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浜島町塩屋

浜島町塩屋(はまじまちょうしおや)は、三重県志摩市の地名。郵便番号は517-0402。2015年8月31日現在の住民基本台帳に基づく人口は151人、1989年現在の面積は3.225km。半農半漁の地域で、地区は2つに分断されている。志摩市西部に位置する。隣接する浜島町桧山路によって地区は2つに分断されており、浜島町塩屋の本村と飛び地から成る。中心集落は英虞湾沿岸、清水川の河口付近にあたる塩屋の南部に集中している。北と東は浜島町迫子(はまじまちょうはざこ)、西は浜島町桧山路と接する。飛び地については、北は浜島町桧山路、南は浜島町浜島、西は浜島町南張に接し、東は英虞湾に面する。塩屋沖の英虞湾では、真珠や海苔の養殖が行われている。古代には漁業は盛んではなかったが、塩屋の出郷と伝えられる迫子や桧山路では白魚を獲っていた。江戸時代には志摩国英虞郡鵜方組に属し、鳥羽藩の配下にあった。江戸時代を通して村高は111石余だった。漁業はほとんど行わず、真珠貝を必要に応じて上納する程度であった。明治と平成の2度の大合併を経験し、現在まで大字として存続している。1948年(昭和23年)8月15日に浜島町議会は塩屋飛び地の田杭浦を埋め立て、浜島町立浜島中学校の敷地を造成することを決議、1950年(昭和25年)2月2日から浜島町のすべての中学生が新校舎への通学を開始した。また、浜島中学校近くの「宮シ作りの丘」は1970年(昭和45年)から330戸の宅地が造成され、汐見成(しおみなり)と名付けられた。汐見成は宅地開発後、浜島町塩屋から浜島町浜島へ所属地区が変更となった。塩屋地区にある、小字釜向(かまむけ)・倉本(くらもと)の浜で製塩が行われていたことにちなむ。製塩は明治の初期まで行われ、伊勢国山田(現在の伊勢市中心部)等に売りに行く商人がいた。総数 [戸数または世帯数: 、人口: ]塩屋には元来、漁業を主業とする者はなく、漁業権(専用漁業権と区画漁業権)は浜島漁業協同組合(現在の志摩市浜島町浜島地区)が免許を有していた。近隣の迫子や桧山路も同様であった。その後、地先海面漁業権の獲得を目指して塩屋・迫子・桧山路(以下、「3地区」とする)の住民と浜島漁協が激しく争い、1903年(明治36年)6月に入漁権の契約が提携された。しかし3地区にとっては、わずかな権利が得られたのみであった。続いて1907年(明治40年)1月に真珠区画漁業権の争いが勃発、3地区は浜島漁協に漁業権管理を委託、各地区は戸数に応じた配分金を受け取ることで決着した。こうして漁業権で苦い経験をした3地区は浜島漁協に対抗するための組織の必要性を痛感し、1911年(明治44年)に「迫子塩屋桧山路漁業協同組合」を発足させた。事務所は迫子に置き、塩屋からは37人が組合に加入した。しかし、浜島漁協の漁業権免許更新期がくるたびに漁業権獲得に向けて闘うも勝つことはなく、浜島漁協から貸与という形での操業を続けた。1944年(昭和19年)には、組織名を「迫子塩屋桧山路漁業会」と改めた。第二次世界大戦終結後、1949年(昭和24年)に迫子地区が迫子漁業協同組合を設立、塩屋も翌1950年(昭和25年)に塩屋漁業協同組合を設立した。その後、塩屋地区単独での漁協経営が長く続いたが、2002年(平成14年)7月1日に英虞湾岸の漁協が大合併して志摩の国漁業協同組合が発足、塩屋支所となった。更に2010年(平成22年)2月1日には、三重県南部の漁協の広域合併により、三重外湾漁業協同組合が発足、志摩支所塩屋となった。市立の小・中学校に通学する場合、浜島町塩屋全域が浜島小学校・浜島中学校の学区となる。浜島中学校は塩屋の飛び地にある。2009年(平成21年)度まで、塩屋は志摩市立迫塩小学校(はくえんしょうがっこう)の学区であったが、迫塩小学校が浜島小学校と統合したため、現在は浜島小学校に通学している。

出典:wikipedia

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