家大学支部書記となったが、引き続きハノイ師範大学での教育にも参画した。1962-75年の間、彼はベトナム社会科学委員会(現・ベトナム社会科学院)所属の史学院に勤めた。1975年以降は、社会科学領域の研究を継続した。チャン・ヴァン・ザウ教授は自宅を売却した金1,000ルオン(1ルオンは37.50グラム)でチャン・ヴァン・ザウ基金を作った。この1,000ルオンの金からの利子で、中部最南地域(ビントゥアン省)および南部ベトナムの歴史・思想史という2つの領域の研究に対して、毎年チャン・ヴァン・ザウ賞を授与している。2010年12月16日20時17分、ホーチミン市のトンニャット病院にて死去。チャン・ヴァン・ザウの一生は革命活動にあったので子はいない。老いてからは、教え子の一人であるディン・トゥー・スアンを養子にした。しかしながら、自身の教育事業において、彼は多くの有名人の師と見なされている。
出典:wikipedia
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