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ダン・ミセリ

ダニエル・"ダン"・ミセリ(Daniel "Dan" Miceli, 1970年9月9日 - )は、アメリカ・ニュージャージー州ニューアーク出身のプロ野球選手(投手)。イタリア系アメリカ人。4人兄弟の末っ子として生まれる。父親はイタリア人で、母親はウルグアイ人。父の姓はもともとイタリア語風の「ミチェリ」(Miceli)と表記されたが、アメリカに移住すると英語のアクセントに合わせた「ミセリ」となった。幼少の頃はエンジニアをしていた父親の仕事の都合でメキシコ、ブラジル、ウルグアイ、イタリアなどを転々としていた。この時の経験から英語、スペイン語、ポルトガル語、イタリア語の4ヶ国語を習得している。12歳ごろアメリカに戻り、同時期に野球を始める。野球を始めたのはそれまでに触れたスポーツの中で野球が一番楽しかったことと、バスケットボールやアメリカンフットボールのような体が接触することが多いスポーツが苦手だからだという。1990年にロイヤルズとドラフト外で契約。1993年にパイレーツでメジャー昇格を果たすと1995年にクローザーとして21セーブを挙げ、1998年には67試合に登板し10勝5敗の成績でパドレスのワールドシリーズ進出に貢献した。このワールドシリーズがMLBのキャリアで一番の思い出だったと語っている。MLBでは12年間で9球団を渡り歩き、2003年シーズンには1年間に4球団で登板するというMLB初の記録も残している。MLB時代はがっちりとした体格と投球の際右目をつぶる癖があることから「ポパイ」というニックネームが付けられていた。また、アストロズなどで同僚だったロジャー・クレメンスと風貌や投球スタイルが似ていたこともあり、クレメンスの「ロケット」に対し「ミサイル」とも呼ばれていた。2004年シーズンはリリーフ陣の一角として74試合に登板し、アストロズのポストシーズン進出に貢献している。しかしプレーオフでは5試合の登板で2本のサヨナラ本塁打を含む4本塁打を喫し3試合で敗戦投手となり、チームのリーグチャンピオンシップシリーズ敗退の一因になった。2004年シーズン終了後、日本プロ野球の読売ジャイアンツと契約。本人は2004年シーズンを最後に引退を決意していたが(後述)、巨人サイドの強い要請で現役続行を決意し来日する。先に巨人入団が決定していたゲーブ・キャプラーは、メジャー時代にミセリとチームメイトだったことがあり仲が良く、ミセリのことを「非常に打ちにくい」と球団に推薦していた。監督の堀内恒夫もビデオを見て獲得を希望した。入団時には「メジャー6球団からオファーがあったが、新たな野球にチャレンジできるチャンスだと思った。優勝に貢献できるよう何でもするつもりだ」と意気込みを語った。メジャー通算579試合に登板したその豊富なキャリアから、長年絶対的なクローザー不在に悩んでいた巨人の救世主として期待されていた。ミセリ自身も「50セーブを目指したい」と目標を大きく掲げた。2月10日から宮崎キャンプに合流。投球練習を見た堀内は「ボールが高めにいかない」と制球力を評価したうえで「後ろで使うつもり。9回1イニング限定」とクローザーでの起用を明言するなど、この時点では高く評価されていた。しかし日を重ねるうちにセットポジションからの投球モーションが緩慢でコントロールも不安定になるという弱点が判明。他球団のスコアラーからは実戦ではボークになるという指摘もあった。ミセリ本人は開幕までには修正すると語ったが、この頃から既に首脳陣らの間に不安感が漂い始める。オープン戦では2試合に1試合のペースで登板し、開幕に向け調整を図っていく方針が取られた。試合では制球力はまずまずだったものの、速球は最速でも140km/h台前半に留まった。変化球も空振りが取れず打者に捉えられ、無失点に抑えた試合でも再三走者を出すなど内容は不安定だった。3月20日の西武戦ではボークと四球が絡んで5失点を喫し、周囲の不安を増大させたが、ミセリ本人は「今は準備の段階。開幕までには完全に仕上げる」とコメントした。オープン戦の成績は8試合に登板して0勝1敗防御率5.63だった。前評判とかけ離れたミセリの投球に首脳陣の一人が「別人が来たかと思った」と漏らすなど、不安を残してペナント開幕を迎える。4月1日の広島東洋カープとの開幕戦、1点リードの9回表に初登板。開幕戦勝利を祈る巨人ファンから大歓声を受けたのもつかの間、グレッグ・ラロッカにバックスクリーンへの同点本塁打を打たれ救援失敗。続く前田智徳には内野安打を打たれ、前田に送られた代走の福地寿樹に初球でいきなり盗塁を許した。(解説者であった江川卓からも「クイックがあまり上手くない」と言われた。)その直後、緒方孝市に勝ち越し本塁打を被弾し降板、3失点で敗戦投手となる。試合後、ミセリは「投げて打たれた。それも野球だ。審判の判定にも慣れているさ」とコメントした。次いで4月5日の横浜ベイスターズ戦、同点の12回裏から名誉挽回を期しての登板。しかし先頭打者の金城龍彦から二塁打を浴び早々とピンチに陥る。佐伯貴弘の敬遠後に代打で登場したケビン・ウィットは三振にとったものの、続く多村仁にフェンス直撃のサヨナラ安打を浴び、またしても敗戦投手となる。この試合後のコメントは「野球というスポーツの一部。投げて、打たれた。それだけだ」と前回登板時とほぼ同様のものだった。この2度にわたる救援失敗で首脳陣は二軍で再調整することをミセリに促すが、「本人の同意なしに二軍に落とすことが出来ない」という契約条項を盾にミセリが拒否。首脳陣に条項のことが知らされたのはこのときになってようやくであった。仕方なく、一軍に帯同しながら当面は中継ぎで調整することが決まる。この頃ミセリはマスコミの取材に対し「どんな成績に終わっても、今季限りで引退する。本当は昨年限りのつもりだったのに、巨人から思わぬオファーがあったから来日した。メジャーでやり残したことは何もないし、日本でダメなら、さっさと帰国するだけ」と、すでに現役に見切りをつけているようなコメントを残している。4月6日の横浜戦では延長11回に巨人が1点リードしてセーブ条件が整ったため、横浜ファンから「ミセリコール」が巻き起こった(このときはミセリは起用されず、前の回から投げていた久保裕也がそのまま続投した)。4月7日の横浜戦では3-8と5点ビハインドの6回裏に中継ぎとして登板。先頭打者の種田仁を四球で歩かせると、クイックモーションの癖を見抜かれ種田にあっさり盗塁を許す。次打者の金城は一塁ゴロに打ち取ったが、佐伯に適時打、続く多村には2点本塁打を浴び1回3失点。試合後には「こんなリトルリーグみたいに狭い球場でやっているからだ」と発言した。4月10日の中日ドラゴンズ戦で9回表に登板をするが、試合は10点ビハインド(0-10)であり完全に敗戦処理扱いであった。2安打を許しながら4度目の登板にして初めての無失点。これが日本最後の登板となった。敗戦処理での登板にミセリは不満を顕わにし、さらには右肩痛を訴え始めた。首脳陣は再度二軍降格を打診するが、あくまで二軍落ちを拒否する姿勢を示した。このことで4月17日にミセリ本人を交え、山本功児(当時ヘッドコーチ)、阿波野秀幸(当時投手コーチ)との3人で40分にわたる話し合いが行われた。その内容について山本は「肩の調子について聞いた」とし、阿波野は「嘘を言いたくないから言えない。代理人にも関わること。重要な話し合いです」と答えている。一方で記者から質問を受けたミセリは「日本の美しさや家族構成のこと、それに仏教について話した」とコメントしている。結局交渉は決裂に終わり、首脳陣は現場の状態をフロントに報告。開幕から1ヶ月も経たない4月19日に球団史上最速で解雇に至った。解雇の理由について球団社長の桃井恒和は会見で「いつ投げられるようになるか分からない投手を一軍に置いておくわけにはいかない。一軍に帯同させる形で再生できるのかという疑問もあった。チームが勝つ態勢を整えるために早い決断が必要だった」と発表している。この一連のミセリ騒動を皮切りに、2005年シーズンにおける巨人の投手陣は、エースの上原浩治の故障やリリーフ陣の深刻な駒不足など、以前から懸念されていた不安材料が次々と表面化し、壊滅状態に陥った。野手陣も主力の故障に加え、タフィ・ローズの『ジャイアンツ大嫌い』騒動や清原和博のハイタッチ拒否などチーム状態が悪化した影響もあり、最終的に8年ぶりのBクラスという屈辱を味わう。桃井球団社長はミセリ解雇の会見の際に「フロントとして責任を感じている。失敗の原因を探っていかなくてはならない」と語った。オーナーの滝鼻卓雄は「普通の会社で言えば採用ミス」というコメントを残している。来日前年の年俸は60万ドルだったが、巨人がオファーした金額は3倍近い170万ドルであった。ただしシーズン途中での解雇であったため、年俸はミセリ側との協議で契約期間の内2 - 4月までの3カ月分(5,250万円)を支払うことで落ち着き、全額支払いは免れた。解雇当日にミセリは東京ドームに姿を見せ、荷物をまとめたあと井原敦国際部長(現在は読売新聞東京本社編集局運動部長)と別れの握手を交わした。報道陣のインタビューに対しては「喉が痛いから話すことはない。もう行かなくてはならない」と応じ、足早に球場を後にした。その直後にミセリは妻子と共に浅草観光に打って出る。浅草寺を参拝したり人力車に乗るなど浅草を満喫。「仲見世リ(なかみせり)」の見出しで報道された。観光中、ファンにサインをねだられた際、「これが最後だ」と言って殴り書きしたサインは「M」の1文字であった。インタビューに対しては「俺はミセリじゃない。質問は受け付けない」と返り討ちにした。ただ雷門をバックにした家族との3ショット写真を要求されると笑顔で応じた。浅草観光後も一週間ほど日本に滞在したという。この一件には反発も多く、当時のチームメイトのブライアン・シコースキーやタフィ・ローズも苦言を呈したほどであった(特にシコースキーは「他人の悪口を言っているのを聞いたことがない」と言われているほど良い人柄であったため、ミセリの態度は相当悪かったと言える)。また、漫画家のやくみつるも、「日本観光のオプションツアーとして、読売ジャイアンツ体験入団があった」と皮肉った。アメリカ帰国後の5月19日にコロラド・ロッキーズとマイナー契約、6月にはメジャー復帰を果たし、その後は巨人時代と比べると好投を見せた。2006年はタンパベイ・デビルレイズへ移籍、チャド・オーベラや森慎二らとのクローザー争いが注目された。また、この年に行われた2006年ワールド・ベースボール・クラシックではイタリア代表に選出。背番号は58。1次リーグの対ベネズエラ戦で8回に6点ビハインドの場面で7番手として登板し、1回を無失点2奪三振の好投を見せた。チームが1次リーグで敗退したこともあり、大会での登板はこの試合のみだった。2006年5月4日の対ニューヨーク・ヤンキース戦の8回無死1塁の場面で5番手として登板したが、という結果になった。皮肉にもこの試合は日本で中継放送されていた。この後、即日故障者リストに入った。2006年9月14日、復帰第2戦目だった松井秀喜からフォークで三振を奪うほか、他の試合では城島健司をレフトフライに抑える活躍をした。2007年、オープン戦で6試合に登板したが防御率9.53と不振で、3月29日にデビルレイズから解雇された。2008年1月22日にボストン・レッドソックスとマイナー契約を結び、招待選手としてスプリングキャンプに参加することとなった。3月1日に引退を表明した。上記のように一時引退していたが、2009年4月にアメリカ独立リーグ・アトランティックリーグに加盟するロングアイランド・ダックスと契約、現役復帰となった。背番号は32。16試合に登板し成績も良好だったが同年5月31日に退団となった。巨人の海外スカウトの前情報ではストレートは最速153キロをマーク、落差の大きい鋭いスライダーは140キロ、さらにフォークボールも使いこなす本格派投手との触れ込みであった。獲得前にプロモーション用に編集されたものではないVTRを見て獲得を希望した堀内は「投げている球はしっかりしている。懸案だった補強ができた」と語っていた。来日前のスポーツ報知のインタビューによると、球種はストレート、スライダー、シンカー、カッター、スプリット、カーブと豊富で、ストレートが最速で98マイル(約158キロ)。直近の2004年シーズンでも96マイル(約154キロ)をマークし、常時93から95マイル(約150から153キロ)出せる、とのことだった。日本では最速でも140キロ台前半に留まり、変化球も特に売り文句にしていた自慢のスライダーが右打者に対する決め球として機能しなかったことは深刻で、日本で浴びた本塁打は全て右打者からのものである。

出典:wikipedia

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