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名鉄谷汲線

谷汲線(たにぐみせん)は、岐阜県揖斐郡大野町の黒野駅から同郡谷汲村(現揖斐川町)の谷汲駅までを結んでいた名古屋鉄道(名鉄)の鉄道路線。谷汲鉄道により開通した。運賃計算区分はC(運賃計算に用いる距離は営業キロの1.25倍)。※特記なければ路線廃止時点のもの。すべて、普通列車のワンマン運転であった。朝の6 - 8時台では、黒野駅 - 谷汲駅間で30分間隔で毎時2往復、その他は終電まで60分間隔で、毎時1往復運転されていた。ただし、毎月18日と行楽シーズンの特定日、廃線間際には、臨時列車数往復が増発されて、日中(11時 - 15時)も毎時2往復運転されていた。この臨時列車には車掌も乗務していた。単線のため、30分間隔で運行する時は途中、北野畑駅で列車の行き違いを行っていた。なお末期は朝夕も50分間隔となり、特定日以外の北野畑駅での行き違いを行わなくなっていた。1984年のワンマン運転開始以降について記す。基本的に揖斐線と共通だが、揖斐線用車両のうち、モ770形・モ780形は一度も使用されなかった。当初はモ770形・モ780形も乗り入れる予定であったが、末端区間での電力量が不足(600Vに対し、300 - 400Vしかなかったという)のため断念したという。地元の名刹である谷汲山華厳寺の巡礼客の交通の便の確保と根尾方地方の開発を目的として揖斐郡大野村と谷汲村間の鉄道敷設が1922年(大正11年)5月に申請された。続いて6月に揖斐郡大野村-安八郡神戸町間(養老鉄道広神戸駅)の鉄道敷設も申請した。これに賛同した稲富村出身の井深重剛は線路予定地にある所有の土地を無償提供するなど私財を投じ鉄道敷設計画を支援した。1923年(大正12年)2月に鉄道敷設免許状が下付されたが、関東大震災発生直後の不況の懸念と揖斐川架橋問題から広神戸駅延長は断念せざるをえなかった。1924年(大正13年)1月谷汲鉄道が設立され、本社は大野村大字黒野に置き、社長には井深が就任した。また美濃電気軌道も出資し同社から3名が取締役に就任した。工事は1927年(昭和2年)の谷汲山華厳寺十一面観世音菩薩御開帳(以下、「御開帳」とする)に合わせるべく昼夜兼行ですすめられ、1926年(大正15年)4月に全線が開業することができた。そして盛大な開通式から5か月後に建設の陣頭指揮をとり開業に奔走していた井深が急死するというアクシデントがあったが、同じ4月6日に北方町 - 黒野間を開業した美濃電気軌道との直通運転を9月1日より開始した。これにより岐阜駅からは市内線、忠節橋徒歩連絡、忠節駅-谷汲駅と1時間半で結ぶことになった。1927年(昭和2年)4月から5月にかけての御開帳に備え車両6両(デロ7形電車)を発注し、稲富駅を新設し交換設備を増やした。これにより多客時の3連20分ヘッド運転を可能にした。御開帳期間の乗客数は飛躍的にふえて積み残しがでるほどであった。ところが御開帳がおわると乗客数は減少。昭和金融恐慌の時期にあたり業績は悪化、政府補助金によりかろうじて経営を維持していた。1930年(昭和5年)には美濃電気軌道が業績悪化により名古屋鉄道(名岐鉄道)に合併された。谷汲鉄道は1933年(昭和8年)におこなわれた華厳寺の御開帳による輸送により好成績をあげたものの終了後はまた乗客数は減少。1935年(昭和10年)に乗合自動車業(黒野-神戸-三ツ屋間)をはじめるものの成績は芳しくなかった。1936年(昭和11年)の華厳寺の御開帳でも好成績をあげたが、7月には名古屋鉄道の事実上の子会社となり1937年(昭和12年)藍川清成が代表取締役に就任した。

出典:wikipedia

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