グアヤキル()は、エクアドル共和国最大の都市にして最大の港湾都市である。グアヤキル湾に注ぐグアヤス川の河口から約60Km上流の沖積地(一部河口州)に位置し、2003年当時の人口は219万6,800人で周縁地区を合わせると300万人の人口を擁する。グアヤス県の県都でもある、南米有数の世界都市。市はエクアドルでの商業と製造業の中心地である。市は大きくスル、セントロ、ノルテの3地域に分かれ、それぞれ工業・一般居住地区、商業地区、高所得者居住地区とされてきたが、最近ではセントロを除く他地区はこの分類が曖昧になりつつある。スルのグアヤス川沿いには水産加工場や製粉工場、造船・船舶修理工場などが集中している。グアヤキル港はこのスル地区最南部にあり、主な取り扱い貨物はバナナ、カカオなどの農産物である。2007年に一部がコンテナ専用埠頭に改装され、現在ではエクアドル最大のコンテナ取扱量となっている。、、、ビセンテ・ロカフエルテ・ライ総合大学およびエクアドル工科大学がある。町の創設前にも、この地に原住民は居住していた。1538年7月25日、スペインのコンキスタドールのフランシスコ・デ・オレリャーナにより、「Muy Noble y Muy Leal Ciudad de Santiago de Guayaquil」の名前で町が創設された。1600年の人口は、およそ2,000人であり、1700年までに、1万人を超えていたとされる。1687年、町は George d'Hout 率いるイギリス海賊と、Picard と Groniet が率いるフランス海賊に襲撃され、略奪にあった。260人以上いた海賊側は35人が死亡し、46人が負傷、町の防御に当たった者75人が死亡し、100人以上が負傷した。海賊は、現地住民の女性を妾にした。1709年、イギリスの艦長 Woodes Rogers、Etienne Courtney、William Dampier と乗組員110人は、略奪を行い、身代金を要求したが、黄熱病が流行した後、彼らは身代金を得ること無しに去った。1820年10月9日、「Granaderos de Reserva」の軍人やグアヤキルに野営していた大隊の軍人に支援された市民グループが、スペイン王国の衛兵による抵抗に勝利して、ほとんど流血なしに、スペインの統治機関職員を捕らえた。グアヤキルはスペインからの独立を宣言し、Libre de Guayaquil 州となり、ホセ・ホアキン・デ・オルメドが街の首長 (Jefe Civil) に指名された。このことは、エクアドル独立戦争での決定的な勝利を意味した。1822年7月26日、ホセ・デ・サン=マルティンとシモン・ボリバルは、スペイン領南アメリカの独立を計画するために、グアヤキルで有名な会議を開いた。1829年、街はペルー軍に侵攻され、7か月間占領された。1860年、街はの舞台となった。1896年、大火により街の大半の部分が破壊された。夜間に凶悪犯罪が多発する地域も多く、エクアドルで最も治安の悪い都市として知られる。グアヤキルを含むグアヤス県では2012年1月からの半年間で殺人が296件、強盗が6593件発生。ノグチ通りや民芸品市場近くのロハ通りでは観光客狙いの強盗が多数発生しているほか、一般市民でも銃を所持している場合もあり、犯罪が凶悪化している。2013年12月、新婚旅行中の日本人夫婦が襲撃され、夫が亡くなり妻が重傷を負った。プロサッカーチームのエメレックSC、バルセロナSCの本拠地であり、両チームの戦いをClasicoと呼ぶ。原則、エクアドル国内での“Clasico”の呼称はこの二チームの戦いを指す。1918年、黄熱病に苦しんでいたエクアドルにロックフェラー医学研究センター(現・ロックフェラー大学)の要請で派遣された野口英世は、グアヤキルに滞在し、病原体を発見。野口が発見したのは黄熱病のものではなかったと後年言われたが、当時野口のワクチンで多くの人が救われ、黄熱病の流行が沈静したことから、グアヤキルはじめエクアドル各地でその功績が顕彰された。
出典:wikipedia
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