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南通 (秋田市)

南通(みなみどおり)は、秋田市中心部の地区(広域地名)。1967年(昭和42年)5月1日に行われた住居表示実施の際に新しく作られた地名である。人口は4,049人(2011年5月1日現在、住民基本台帳人口調査による)。秋田市の中央部に位置する。東をJR羽越本線、北を南大通り(秋田市道)、西を旭川、南を楢山広小路(秋田市道。但し南通宮田には貫通していないため別の市道が南端)に囲まれた範囲で、「南通」の名は町名整理前からこの地域を「南通」と通称していたことに由来する。東は東通、南東・南は楢山、西は大町、北は中通に隣接する。以下の4町からなる。久保田藩主佐竹氏の居城であった久保田城の城下町のうち、中級上位の家臣が在した亀ノ町廓とそれに付随する亀ノ町外張、小禄の家臣が在した外廓の長野下・築地、更に農村部であった楢山村の一部を合わせた範囲に相当する。亀ノ町廓は元和7年(1621年)に町割された。中通廓に続く本城正面の要地で、北を中通との境である殻堀、東を上堀、南東から南を下堀、西を旭川に囲まれていた。これらの堀は旭川以外は現存しないが、道路線形に名残を留める(例えば中通六丁目郵便局の150mほど西、南大通りが屈曲する交差点から南西へ延びる道とその1本東の道は上堀跡に沿った道で、南端で接続する楢山広小路がそこでクランクになっているのは廓の出入口の一つ楢山口の跡だからである)。長野下は長野町(現在の中通二丁目・四丁目・六丁目の各東部)の台地下を意味すると考えられ、延宝元年(1673年)以降に町割された中級・小禄の家臣が居住した町である。元治元年(1864年)8月に、北東端(長野下新町)の一部侍屋敷とその裏の長沼を埋め立てて藩の砲術所を設置し、西洋砲術の教練が行われた。築地は名の通りの埋立地で、延宝元年(1673年)に長野下に続いて町割が行われた。富士山の土を舟で運んで埋めたとされ、低湿地のため開発が遅れ、明治以降にも富士山からの土盛りが繰り返し行われたという。以下はすべて住居表示実施に伴う変更である。南通宮田の東端がJR東日本羽越本線となっているが、駅はない。しかし秋田駅が至近である。

出典:wikipedia

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