民主集中制(みんしゅしゅうちゅうせい、)または権力集中制(けんりょくしゅうちゅうせい、)とは、ロシア革命でボルシェビキ政党が提唱した国家体制。または共産主義政党の党員統治の原則。国民統治としての民主集中制は、一般的に主権者である人民の代表である議会、もしくは議会から選ばれた指導部に国家権力を集中する制度である。実際の内容は国や時期によっていくつかのバリエーションがある。党員統治としての民主集中制は、党の政策、規則、人事、財務が党員の議論、議決によって決定され、決定後は党中央の指示・指導となり、党員はそれに絶対服従する党員統治の原則である。現存する民主集中制を標榜する国家は、国連加盟国193か国中たったの5か国に過ぎない。どの国も実態はともかく国家の最高権力機関として人民(国民)が選挙で選んだ代表や議員によって構成される一院制の議会をおいている。ただし議員や代表を選挙するにあたり、定数と候補者が同数である信任投票であったり、当局が意図的に定数よりも候補者の数を若干多くなるよう厳重にコントロールする差額選挙という手法をとっていたりする。民主という文字が名称に使われてはいるが、総じて議会制民主主義国で受け入れられている自由な選挙制度とは著しくかけ離れている。また誰でも自由に立候補できるわけでもなく、候補者名簿を作るにあたり指導政党を中心とする集団が何らかの介入が行えるような仕組みを持っており、著しく選挙制度がゆがめられているのが実情である。特に北朝鮮は誰が不信任の票を入れたのか当局に知られてしまう公開投票という手法をとっているため、選挙の自由度が極めて低く、投票者の基本的人権を著しく侵害していると言わざるを得ない。また議会の開会している期間が極めて短いのも特徴として挙げられる。議会閉会中は、どの国も総じて名称は違えど常務委員会や常任委員会など少数の委員で構成される常設の会議体が、議会のほとんどの権限を代理する仕組みを持っている。憲法上は議会を国の最高の機関と位置付けてはいるが、決定のほとんどは常設の会議体により行われているのが実態である。民主集中制は一党独裁制の政党制と組み合わされて用いられ、両制度ともに不可分の関係にある。両制度によって、立法権、行政権、司法権といった国家権力を指導政党の中央組織の一点に集中させ、それらの権力を社会の隅々にまで張り巡らして国民を統治している。党中央による統治の仕組みは、個々の権力機関の内部にその意思決定部門と一体化した「党委員会」、「党グループ」などの党組織を置き、権力機関を内部から統制している。中国の指導政党である中国共産党の場合、党委員会、党グループを権力機関内部の各階層に設置するという徹底ぶりである。その構図は、上下のツリー型というより、むしろ指導政党を中心としたハブアンドスポーク型の関係を垂直方向に積み重ねた円柱型の立体構造のイメージに近い。「民主主義的中央集権制」の原則は、1906年4月に開かれたロシア社会民主労働党の統合大会で初めて党の組織原則として採択された。これに先立つ1905年11月、メンシェヴィキの協議会が「党の組織について」という決議を採択した。「ロシア社会民主労働党は民主主義的中央集権制の原則にしたがって組織されなければならない」とした上で、その内容として、党の機関は選挙によって構成されること(選挙制)、更迭されうること(更迭制)、その活動を定期的および随時に報告しなければならないこと(報告義務制)などを挙げたものだった。1905年12月に開かれたボリシェヴィキの協議会で採択された決議「党の再組織について」もほぼ同じ内容の民主主義的中央集権制を「争いの余地なきもの」と認めた。統合大会はこれらの動きを受けて党規約を改正し、民主主義的中央集権制を採用した。統合大会ではメンシェヴィキが多数派だったため、採択された決議もメンシェヴィキの主張に沿ったものが多かった。そのためボリシェヴィキは大会の決定を繰り返し批判した。メンシェヴィキが支配する党中央委員会は、その批判を規制するため、党の新聞雑誌や集会での批判は自由だが大衆的な政治集会で大会の決定に反する煽動や大会の決定に矛盾する行動の呼びかけを行ってはならない、という決議を採択した。レーニンは「批判の自由と行動の統一」という論文でこの決議を批判し、批判の自由は党の集会でも大衆集会でも完全に認められるべきだが行動の統一を破る呼びかけは党の集会でも大衆集会でも認められるべきではない、という見解を示した。十月革命後、内戦が激しくなると民主主義的中央集権制の原則は修正され、民主主義的要素が後退して軍事的規律が支配するようになっていった。1920年に開かれたコミンテルン第二回大会は「プロレタリア革命における共産党の役割に関するテーゼ」を採択し、その中で「民主主義的中央集権制の基礎的原則は、党の上級団体が下級団体によって選挙され、党の上級団体の指令一切が絶対的に、かつ必然的に下級団体を拘束し、大会と大会との間の期間、一切の指導的な党の同志が一般にかつ無条件にその権威を認める、強い党の中心が存在すべきことである」と規定した。軍隊的な上意下達に基づいた党規律を民主主義的要素よりも優先し強調したこのような民主主義的中央集権制がコミンテルンを通じて各国の共産党に広がっていった。さらに1921年の第10回党大会で採択された決議「党の統一について」は党内において分派を形成することを禁止した。それでも1920年代には党内にトロツキー派やブハーリン派などの反対派が存在したが、スターリン派によって一掃され、1930年代の大粛清において次々に処刑された。共産党は指導部に対する批判をいっさい許さない組織へと変わった。このスターリン時代の党組織原則を民主主義的中央集権主義と区別して一枚岩主義と呼ぶ見解もある。しかし共産党自身は自らの組織原則を民主主義的中央集権制と呼びつづけた。1934年に改正された党規約第18条も「党の組織構成の指導的原理は民主主義的中央集権制」と規定しており、その内容として以下の四つの項目が挙げられている。(1) 党の上から下までのすべての指導機関の選挙制 (2) 党組織にたいする党機関の定期的報告制 (3) 厳格な党規律、ならびに多数者への少数者の服従 (4) 下級機関および全党員にとっての上級機関の決定の無条件的な拘束性。1977年に採択されたソ連憲法は国家の原則として民主主義的中央集権制を採用し、第3条で「ソビエト国家の組織と活動は、民主主義的中央集権制の原則、すなわち、下から上までのすべての国家権力機関は選挙によって構成され、これらの機関は人民に対して報告義務を負い、上級機関の決定は下級機関にとって拘束力をもつという原則、にしたがってうち立てられる」とした。中国共産党の党規約では、「総綱(前文)」において「民主集中制を堅持すること」を党の原則として掲げている。さらに第十条に民主集中制の具体的な内容を明記している。1958年の日本共産党規約では以下のように記載した。1975年12月に『文藝春秋』で始まった連載「日本共産党の研究」において、立花隆は暴力革命・プロレタリア独裁・民主集中制をレーニン主義の三位一体の原則だと指摘した。その上で、日本共産党は暴力革命を否定し、プロレタリア独裁の意味内容を換骨奪胎したが、民主集中制は捨てていないので体質は変わっていない、と主張した。また、民主集中制の背後には大衆に対する不信とエリート主義がある、という見解を示した。日本共産党はこれを「反共攻撃」と見なし、「民主集中制は、勤労大衆に責任を負う近代政党の不可欠のメルクマールである。党内派閥を認めず、三十数万の党員が一つの路線、方針にもとづいて多彩に積極的に活動している日本共産党は、もっとも近代的、合理的で、活力ある組織政党である」などと反論した。1976年には藤井一行が雑誌『現代と思想』において「民主主義的中央集権制と思想の自由」を発表し、民主集中制の内容がレーニン時代とスターリン時代では大きく異なっていることを指摘した。藤井はとくに、レーニンの時代には分派が自由に形成されており、その上で「批判の自由と行動の統一」という原則が成立していたことを強調した。これに対しては日本共産党の側から不破哲三や榊利夫が反論し、「批判の自由と行動の統一」という原則はボリシェヴィキとメンシェヴィキが同じ党内で争っていた時代のものであり、レーニンの原則はむしろ1921年の分派禁止令に表れている、と主張した。2001年に刊行された日本共産党の党規約解説本では、民主集中制はあくまで共産党内部の原則であり、同党が政権獲得した場合、日本社会全体が民主集中制に移行させられるという批判に対して「われわれ自身の内部規律だということを、しっかりとおさえて反論することが大事です」と述べている。日本共産党は2000年に改訂された党規約において民主集中制を維持しており、第3条で以下のようにその内容を規定している。また、日本共産党員の権利と義務は第5条で規定されており、民主集中制と関係が深いと考えられる文章が見受けられる。さらに、民主集中制の中央集権的性質を特徴づける条文が、第19条、第21条に規定されている。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。