ダオ・ズイ・アイン (ベトナム語:Đào Duy Anh / 陶維英、1904年4月25日 – 1988年4月1日)はベトナムを代表する学者で、史学、地理学、辞書学、文化研究、民間文学などの研究で知られる。ダオ・ズイ・アインは1904年4月25日にタインホア省で生まれた。彼の家はもともとハタイ省タインオアイ県タータインオアイ社(現在のハノイ中央直轄都市タインオアイ県内)におり、祖父の代にタインホア省ノンコン県チュンチン社(xã Trung Chính, huyện Nông Cống, tỉnh Thanh Hóa)に移り住んだ。1923年にフエの国学を卒業してタインチュン(Thành chung、中学卒業)の資格を取得したのち、フランス植民地政府の公職には就かず、クアンビン省のドンホイ小学校で教鞭を執った。彼は、1925年のファン・ボイ・チャウの恩赦を求める運動やファン・チュー・チンの埋葬(1926年)といった、当時盛り上がりを見せていた愛国運動の影響を受けた。1925年末、彼はハノイからフエに向かうファン・ボイ・チャウを迎える「クアンチ・ドンホイ会」に参加した。1926年、彼は教職を辞してサイゴンに行くためにダナンに入った。ダナンへの途上、彼は普光寺に軟禁されているファン・ボイ・チャウに面会し、クアンナム省では中圻民表院(Viện Dân biểu Trung Kỳ 、Chambre des Représentants du Peuple de l'Annam)の代表であるフイン・トゥック・ハンHuỳnh Thúc Khángと会った。アインはハンを助けて「ティエンザン(民の声)」紙を作り編集員になった。彼は1926年にベトナム革命党に参加し、次いで同党が新越革命党と改称した際(1928年7月)に総書記になった。1928年、「観海叢書Quan hải tùng thư」を立ち上げて、ヴォー・リエム・ソンVõ Liêm Sơn、チャン・ディン・ナムTrần Đình Nam、ファン・ダン・ルーPhan Đăng Lưuといった知識人と協力して科学思想や唯物史観を紹介する啓蒙書を出版した(『経済学説史』『婦人運動』『人類史』『宗教とは何か?社会とは何か?民族とは何か?』など)。この時期に彼はヴェタック(Vệ Thạch:精衛という伝説上の鳥の意)という號を使うようになった。1929年7月、政権に逮捕されて1930年初頭まで収監される。以降、辞書学から文化の研究に関心を移し、文化・文学・歴史の研究を開始した。8月革命の後、ダオ・ズイ・アインは文科大学史学科で教えるよう招かれた。1946年の全国文化大会では運動委員となった。抗仏戦争期には第4戦区(Liên khu IV)の文芸支会で活動した。1950年、ベトバックに招かれて教育省の文学芸術局で史地班の長になる。1952年、タインホア省に行って大学準備校で教鞭を執る。1954年にハノイに戻り、師範大学と文科大学で教える。1956年、ハノイ総合大学(現・ベトナム国家大学ハノイ校)が開学し、ベトナム古代史部門の主任に就任。1958年まで務める。同年、月刊誌「ニャンヴァン(人文)」第5号(11月20日)誌上に自由化と民主化の問題についてインタビューが掲載される。(ニャンヴァン・ザイファム事件)1958年、教育省に移り、1960年には史学院に移った。以来、教育の場を離れて研究に集中した。1965年に退職したが1988年まで研究を続けた。 1988年4月1日、ハノイで84歳で死去。彼はラルース百科事典に掲載された数少ないベトナム人の一人で、現代の百科全書派とされる。2000年に社会科学分野でを追贈された。ホーチミン市フーニュアン区とハノイ市ドンダー区に彼の名を冠した通りがある。30以上のテーマで研究・古典の翻訳を行い、1927年以降に60冊以上の書籍が刊行された。現代ベトナムの人文・社会科学建設に貢献した一人であり、ダオ・ズイ・アインは多くの分野に貢献している。彼は現代ベトナムの辞書学の基礎を作った。文化や文学研究では、彼の『ベトナム文化史綱』はグエン・ヴァン・フエンの『安南の文明』("La Civilization Annamite
出典:wikipedia
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