飢饉(ききん、)とは、何らかの要因により人々が飢え苦しむことを指す。狭義においては、一地域における死亡率を急激に上げるような極端な食料不足の事態を指すことが多い。主食とする農産物の大規模な不作を契機とする場合が多い。飢饉の原因はその具体的事例によって異なり、また何に焦点を当てるかによって原因とするものも異なったものとなる。以下では一般的な飢饉の原因を挙げる。食糧の不足は、自然災害や人為的な要因によって発生する。自然災害による例を分類すると、である。火山の噴火では、地球の成層圏まで火山性ガスや火山灰に覆われることによって、日照条件などに不都合が生じ、稲や麦などの作物の生育にダメージを与えることによって生じる。また、局地的な飢饉の原因となるが、近隣の火山噴火によって生じる火砕流や火山灰の降灰による農地へのダメージも原因の一つになる場合もある。地震が原因の場合には、地震断層が生じることによって、農地又は灌漑設備などの農業設備の破壊や、場合によっては水系そのものが影響を受けることによって生じる。台風が原因の場合には、稲や小麦の収穫時期に近い時期に台風が農地へ浸水被害をもたらすことによって生じる。長雨・日照りに関しては、ブロッキング高気圧の発生や梅雨前線の異常停滞等の現象によって発生する。その原因は明らかではないが、偏西風の蛇行による場合が多い。虫害に関しては、これまで原因が明らかになっているのは、害虫の産卵繁殖サイクルに依るものと、外国等から害虫がもたらされ、その虫を食べる他の生き物による食物連鎖が無かったために異常発生する場合とがある。人為的な要因による例を分類すると、である。食糧の不足が何らかの理由で発生しても、必ずしも飢饉となるわけではない。とりわけ近年の農業技術の発達や食糧生産量の増加、国際的な輸送体制の下では、絶対的に食糧が不足することは稀である。実際に、飢饉に際してもその地域、国家のすべての人が餓死するわけではなく、むしろ一部の人々が餓死する一方で、一部の人々には食糧が豊富にある場合が多い。また、飢饉が発生している地域から食糧が外部へと運び出される例も見られる。そして、過去の飢饉の記録を見ると、洋の東西や時代を問わず、都市部で餓死者が少ないか、食料が不足していないことが多く、むしろ、都市部へ人が避難して衛生状態が悪化したことによる疫病の例が多い。このような点から、飢饉の原因は食糧の配分、つまり餓死者が食糧を手に入れられなかった理由にもある。以下では、その主要な理由を挙げる。これらは通常、複合して飢饉を引き起こす。飢饉により、最も大きな被害を受けるのは、高齢者や子供、病人などの元々体力の低下した者であり、また、元々生活の苦しい貧困層である。飢饉によって、食糧を得られないことによる直接的な餓死のほか、体力の低下による疫病の増加、普段食べないものでも食べざるを得ないことによる下痢などでの死亡なども引き起こされる。また、多くの飢饉において、食糧を求めて都市部などに多くの人が移動し食糧を求めた略奪、暴動が発生することもあるため、治安の悪化や生活環境の悪化が発生する。加えて、食糧を得るために家屋や農地、家畜などが売り払われるため、飢饉後に経済格差が拡大する要因ともなる。飢饉における死者数・被害者数は、正確な算出が困難であり、様々な立場の人や集団から、様々な推計が出される。『続日本紀』(8世紀成立)には、大宝2年(702年)9月17日条から延暦10年(791年)5月12日条の約89年間で、飢饉に関する記述が少なくとも116回を超えている。その内、天平宝字7年(763年)の記述が「14回」(20国、同じ国を含む)、天平神護元年(765年)が「12回」(17国、同国含む)、宝亀5年(774年)が「14回」(15国、同国含む)と集中している。また、一度に飢饉になった国の数(4国以下は省く)として、慶雲2年(705年)12月27日条で「20国」、同3年(706年)2月16日条で「7国」、天平宝字4年(760年)3月26日条で「15国」、同6年(762年)5月4日条で「畿内と5国」、天平神護元年(765年)2月15日条で「4国」、同年3月16日条で「6国」、延暦4年(785年)10月10日条で「4国」、同9年(790年)4月29日条で「14国」、同10年(791年)5月12日条で「4国」と記録されている(『続紀』)。『続紀』に具体的に飢饉者の人数が記された条として、宝亀10年(779年)8月2日条に3千余人。延暦9年(790年)8月1日条に、大宰府管轄下(九州諸国)で8万8千人余りが飢饉になったと記録される。奈良時代では、飢饉が起こるたびに、朝廷が医者と薬と物資を各国に送っていたことが記述され、疫病と飢饉が頻繁になると天皇が天に徳を示すために大赦を行った(『続紀』より)。イギリス東インド会社が、支配するようになって、インド人は重い税負担に苦しんだ。また、インド農民に小麦など食糧をつくるべき畑で、綿花や綿布の染料に使う藍や、アヘンの原料となるケシなどの栽培を強制した。綿花は特定の一次商品を宗主国イギリスに輸出し、完成消費財を輸入するという経済構造に変質したため、従来の自給型農業が決定的な変化を被った。その結果、田畑の減少や失業者の増加により、飢饉に際して多くの犠牲者を出す地域が現れた。インド各地域で飢餓がおこっても、イギリス政府は、まともに救済はしなかった。一部の関係者は、トマス・ロバート・マルサス理論を主張し、飢饉は人口抑制のために自然の方法であることを主張した。1770年のベンガル飢饉で死者約1000万人。1800年〜1825年大飢饉5回 死者約100万人。1826年〜1850年大飢饉2回 死者約40万人。1851年〜1875年 大飢饉6回 死者約500万人。1876年〜1900年大飢饉18回 死者約1600万人。1943年ベンガル飢饉で死者約300万人。イギリスによる過酷な植民地統治時代に頻発した飢饉の死者数は推計で5000万人を越える。
出典:wikipedia
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