アルフ・フォン・ムト・ハイムまたはアルフ・フォン・ムトーハイム(1966年2月27日‐1976年9月18日)は、日本の警視庁刑事部鑑識課に所属した警察犬(直轄犬)。オスのジャーマン・シェパード・ドッグで、書籍など一般には「警察犬アルフ」とか「アルフ号」と称される。連合赤軍関連事件などで活躍し、生涯に警視総監賞2回、警察庁刑事局長賞2回、警視庁刑事部長賞9回など計109回の表彰を受け、名警察犬として名を残した。警視庁ホームページ内に業績を記したページがある他、兵庫県尼崎市の尼崎市動物愛護センターには、忠犬ハチ公などと共に名犬の1頭としてブロンズ像が飾られている。東京都練馬区土支田町(当時)にあった民間警察犬訓練所にて、父・マックス号、母・アデラ号の子として産まれた9頭のうちの1頭で、両親とも代々競技会などで優れた成績を残した血統であった。アルフ号は、体格は他よりもやや小柄ながら尻尾の振りがよく、訓練士に甘える際に他が身体の正面からじゃれつくのに対して、背中をよじ登ろうとする変わった仔犬だったという。生後2ヵ月半頃に、一旦は他の8頭と同様に民間に譲られたが、気性が荒く人を噛むとして数ヶ月で返され、素質を見た訓練士の判断で警察犬としての訓練を受けることとなった。民間訓練士より推薦を受けたアルフ号を担当したのが、後にアルフ号と共に注目を浴びた天野重夫(あまの しげお)巡査(当時)である。天野は温厚篤実かつ粘り強い人物で、直轄犬制度導入の翌年(1957年)から警察犬を担当し、アルフ号以前の担当犬でも実績を挙げていた。初めてアルフ号を見た天野は、体躯の小柄な点を心配したが、十分な持来欲(じらいよく)を持つ点と、当時優秀な成績を挙げていた担当犬アリス号と顔つきが似ている点に期待したという。1967年2月7日に警視庁警察犬訓練所の「テスト犬」(仮入所)となったアルフ号は、当初、問題の多い犬だった。先天的に胃腸が弱く、排便時間でないときに犬舎で下痢をするので、他の犬とは別に消化の良い餌を与える必要があった。訓練にあたっては、「座れ」「伏せ」などの動作はできたが、体力が無く障害飛越訓練などで疲れると言うことを聞かず犬舎へ逃げ戻るので、訓練所の係員からは「ダメ犬」との批判や民間訓練所への返却を促す声もあった。一般に直轄犬導入には3ヶ月の「テスト犬」期間を置き、その満了時に警察犬としての適性を評価し民間訓練所へ返却するか警察予算で購入するかを決定されるが、アルフ号は実績ある天野の請願によってその期間を延長された。アルフ号には体力以外に何か長所があると考えた天野は、アルフ号に体力を要する訓練を無理に強いず、代わりに応用訓練である足跡追求などを試みたところ、アルフ号は地面との摩擦で鼻先に傷を負ってもなお匂いを追う集中力の強さを見せ、この点で適性を認められて、仮入所から10ヶ月ほどを経た1967年12月1日に直轄犬採用(正式入所)された。なお、この際天野は、アルフ号と仲の良かった同僚犬アリス号を使い、アリス号の匂いを追わせるところからアルフ号の特質を導き出したともされる。正式採用されたアルフ号が初めて出動したのは1968年10月31日、清瀬町(当時)で発生した女児誘拐事件である。この事件は発生から警察犬の出動要請まで7時間ほど空いており、時間が経つほど現場では匂いが失われるため警察犬の効果は薄いと考えられたが、天野は訓練期間中とは言え匂いを追う能力の高いアルフ号を伴い出動することにした。結果として女児を発見できなかったものの、後日判明した事実によると、アルフ号は女児の足取りをほぼ正確に辿っていた。初出動以後1年半ほど、アルフ号には出動の機会が無かった。天野には他にもレックス号とアリス号という優秀な担当犬が居たので現場ではそのどちらかを使い、訓練を満了していないアルフ号の仕上がりを待ったためである。加えて、天野が巡査部長昇任に伴って1969年7月から9月まで警察学校入校のため訓練所を離れたことと、同年9月に彼が剣道の稽古中、右足にアキレス腱断裂の怪我を負ったことも影響した。1970年5月31日未明、墨田区両国の民家の庭先に潜んでいた男が、本所警察署に連行された。その周辺では年の初めから商店や料理店を狙う窃盗事件が相次ぎ、本所署が重点警戒を行っている最中に荒らされた料理店から逃走した男を取り押さえたものだが、男があくまで容疑を否認するので、警察犬による証拠鑑定を要請された。アルフ号を伴って出動した天野は、現場に遺留された手袋をもとに、男のものを含む複数のハンカチから同じ匂いのものを犬に選ばせる「物品選別」(臭気選別)を実施、3度繰り返してもアルフ号が彼のハンカチのみを選んだ事実を突きつけると、男は容疑を認め、後に20件あまりの余罪をも自供した。これがアルフ号の初手柄となり、課長賞を授与された。これ以後、天野とアルフ号は様々な事件に出動したが、中でも真岡銃砲店襲撃事件とあさま山荘事件での働きは新聞やテレビなど報道にも大きく取り上げられ、それまで地味であるが故に一般には馴染みの薄かった警察犬の活動を、広く認知させたと言われる。1976年2月6日、昭島警察署からの要請で、天野とアルフ号は出動した。昭島署管内では、商店ばかりを狙いドライバーで戸をこじ開け侵入して金庫を盗む手口の連続窃盗事件が発生しており、要所に署員を配置して警戒していた2月5日、挙動不審な男性に職務質問をしたところドライバーを所持しており、さらに窃盗の前科のあることが分かったため任意同行を求めて連行したが、連続窃盗事件について男性は頑として否認を続けたため、警察犬による物品選別を依頼されたものである。ところが、アルフ号は現場の遺留品と男性の匂いが一致しないと判定、決定的な物的証拠も無かったため、昭島署は即日、男性を釈放した。後日、真犯人が検挙され、アルフ号は男性の無実を証明した形となったが、結果的にはこれがアルフ号の担当した最後の事件となった。それから2週間近く経った2月19日朝、あさま山荘事件発生から4周年にあたるこの日にフジテレビから『小川宏ショー』への出演を依頼されていた天野は、出発間際にアルフ号の異変に気づいた。アルフ号は番組への出演はしたものの終始不調だったため、訓練所ではアルフ号をしばらく休養させることにした。このときのアルフ号の不調は視聴者にも伝わったらしく、訓練所に激励の手紙が届いたり、見舞金を持参する人もいたという。アルフ号はその後、5月に一旦は回復したかに見えたが、7月に入って老衰による神経痛と出血性の腸炎を患っていることが判明した。警察犬訓練所発足20周年の取材に訓練所を訪れた毎日新聞記者は、8月14日付夕刊にアルフ号の闘病を報じ、その読者から再び手紙や見舞い品が届けられた。その後も天野をはじめ訓練所所員らによる手厚い看護を受けながら一進一退を繰り返していたアルフ号は、1976年9月18日午後6時50分、永眠した。天野に看取られながらの安らかな最期であった。鑑識課長を喪主として9月20日に訓練所車庫で執り行われた葬儀は、警察犬のそれとしては異例の、僧を招き読経してもらう本格的なものであった。警察関係者はもとより、民間からも弔電・弔辞が届けられ、土田國保警視総監(当時)からは、警視総監賞として金メダルが贈られた。死後、生前の功績に対して警視総監賞を贈られた警察犬は、アルフ号が最初である。アルフ号は、約10歳7ヶ月の生涯のうち実働7年間、271回出動して36.6%の高い効果率を挙げた。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。