1927年に合計30両の旅客車両で、新宿から小田原まで一挙に開業した小田原急行鉄道は、当初は旅客数は少なく、経営的には厳しい状態が続いていた。戦時体制になってからは旅客数も上向きとなり、終戦後に小田急電鉄として新発足してからは、新宿から小田原までの速達化を目指してさまざまな新技術を試みた。これらの成果は、新宿から箱根に向かう特急ロマンスカーの車両に反映された。その一方で、通勤輸送においては経済性を重視する傾向が顕著になった。こうした小田急電鉄の鉄道車両(おだきゅうでんてつのてつどうしゃりょう)の歴史および特徴について記述する。本項では便宜上、以下のような表記を使用する。1927年4月1日に小田原線が開業した当時に用意された車両は、「甲号車」と呼ばれる長距離列車用の101形が12両、「乙号車」と呼ばれる短距離列車用の1形が18両という内容で、いずれも当時としては近代的な車両であった。同年10月の全線複線化開業時には、甲号車として121形・131形が各3両ずつと151形が5両増備され、手荷物輸送用に荷物電車が4両導入されたほか、このときに開始された貨物輸送のために電気機関車が2両導入された。しかし、旅客・貨物とも輸送実績は低調であった。1929年4月1日に江ノ島線が開業した際には、201形・501形・551形が合計35両増備された。この501形・551形は小田急では初の制御車であった。しかし、夏季の海水浴客輸送の時こそ全車両をフル稼働させていたものの、平常時の輸送実績は低調なままであり、ほとんどの列車は1両か2両で足りている有様であった。過大な初期投資に加えて昭和初期の不況、さらに乱脈経営が祟り、厳しい経営状態を余儀なくされた小田急にとって、救いとなったのは1929年11月14日から開始された砂利輸送であった。東京へ直結するという線形が注目され、1930年には砂利輸送用の無蓋貨車の大量増備を迫られるほどになった。1931年には砂利輸送専用の運行時刻が設定され、1936年には小湊鐵道と鹿島参宮鉄道から余剰の無蓋貨車を購入して賄うほどの盛況となった。1930年代後半になると、沿線に軍の施設ができたこともあり、旅客輸送量は上向きとなってくる。しかし、まだ新車を導入するほどの余裕はなかったため、国鉄から木造電車の払い下げを受け、51形として運用を開始したが、これは創業以来、小田急の歴史上で唯一の木造電車であった。また、収容力を増大するためにクロスシートを装備した車両のロングシート化なども行っていたが、車両不足は解消されなかったことから、国鉄から木造客車の払い下げを受け、その台枠を利用して601形制御車の導入を行った。その後も輸送需要の増加は続き、業績も回復傾向にあったことから、1941年には201形以来12年ぶりに新型車両10両を導入することになった。この新車は当時の最新技術を導入することになり、形式も1000形として設計・発注が行われた。しかし、1942年には東京急行電鉄(大東急)に合併となったことから、実際に現車が登場した時点では1600形となっていた。1600形は寸法的にはそれまでの車両とはほとんど変わらなかったが、窓の大きく軽快な車体スタイルと、歯数比を小さくした上で高速域まで自動的に進段するという当時としては高性能な電車で、「沿線の鉄道ファンからも好評を博した」と伝えられている。戦争中は大きな被害はなかったものの、終戦近くになってに井の頭線の永福町車庫が空襲により壊滅的な被害を受け、急遽応援の車両を回すことを余儀なくされたことや、当時東急に経営が委託されていた相模鉄道厚木線へ車両を融通したことから苦しい状態が続いた。終戦直前には、電力節約や車両保護を目的として1945年6月には並列ノッチの使用禁止という事態になり、新宿と小田原の間に2時間半も要する有様であった。一方で、東海道本線が空襲の影響で不通になった際には、国鉄の車両も使用して代替ルートとして機能させていた。終戦直後には、沿線施設の日本軍関係者の撤収のために一般旅客の利用を停止した上で、国鉄の車両も使用した輸送を行っている。車両の状況はこの時期が最悪で、電動車でありながら主電動機のない車両などが続出し、90両ほどあった車両のうち、わずか28両しか使用できない状態になっていたこともあった。1946年に運輸省からモハ63形20両の割り当てを受けられることになり、東急では車両規格の面から小田原線・江ノ島線と厚木線に1800形として運用されることとなった。同じようにモハ63形が割り当てられた他社同様、それまでの小田急の車両よりも大きい車両ではあったが、前述の通りに国鉄車両の入線実績があり、あまり問題はなかったという。1948年、東京急行電鉄から分離発足した小田急電鉄では、分離発足後すぐに新車の製造を計画し、電動車10両と付随車5両を1900形として登場させた。このうち6両は特急車両として2扉クロスシート車として製造され、1949年より運行を開始した。このあとしばらくは1650形の制御車や1900形の製造が続いたが、この時期に「経済性を重視したMT同数編成」という基本姿勢が確立されている。1950年には箱根登山鉄道線への乗り入れを開始、翌1951年には初の特急専用車として1700形が登場した。この車両は好評を博し、箱根登山鉄道線への乗り入れもあって特急利用者は急増することになる。なお、この頃に経堂工場の作業用としてデト1形が製作され、1954年に車籍登録されている。1955年から、御殿場線への直通運転を開始することになったが、当時の御殿場線は非電化であったため、小田急では乗り入れ用気動車としてキハ5000形を登場させた。一方、この時期には社内に輸送改善委員会が設置された。これは戦争で疲弊した輸送施設の復旧と改善を主眼としていたが、同時に「新宿と小田原を60分で結ぶ」という将来目標が設定されていた。しかし、当時の小田急の経営基盤はまだ脆弱で、スピードアップのために施設全般への多額の投資は不可能であった。また、戦後に運輸省から割り当てられた1800形などは、輸送力こそ優れていたものの、保守部門からは軌道を破壊する車両として敬遠されていた。そこで、軌道や変電所などの投資を極力抑えつつ車両の高速性能を向上するという方針が立てられ、軽量・高性能な車両の開発が進められ、台車ばね下重量の軽減を目指して研究や試験などを繰り返していた。1954年にまず車体や台車の軽量化を図った2100形が登場し、同年には初のカルダン駆動車となる2200形が登場した。この頃には、国鉄技術研究所の協力も得て「画期的な軽量高性能新特急車」の設計が進められていたが、特急利用者の増加は著しく、さらなる増発が要望されたため、2200形の走行機器をそのまま使用した暫定的な特急車両として2300形を登場させた。この「画期的な軽量高性能新特急車」は、1957年に3000形SE車として登場したが、小田急線内での高速試験では127km/hの速度を記録し、7月から営業運転するや否や、連日満席という大人気車両となった。さらに、8月に入線した編成はすぐに営業運転には入らずに各種走行試験を行い、同年9月には東海道本線へ場所を移して高速試験を行い、9月27日には三島駅から沼津駅までの区間で当時の狭軌世界最高速度である145km/hを記録した。また、この車両を契機として、鉄道友の会にブルーリボン賞の制度が設けられ、SE車は第1回の受賞車両となった。この頃から通勤客の増加が著しかったため、通勤車両の増備をそれまで以上のペースで行う必要が生じた。しかし、全車電動車方式は確かに高性能ではあるものの、製作費や保守費用などはそれほど低くならないことが判明したため、1959年にはそれまでの車両と比較して経済性の高い車両として2400形を登場させた。この車両は "High Economical Car" の頭文字をとって「HE車」と呼ばれ、電動車の全長を19mに伸ばし、機器を集中的に配置することで粘着重量を稼ぐ一方で、制御車の全長を16m弱に縮めることで、MT同数ながら2200形並みの性能と編成長を実現した。その後も通勤輸送量は増加の一途をたどり、1961年に6両編成の運行を開始したもののたちまち飽和する状況となった。1963年から朝ラッシュ時には平行ダイヤが導入されたが、さらに抜本的な輸送体系を立てることとし、近郊区間は大型6両編成、長距離列車は大型8両編成に増強することになった。これを受けて、1964年に電力回生ブレーキを装備し、車体を大型化した通勤車両2600形が "New High Economical Car" の頭文字をとった「NHE車」として登場した。当初、ホーム延伸工事が終了していなかったために2600形は5両固定編成で運行され、ホーム延伸終了とともに順次6両固定編成になった。2400形は順次急行などの優等列車に転用されたが、湯本急行は箱根登山鉄道線内の車両限界の関係から、2400形が主力車両となっていった。また、この頃になると開業当初からの小型車両では通勤輸送には利用できなくなっていたため、旧型車両の電装品を流用して車体を2600形と同様の全長20mに大型化した4000形も導入された。その一方で、1960年に箱根ロープウェイが開業したことにより箱根への観光客が急増していたため、1963年には前面展望室を設けた特急車両として3100形NSE車を導入した。NSE車の投入に伴い、1963年には特急の所要時間は新宿から小田原まで62分と、分離発足時の目標であった「新宿から小田原まで60分」にあと一歩というところまで到達した。他方、戦前から続けられた貨物輸送は、1964年に砂利採取が禁止されたことに伴い扱い量が激減、車扱貨物は伊勢原での濱田製麦と足柄の日本専売公社の輸送だけとなった。1966年には向ヶ丘遊園モノレール線の開業に伴い、日本ロッキードから試験車を譲り受けて500形として運行開始した。1968年には御殿場線電化に伴いSE車を5両連接に短縮して充当することになり、キハ5000形は関東鉄道に売却された。しかし、通勤客の増加予測を完全に見誤ってしまったため、1969年には急行用の大型車両として5000形を導入して大型8両編成の運行を開始したものの、1964年に大改良が完了したばかりの新宿駅は再度1972年から大改良工事を強いられることになってしまった。これ以後、通勤輸送対策は完全に後手に回ってしまうことになる。この1972年には、特急の所要時間は新宿から小田原まで66分にスピードダウンを余儀なくされた。1977年からは急行が大型10両編成の運行を開始、1978年からは準急も地下鉄への相互乗り入れと同時に大型10両編成での運行となったが、この地下鉄直通のために9000形が製造された。9000形は地下鉄線内で見劣りしないことを目指してモデルチェンジした車両で、界磁チョッパ制御を採用し、1973年にはローレル賞を受賞した。1978年からは、大型車の6両固定編成を補うための車両として5200形の増備が始まった。1980年には、SE車が使用されている特急列車を長編成化するために7000形LSE車が登場した。1982年12月には、LSE車1編成が国鉄に貸し出され、東海道本線で走行試験を行った。私鉄の車両が国鉄で走行試験を行った事例は、国鉄時代においてはSE車とLSE車だけである。1981年にはようやく新宿駅の大改良工事が終了したが、この年の7月で1800形は全廃された。また、急行が10両編成化された後も湯本急行は2400形4両編成のままであったが、輸送力確保において問題があったため、箱根登山鉄道線へ大型車の乗り入れを実現すべく改良工事が行われ、箱根登山鉄道線の改良工事が終了した1982年から湯本急行は大型6両編成が基本となった。1982年12月には「小田急線内の全ての種別に使用でき、高性能車の全ての形式と連結が可能で、箱根登山鉄道線への乗り入れも可能な新形式」として8000形が登場した。これと入れ替わるように2200形・2220形・2300形・2320形は1982年から廃車が開始され、1984年までに全廃された。また、1984年1月限りで定期貨物輸送は全廃され、同年3月には小荷物・手荷物輸送も廃止となり、社用品輸送もトラック輸送に変更されたことから荷物電車が全廃となった。1985年からは大型車で唯一の非冷房・吊り掛け駆動車両であった4000形を冷房化・高性能化することになったが、これには高性能車ながら非冷房の中型車であった2400形の電動機を転用することになり、2400形の廃車が開始された。1986年には2600形のサハ2762を使用してVVVFインバータ制御の試験が行われたが、この実績をもとに小田急では初のオールステンレス車両である1000形がVVVFインバータ制御車として登場、1988年3月から開始された各駅停車8両編成化運用に投入された。1989年には2400形が全廃され、同年中には4000形の冷房・高性能化改造が終了した。この時点で、小田急の通勤車両は全て冷房付の大型車となり、どの形式も相互に連結が可能となった。また、同年から1990年にかけて、地下鉄直通の車両は9000形から1000形に置き換えられ、9000形は地上線専用車として運用されることになった。1991年3月からは連絡急行として運転されていた「あさぎり」が特急に格上げとなり、合わせて東海旅客鉄道(JR東海)との相互乗り入れという形態に変更されることになった。これにあわせて20000形RSE車が登場、JR東海からは371系が小田急線に乗り入れてくることになった。これと引き換えに3000形SE車の定期運用は終了し、翌1992年に全廃となった。その一方で、輸送力増強のための複々線化工事も遅々として進んでいなかったため、1991年4月には1000形の扉を2m幅に拡大したワイドドア車両が運用を開始したほか、編成中間の運転台をなくすことで定員増に充てることを目的とした1000形の10両固定編成が登場した。1992年には各駅停車用に1000形の8両固定編成が投入されている。1995年には各駅停車用に、2000形が当初より8両固定編成で製造された。複々線化工事は2000年代前後には進捗がみられ、通勤輸送の改善効果が見られるようになった。1995年には、それまでとは異なりビジネス客層をターゲットとした特急車両として30000形EXE車を導入し、NSE車はイベント用の1編成を除いて廃車となった。非旅客用車両については、1996年に新車搬入用に残されていた無蓋緩急車トフ104が廃車となり、小田急の貨車は全廃となった。また、1996年から1997年にかけて本線走行が可能な電気機関車も全廃され、以後の新車搬入は電車による牽引や自力走行が行われるようになった。2001年からは、それまでの小田急の通勤車両とは大幅に車両構造を変更し、一層のコストダウンを主眼とした通勤型車両として2代目3000形が登場し、2007年からは東日本旅客鉄道(JR東日本)E233系の車体構造をベースとした車両として2代目4000形も登場し、通勤車両については標準仕様化が進められ、高度成長期からオイルショック期にかけて製造された2600形・初代4000形・9000形・5000形は淘汰されることになった。一方、2005年には観光用の新型特急車として前面展望室と連接構造を復活させた50000形VSE車が登場、2007年には地下鉄直通用の特急車両として60000形MSE車も登場した。2001年にはモノレール線の廃止に伴い、500形も廃車となった。また、2002年には大野工場での入換用に使用されていたデト1とデキ1051が廃車となり、小田急から電気機関車が全廃となった。1948年の小田急の分離発足時に取締役兼運輸担当として就任した山本利三郎は、戦前に国鉄東京鉄道管理局で列車部長という役職についており、車両技術については当時としては先進的な考えを持っていた。小田急の車両の特徴の中には、山本の考え方がそのまま引き継がれているケースも存在する。小田急における固定編成の定義は、山本利三郎の思想が引き継がれているもので、編成でないと営業線上での運行ができないこととしており、編成単位で1両の車両と同じように扱っている。1900形が登場した頃は電動車と付随車で検査周期が異なっていたにもかかわらず編成単位で検査しており、検査の際に編成の中から特定の車両を抜き取った上で代わりの車両を組み込むようなことはしない。また、設計に際しても、電動発電機や空気圧縮機の容量は編成として考え、点検の利便性や重量配分などを考慮し、付随車に補助機器を搭載している例もある。このような事情から、小田急では中長期的に組成を崩さず、編成の変更が行われる際には大掛かりなものとなる。暫定的な編成内容の変更事例としては、以下の事象があげられる。なお、小田急では1969年から大型8両編成の運行を、1977年から大型10両編成の運行を開始していたが、この時には8両固定編成や10両固定編成は登場していなかった。これは、後述するように分割併合の運用が非常に多く、運用上の制約が大きいと考えられたためである。その後、1991年には編成中の運転台スペースを減らすことで定員増に充てることを目的として10両固定編成が初めて登場し、1992年には各駅停車用に8両固定編成も登場した。さらに、各駅停車用の2000形は8両固定編成のみが製造されており、2代目3000形の一部は8両固定編成で製造された。2代目4000形は10両固定編成のみの製造である。小田急が分割併合を相模大野で開始したのは1953年で、新宿寄りの区間と小田原・江ノ島寄りの区間で輸送量に大きな差があったことから、車両の効率的な運用を行うために開始された。1964年に急行の8両編成での運行が開始されると、ほとんどの急行は相模大野で分割併合を行うようになった。1973年には相模大野での分割併合の回数は平日で1日154回に達していた。また、1991年3月18日のダイヤ改正では、平日に新宿を発車する急行列車115本のうち、分割がない列車は26本だけであった。小田急電鉄OBの生方良雄は、1988年の自著の中で分割併合について「全国でというより世界でもこれだけ頻繁に行っている所は無い」と述べている。このように多くの分割併合が行われていたため、車両側でもその対応が行われた。1974年3月、前面がフラットで解結作業がやりにくかった1800形に対して自動解結装置を設置したのを始めとして、1975年までに全編成に自動解結装置の設置が行われた。これにより、分割併合の作業は運転士だけで行うことが可能になった。また、途中で分割する列車において、誤乗防止のために前編成と後編成に対して別々の放送を行うことができるように、分割放送装置も全編成に設置された。また、1995年に登場した30000形EXE車では、幌まで含めて自動的に解結動作を行う装置が採用された。しかし、1991年度以降に登場した10両固定編成、1992年度以降に登場した8両固定編成では、これらの装置は設置されていない。また、2001年に登場した3000形では当初より小田原側先頭車の電気連結器は設置されておらず、2005年以降は他形式においても6両固定編成の小田原側先頭車の電気連結器の撤去が行われている。なお、その後1990年代後半には全線を通して10両編成で運行する急行も登場したほか、2008年3月15日には、それまで平日で145回あった分割併合はわずか6回、土休日に141回あった分割併合も5回と、分割併合の回数は大幅に減少し、2012年のダイヤ改正で、特急以外の分割併合は全廃された。開業当初の車両においては、正面はやや丸みを帯びていた非貫通3枚窓であったが、その後の増備車では前面はフラットになった。1600形は正面貫通型で、前面は半径5,000mmの緩やかなカーブで半流線型、貫通扉の脇には手すりが設置されるというスタイルとなった。戦後の1900形では標識灯も正面上部左右に設置され、ここで趣味者から「小田急顔」とも称されるデザインが確立した。このデザインはその後製造される車両に適用され、非貫通2枚窓の1700形第3編成や2200形においても半径5,000mmの緩やかなカーブは踏襲されている。2600形以降の車両では車体幅が拡大されたことにより半径6,000mmに改められ、9000形や8000形、1000形、2000形では大幅に前面スタイルが変わっているものの、正面貫通型で貫通扉の脇にある手すりも引き継がれた。しかし、3000形では正面は切妻の非貫通となり、これらの「伝統」からは訣別した。4000形はJR東日本のE233系の車体構造をベースとした車両であるが、正面のデザインについてはVSE車やMSE車のデザインを担当した実績のある岡部憲明の監修を受けている。新技術の導入には意欲的であったが、一方で保守的な思想も有している。開業当初の電車は、いずれも手動進段制御電源を架線から取り込んだ上で抵抗器で降圧した上で制御を行うHL方式であった。これらは、戦後に低圧電源を使用するHB方式に改良され、この制御方式を採用している車両については社内で「HB車」として区別されていた。1600形では三菱電機製のABF形と呼ばれる自動加速形制御装置を採用し、それまでの小田急の車両と比較して大幅な性能向上を実現した。この制御方式はその後2100形まで継続して採用された。これらの車両は社内で「ABF車」として区別された。主電動機については、1形がMB-64-C形(出力60kW)を採用していたほかは、開業当初の車両から1954年の2100形まで、全ての自社発注車両がMB-146形シリーズ(出力93.3kW/端子電圧750V)の採用を継続していた点が特筆される。これは戦前から標準化思想が存在したことを示し、後年機器流用車両として4000形を製造する際には有利に作用している。カルダン駆動車両となった2200形・2300形でも制御装置や電装品には三菱電機の製品を採用した。制御装置はABFM-D形が採用され、改良を加えつつ5000形まで採用が続いた。9000形では界磁チョッパ制御方式のFCM形が採用され、8000形でも採用された。VVVFインバータ制御が導入された1000形ではMAP形が採用され、その後も最新型の4000形に至るまで三菱電機製の制御装置の採用が続いている。これに対して、特急車両では、SE車で東芝製の制御機器が採用されて以来、制御装置は東芝製の採用を継続している。主電動機については通勤車両では一貫して三菱電機製の主電動機を採用しているが、特急車両においてはSE車・NSE車で東洋電機製造製の主電動機を採用したほか、LSE車・HiSE車・RSE車・EXE車において三菱電機製と東洋電機製造製の同等品を併用している。VSE車・MSE車では三菱電機製の主電動機が採用されている。車両技術面で、分離発足後の小田急が特に注力したのは、ばね下重量の軽減であった。折りしも1950年代初頭には、鉄道車両の製造を行うメーカー側のみならず、運輸省、国鉄、日本鉄道技術協会などでは新しい台車や駆動装置の研究や開発を進めていた。小田急ではそうした新技術の試験には積極的に対応しており、「小田急に持っていけば何でも試験してくれる」とさえ評された。小田急線内で行われた主な試験の内容は以下の通りである。意欲的な新技術の導入に熱心だったことは、小田急のスピードアップに対する意欲が強かったことが影響しており、メーカーが試験を依頼しやすかったといわれている。また、小田急の軌間は国鉄と同様の1,067mmであったことから、小田急での実績如何によっては国鉄への売り込みも容易であったためとも推測されている。一方で、1954年に2200形でアルストムリンク式軸箱支持装置を装備した台車を初採用して以来、通勤車両では長期にわたって住友金属工業製アルストムリンク式台車の採用が続いた。機器流用車両の4000形では東急車輛製造製のパイオニアIII形や単式支持ペデスタル式(軸ばね式)、特急車両であるSE車では近畿車輌製シュリーレン式、NSE車ではミンデンドイツ式が採用されているなど、アルストムリンク式以外の台車を完全に排除していたわけではないが、1988年に登場したVVVFインバータ制御の1000形、1991年に登場した御殿場線直通用のRSE車に至るまで採用が続き、1994年末に入線した2000形でモノリンク式のボルスタレス台車を採用したことでようやくアルストムリンク式から訣別することになった。「小田急といえばアルストム、アルストムといえば小田急」と言われるほどにアルストムリンク式に固執した理由として、小田急の軌道状態には適していたことや、保守側の評価が悪くなかった点などが指摘されている。ロマンスカーの50000形VSE以降は日本車輌製造製の積層ゴム軸箱片支持式ボルスタレス台車、通勤用の3000形以降は東急車輛製造製の軸梁式軸箱支持方式ボルスタレス台車に切り換えられている。また、2400形HE車・2600形NHE車・3100形NSE車・5000形においては、台車軽量化の一環として、台車枠・車輪・車軸・ブレーキ梃子などの主要部品を、電動台車と付随台車でほぼ別設計とした。5000形の台車を例にすると、電動台車のFS375形では車輪径910mm・軸間距離2,200mmであったのに対し、付随台車のFS075形では車輪径762mm・軸間距離2,100mmとなっていた。HE車の付随台車では車軸にも中空車軸を採用していたが、車軸検査に超音波探傷が採用されると探傷が困難となったため、通常の車軸(中実車軸)に交換されている。線路改良をせずにスピードアップを図ることを目的として、1961年から1971年にかけて3次にわたり車体傾斜制御の試験が行われた。まず、1961年には空気ばね式自然振り子車の試験が行われた。この時はデユニ1000形の車体更新によって余剰となった旧車体を活用し、台車は2400形HE車用の台車を改良したFS30X形を装備した。この時の試験車両で特徴的だったのは、空気ばねによる車体支持位置が車両の重心に近い位置に設定されていたことで、当時技術交流のあったスペインのタルゴで採用されている支持方式を取り入れたものである。しかし、自然振り子方式は振り遅れがあり、問題が多いと判断された。その後の試験では強制的に車体傾斜を行う方式の試験が行われた。1962年にデニ1101を使用して行われた試験は油圧で車体傾斜を作動させる仕組みで、KS30L形台車を改造して油圧作動筒を設置したものである。また、1970年には空気ばね式での車体傾斜制御の試験が行われたが、この時にはクハ1658を使用し、台車は空気ばね式車体傾斜台車としてFS080形を採用、これを三菱電機の自動振子制御装置と組み合わせたものであった。強制車体傾斜方式については、その効果は確認できたものの、当時の技術では曲線進入の検知が困難であったことから、採用は見送りとなっている。これらの実験の成果は、1963年に登場した3100形NSE車のアンチローリング装置に生かされたほか、2005年登場のVSE車において初めて営業用車両に車体傾斜制御が採用された。VSE車では高位置空気ばね支持方式も採用されている。なお、1967年には廃車となったHB車を利用して、リンク式操舵台車の試験が行われているが、台車操舵制御は2005年登場のVSE車において採用された。小田急における冷房装置の採用は、1962年に3000形SE車に床置き式の冷房装置を搭載したのが端緒で、新造時から導入したのは3100形NSE車からである。1968年(昭和43年)、京王帝都電鉄(現・京王電鉄)5000系が関東で初めての通勤冷房車を導入しており、小田急でも通勤車両の冷房化を計画した。小田急では既にNSE車において冷房搭載の実績はあるものの、座席定員制の特急車両であったため、超満員となる通勤電車での冷房搭載の実績がなく、新車に対していきなり冷房搭載をする自信はなかったという。このことから、まず試験的に冷房を搭載した車両を運行し、実用試験を行なった結果を本格導入時に反映させることになった。改造車として選ばれたのは、2400形HE車クハ2478であった。この選定理由としては、ラッシュ時に重点的に運用されていたこと、先頭車が制御車であり、床下空間に余裕があったことが理由として挙げられている。他社においては、小型の冷房装置を7~8台搭載する方法(分散式)と、大型の冷房装置を1台だけ搭載する方法(集中式)があり、前者は京王5000系、後者は国鉄車両で採用されていた方法である。車体強度の点からは前者が有利であるが、機器数が多いため保守コストは増大する。また、後者は保守コストで有利であるが、車体の補強などが大掛かりになる上、故障してしまった場合はその車両では冷房が使用不能になる。小田急では、これらの前例を参考に、1台8000kcal/hの冷房能力を持つ中型冷房装置を5台搭載する方法(集約分散式)を選択した。この時に製造された冷房装置がCU-12形である。5台搭載時での冷房能力は40000kcal/hとなり、15.5mの車体に対しては余裕の大きいものとなった。なお、クハ2478は廃車まで小田急の中型車両唯一の冷房車として運用された。1970年(昭和45年)までの3シーズンにわたる実用試験の結果は、量産型の冷房車に反映されることとなり。1971年製造の5000形3次車は新製冷房車として導入されることになった。改良型のため型式はCU-12A形となり、冷房能力も1台あたり8500kcal/hとなった。5000形3次車では外気取り入れのために、ベンチレーター(通風器)を1列残していたが、9000形の新造にあたっては、ベンチレーターを廃止し、冷房装置に外気取り入れ機能を追加することになり、CU-12B形にマイナーチェンジされた。冷房能力の変化はない。外観上のCU-12Aとの相違点は、側面開口部が片側2箇所となったことで、大小2つの開口部のうち、小さい方が外気取り入れ口である。CU-12Bは9000形の他、2600形・5000形(1次車・2次車)の冷房改造時にも採用された。1976年(昭和51年)に増備された5000形4次車からは、さらに低騒音仕様となったCU-12C形が採用された。冷房能力に変更はなく、CU-12B形との外観上の差異はない。翌年に製造された5200形でもCU-12Cが採用され、CU-12系冷房装置は、1982年(昭和57年)に5200形の製造が終了するまで、当時の小田急の標準的な冷房装置となった。その後、8000形では、7000形LSE車で使用されていたCU-195形(1台の冷房能力は10500kcal/h)の改良型であるCU-195A形が採用された。その後、CU-195系冷房装置は2000形・30000形EXEまで、改良を加えながらも採用が続けられた。新3000形では集中式冷房装置であるCU-708形が採用されている。開業当時の電車の塗色は、全てぶどう色1色であった。戦後、1910形で特急を運行する際に、前年に近畿日本鉄道(近鉄)2200系が特急の運行を再開した際にレモンイエローと青の2色塗りとしたものにあやかって、濃黄色と紺色の2色塗りとなったのが、小田急での2色塗装の始まりである。その後、1700形・2300形でもこの塗装デザインを特急色として踏襲した。また、高性能車であることを内外に知らしめる目的で、2200形以降の高性能車は通勤車両であるにもかかわらず特急色に塗られた。SE車登場以後、この濃黄色と紺色の2色塗りはHB車以外の全ての通勤車両に適用され、事実上の通勤車両標準色となった。5000形の登場に際して、通勤車両の塗色を明るいイメージに変更することになり、ケイプアイボリーをベースにロイヤルブルーの太い帯を入れるデザインが採用された。車体がステンレス無塗装化されてからもロイヤルブルーの帯は2代目3000形まで継続された。2代目4000形では帯の色がインペリアルブルーに変更されている。特急車両では、3000形SE車では、宮永岳彦のデザインによる、バーミリオンオレンジをベースに白とグレーの帯を入れたデザインが採用され、アレンジを加えつつ3100形NSE車・7000形LSE車にも継承されたが、10000形HiSE車では白ベースに赤の濃淡の帯が入るという直線的なデザインに変更された。20000形RSE車では窓周りと裾部分にオーシャンブルー(タヒチアンブルー)を配し、30000形EXE車ではハーモニックパールブロンズというメタリック調の色がベースになったほか、50000形VSE車ではシルキーホワイトがベース、60000形MSE車ではフェルメールブルーがベースとなっているが、いずれも小田急ロマンスカーであることを示すアクセントカラーとして赤系統の色が入れられている。集電装置については、全車両がシングルアーム式パンタグラフに統一されている。小田急で初めてシングルアーム式の集電装置を採用したのは30000形EXE車で、通勤車両では2001年度の5000形更新車で集電装置がシングルアーム式に変更されたほか、他形式についても交換された。2012年まで使われていた10000形HiSE車・20000形RSE車は、下枠交差型パンタグラフのまま廃車となった。小田原急行鉄道の発足当初は、旅客電車・荷物電車・電気機関車とともに1から附番が行われた。旅客電車では近距離用を1から、長距離用を101から附番し、車体構造の違いで50番刻みで区分されていた。機関車は構造の違いで100番刻みで区分し、貨車についてはもっぱら1000番台の番号を附番していた。大東急時代になると改番が行なわれ、小田原線と江ノ島線の電車・機関車については1000番台が割当られ、荷物電車は1000から、電気機関車は1010から10番ごとに区分、旅客電車は1100から製造年数の古い順に50番ごとに区分された。貨車には1000未満の番号が割り当てられるようになった。大東急から分離した後もしばらくはそのままであったが、1952年に再度改番が行われ、旅客電車においては電動車を0から、制御車と付随車を50から附番することで電動車かどうかを区別する方式となった。以後これが小田急における形式番号の附番法則となった。ただし、3000形SE車・3100形NSE車・10000形HiSE車・50000形VSE車では電動車か否かに関わらず編成の中で連番とした上で、編成ごとに区切っている。当初は別形式にする際には100番単位で区分していたが、1950年代後半のキハ5000形や3000形SE車では1000番単位での区分となり、通勤車両も4000形からは1000番単位で区切るようになった。車両ごとの番号については、2400形HE車までは電動車と制御車・付随車ごとに連番であったが、2600形NHE車以降は編成中の位置により100番単位で区分することによって、編成の中で末尾番号が揃うようにした。なお、小田急では、号車番号は小田原側を1号車としているが、車両番号は新宿寄りの車両から順番に附番しており、逆順となっている。これは1910形の運行開始時に設定したもので、新宿側を1号車とする意見もあったが、将来国鉄に乗り入れることを考慮した生方良雄の主張により決定したものである。本節では、導入順に車両形式を記述する。下記には、井の頭線の永福町車庫が空襲により壊滅した際の車両のやり取りは、同じ東急の中でのやり取りとなるので含めていない。1930年11月1日から1931年4月(届出時点の予定)まで、電気機関車デロ301号を借り入れた。1936年に南武鉄道の電気機関車1004号を借り入れた記録がある。1951年から1956年まで、夏季の海水浴輸送で車両を総動員するため、不足する車両を補うために、相模鉄道から3000系を2編成か3編成借り入れて近郊区間の各駅停車に使用した。1950年には後述するように国鉄から借り入れを行っていたが、これが後で問題になったために相模鉄道からの借り入れに変更されたものである。1963年10月にはパイオニアIII形台車の高速走行時のデータ取得のため、東京急行電鉄から借り入れた7000系デハ7019・7020を使用した試験を行った。1800形を始め、戦時中・終戦後の混乱期においては輸送力の確保のため、多くの国鉄17m車・20m車が応援のために入線し、大きな役割を果たしただけでなく、後の20m車導入の基礎となっている。走行試験のために3000形SE車と7000形LSE車を国鉄に貸し出した事例を除く。1937年から1938年にかけて、南武鉄道の競馬輸送による車両不足を補うために、小田急の車両が貸し出された記録が残っている。
出典:wikipedia
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