2010年6月に首相に就任した菅直人は7月に第22回参議院議員通常選挙で敗北。その後9月の民主党代表選挙にて小沢一郎元民主党代表を下して代表に再選されたことを受けて内閣改造を行い、第176臨時国会に臨んだ。しかし、参議院選挙の結果で生じた衆参両院のねじれ状態により審議が進まず、尖閣諸島中国漁船衝突事件への対応や小沢の「政治とカネ」を巡る問題について野党の激しい追及を受けた。11月には仙谷由人内閣官房長官と馬淵澄夫国土交通大臣に対して参議院で問責決議が可決され、野党は両名が所轄する議案の審議を拒否。また、仙谷や柳田稔法務大臣(当時)の失言により審議が空転し、政府が提出した法案の成立率が過去10年で最低の37.8%まで低下した。民主党内の抗争により政府与党の支持率も下落し、各社の世論調査では内閣支持率が20%台にまで下落。次期総選挙の比例代表投票先も2009年の政権交代以来初めて自由民主党に逆転された。こうした状況のなかで、菅は低迷する日本経済の立て直し、緊迫する朝鮮半島問題、TPPへの参加、支持率の低迷、野党の攻撃が激しさを増すと予想される次期通常国会といった内憂外患の情勢を打開すべくさらに強力な体制の構築を模索し、2011年1月14日に2度目の内閣改造。菅第2次改造内閣は同日行われた認証式を経て正式に発足した。再改造内閣としては前回改造からの118日後の改造という短さは歴代最短記録である。この改造は閣僚が11人留任と小幅なものとなった。問責決議を受けた仙谷・馬淵と北朝鮮が韓国延坪島へ砲撃した延坪島砲撃事件で即日警察庁へ登庁しなかった責任を問われていた岡崎トミ子国家公安委員長が退任(ただし、仙石・馬淵は2ヵ月後に菅内閣の官房副長官又は首相補佐官として復帰している)。自民党を離党したちあがれ日本の結党に参画した与謝野馨が入閣。与謝野は12月に菅が「たちあがれ」へ連立政権参加を呼びかけた際に民主党との架け橋役を担っていた。「たちあがれ」は27日にこれを拒否したが、それ以降与謝野は党内で孤立したともいわれ、改造前日に「たちあがれ」を離党していた。官房長官には枝野幸男が就任。経済財政担当大臣に与謝野が就任し、これを受けて経済財政担当大臣を務めていた海江田万里が経済産業大臣に、経済産業大臣を務めていた大畠章宏は国土交通大臣に横滑りした。海江田は同じ選挙区で前回の衆院選を戦った与謝野が自身の後任として入閣したことについて、「人生は不条理」と漏らした。衆議院選挙が小選挙区比例代表並立制になった1996年10月以降、同じ選挙区で当選枠1人を争った2人の衆議院議員が同一内閣に閣僚として入閣したのは初めて。仙谷が兼務していた法務大臣には江田五月前参議院議長が就任。議長経験者の入閣は、1973年11月に衆議院議長経験者の中村梅吉が田中角栄内閣に法務大臣として入閣して以来、参議院議長経験者の入閣は初めてである。また、内閣改造が急遽決まったため、4人の閣僚が外交日程をキャンセルしたり帰国を早める事態が発生した。結果として馬淵以外の3人の閣僚は留任となったが、これらの日程変更について外交儀礼や実務上の問題が指摘されている。菅・枝野、代表代行となった仙谷・岡田克也幹事長ら反小沢派が内閣と民主党執行部での要職を占め、さらに「脱小沢」を加速させる結果となった。菅政権の発足後、党首討論は開かれていなかったが、2011年2月3日、菅は党首討論を行うことを表明し、2月9日に党首討論が開催された。菅は社会保障と税の一体改革の与野党協議に野党が応じるよう求めたが、自由民主党の谷垣禎一総裁は「政権公約の見直しをしてから、税と社会保障の一体改革案をまとめるべきではないか」「マニフェスト違反の片棒を担げ、八百長相撲を一緒に取ってくれみたいな話には乗れない」と反論し、「(一体改革は)『国民の信を得たから』とやるのが一番の近道だ」と解散総選挙を行うように要求した。公明党の山口那津男代表も菅を厳しく批判し、菅内閣との対立姿勢を鮮明にした。2011年3月4日、参議院予算委員会で前原誠司外務大臣が韓国籍の女性から献金を受けていたことが明らかになり、3月7日に前原は辞任した。後任の外務大臣には外務副大臣の松本剛明が昇格した。なお、前原は内閣総理大臣臨時代理予定者第3順位だったが、前原辞任以降は後任の内閣総理大臣臨時代理予定者第3順位が指定されていないため、内閣総理大臣臨時代理予定者の指定が通常の5人ではなく4人の体制が9月まで続いた。また、2011年3月9日、菅直人総理大臣の資金管理団体が、2006年と2009年に、パチンコ店を経営する金融機関の元理事の在日韓国人から計104万円の献金を受け取っていたことが朝日新聞の取材で発覚した。この問題に対して、自民党、公明党、みんなの党は、菅に総理大臣の辞職を求め協調したが、3月11日に東北地方太平洋沖地震が発生したことにより追及の手が止み、菅は3月14日に違法献金計104万円を返却した。さらに、3月9日に菅グループの代表を務める土肥隆一政治倫理審査会長が、日韓キリスト教議員連盟の集会で、日本が竹島領有権の放棄する内容である「日韓共同宣言」に署名したことが発覚。土肥は国会、党内のすべての役職を辞職し、3月15日に民主党を離党した。閣内人事では、東日本大震災を受け、節電啓発等担当大臣を新設して村田蓮舫行政刷新担当大臣を担当大臣に任命した。また、枝野官房長官が福島第一原子力発電所事故への対応に追われ、被災者支援が手薄になっていたため、前内閣官房長官の仙谷由人を内閣官房副長官に任命して被災者支援を担当させた。辻元清美衆議院議員、藤井裕久内閣官房副長官、馬淵澄夫前国土交通大臣の首相補佐官起用により内閣法の限度枠(5人)に達したため、その影響を受けて加藤公一と寺田学が首相補佐官離任となった。また、内閣官房参与は3月29日までに6人が追加され、最大15人となった。さらに、内閣官房に震災ボランティア連携室を新設し、内閣府参与の湯浅誠を室長として転出させた。政府・民主党は内閣法を改正して閣僚の定員を一時的に3人増員して20人とし、震災への対策を強化し、野党から入閣を求めて「挙国一致」体制を築くことも合わせて検討された。3月19日、自由民主党の谷垣禎一総裁に原発問題担当相、大島理森副総裁に震災対策担当相としての入閣が打診されたと新聞各紙朝刊が報じた。その日の午後には菅が谷垣へ電話で副総理兼震災復興担当相での入閣を要請したが、谷垣は拒否した。自民党は震災対策では全面協力する方針だが、当初から同党から閣僚を出すことには否定的であり、閣僚増員が提案された3月18日の「各党・政府震災対策合同会議」では石原伸晃自民党幹事長が岡田克也民主党幹事長に対し、「首相が思いつきで総裁に電話すると混乱するので気をつけてほしい」と牽制していた。閣僚の増員に関しても与党で連立を組む国民新党の代表であった亀井静香などから反対され、改正は見送られた。その後、亀井は首相の菅から副総理としての入閣を打診されたが固辞し、首相補佐官に就任している。2011年6月27日、菅内閣は以下の人事を行った。それによって、法律上の閣僚や首相補佐官の定数の問題などから、以下の人事が行われた。蓮舫大臣が閣僚でなくなったことにより、第2次橋本内閣末期の1998年7月28日以来13年ぶりに女性閣僚が0人となった。また松本龍復興担当大臣が放言により就任9日目の7月5日に辞任。後任として内閣府副大臣の平野達男が大臣に昇格した。脱小沢を目指していた菅内閣において2010年9月の民主党代表選挙を受けた第1次改造以降初となる小沢グループの閣僚が誕生した。朝鮮学校授業料無償化の審査手続きは北朝鮮による韓国砲撃事件を理由に2010年11月に停止されたが、菅は総辞職前日の2011年8月29日に髙木義明文部科学相に再開を指示した。自由民主党の石破茂は「再開する明確な説明はない。(退陣直前の)一種の駆け込み的な、やってはならない法の無視だ」と批判した。
出典:wikipedia
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