バンベルク(Bamberg)は、バイエルン州オーバーフランケン行政管区の郡独立市で、バンベルク郡の郡庁所在地。バンベルクは、大学都市であり、大司教の都市であり、ビールの都であり、行政都市である。この街は、人口約20万人の人口密集地域の中規模中心都市であり、オーバーフランケン地方の重要な中心地である。見応えのある旧市街は、ドイツでも最もすばらしく無傷に保存された歴史的な市街地であり、1993年にユネスコの世界遺産に登録された。この神さびたフランケンの皇帝都市にして司教都市は、二股に分流したレグニッツ川の肥沃な谷間の草地に広がる。レグニッツ川は市街中心部の北7kmでマイン川に合流する。市域の面積は、54.58平方キロメートル。南北9.6km、東西9.7kmである。バンベルクは、以下の市区から構成される。ベルクゲビート、インゼルシュタット、ゲルトナーシュタット(以上を併せて旧市街を形成する)、クラマースフェルト=ヒルシュクノック=ブルッカーツホーフ、ガルテンシュタット、シュターディオン(バンベルク東)、ゲロイト、ヴンダーブルク、ガウシュタット、バンベルク北、ブーク、ブークホーフ、アム・クリニクム=バンベルガー・フィエルテル、ヴィルデンゾルク。バンベルク前史時代の最も古い遺物は、おそらく19世紀に発掘された偶像『バンベルガー・ゲッツ』であろう。902年に初めて、現在のドムベルクが"Castrum Babenberch"として登場する。この地はフランケン・バンベルク家の所領であったが、903年、ラインフランケンのコンラート家との流血のフェーデの末にこのレーエンを失った。この、いわゆるバンベルク・フェーデによってバンベルク家の3人の兄弟が亡くなった。財産は王のものとなり、973年まで王領のままであった。神聖ローマ皇帝オットー2世は、従弟のバイエルン公ハインリヒ2世(好戦公)にこのCastrum(城塞)を贈与した。1007年、ハインリヒ2世の息子である皇帝ハインリヒ2世(バイエルン公ハインリヒ4世)によって新たな司教区が創設された。また同年、大聖堂が建設されるが、2度の火災に遭い、13世紀以降に現在の建物に改築された。16世紀の司教領主権力に対する農民達の蜂起は、不成功に終わった。司教領主ロタール・フランツ・フォン・シェーンボルンとフリードリヒ・カール・フォン・シェーンボルンの下、この都市はバロック文化の華を体験した。この都市は三十年戦争でスウェーデン軍に、七年戦争でプロイセン軍に、19世紀にはフランス軍に手ひどく痛めつけられた。バンベルク市と司教本部は、リュネヴィルの和約によって、バイエルン選帝侯がフランスの領土を失う代償として与えられることとなる土地に含まれた。この条件が帝国代表者会議で最終的に確定する前、1802年9月2日からバイエルン選帝侯は司教本部領に軍隊を送り、11月29日にはこの領域を最終的にバイエルン領としたことを表明した。司教領主のクリストフ・フランツ・フォン・ブゼックは辞任し、これによりバンベルクの独立性は失われた。1854年5月25日から26日にドイツ各地の中級官僚8人(バイエルン、ザクセン、ハノーファー、ヴュルテンベルク、バーデン、クアヘッセン、ヘッセン=ダルムシュタット及びナッサウ)がバンベルクに集まり『バンベルク会議()』が開催された。ここでは、それぞれが、オーストリア、プロイセンの二大勢力下での立場を超えて、東方問題にあたることを了解しあった。第一次世界大戦後、1919年4月に、その直前に成立していたバイエルン自由州のホフマン内閣がミュンヘン労働者兵士農民評議会(レーテ)との軋轢により倒れ、ホフマン内閣がバンベルクに逃れてきた。彼らはここからベルリンの中央政権にレーテ政権(バイエルン・レーテ共和国)打倒のための軍事的支援を要請した。このためレーテ共和国は中央政府軍と義勇兵からなる軍に敗北し、5月3日に崩壊した。この間ホフマンの政府はバンベルクで憲法を制定し、8月12日に署名した(バンベルク憲法)。1926年には国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の幹部会議が行われ、ヒトラーの党内独裁権が確立した(バンベルク会議 (1926年))。第二次世界大戦末期の1945年にはアメリカ軍に占領され、駐屯地となっていた。戦後、バンベルクはアメリカの管理地区に属した。軍管理部は、ドイツ人追放のために故郷を逐われた「(難民)」と呼ばれるドイツ人のための難民キャンプを設けた。1647年に創立した大学(Universität)は、1803年に廃止されたが、「哲学・神学単科大学(Hochschule)」として新たに生まれ変わった。1946年から1947年にかけての冬学期に、総合大学に必要な学部を拡張し、学生を受け容れ始めた。そして大学自身は、バイエルン州第4の州立総合大学となることを目指した。エネルギッシュな主導者は、当時の学長ベネディクト・クラフトであった。彼は、その時ケーニヒスベルクやブレスラウで教鞭を執っていた著名な教授やライプツィヒ帝国最高裁判所所長を招聘した。戦争から帰還した元兵士の多くが勉強を再開したため、学期を追うごとに大学は拡大を続けていった。拡充計画は、レーゲンスブルク大学がバイエルン州第4の州立大学となり、挫折したものの、1972年にバンベルク単科大学は総合大学として再出発し、1979年にはUniversitätに昇格した。創設者にちなんで、オットー=フリードリヒ大学と名付けられたこの大学は、人文科学部、社会科学部の他に「経済情報学と学際領域情報学」の学部を有している。バンベルクは魔女狩りの中心地の一つであった。魔女狩りの時代、バンベルク大司教ヨハン・ゴットフリート1世・フォン・アシュハウゼン(1609年 - 1622年)及び次代のヨハン・ゲオルク2世・フークス・フォン・ドルンハイム(1623年 - 1633年)の指導下、大規模な魔女狩りが行われた。同様の大規模な魔女狩りは、ヴュルツブルク大司教領やマインツ選帝侯領など、ドイツ南部で行われた。1612/1613年から1617/1618年の間に、バンベルク司教領で300人が薪の上で炎に焼かれた。特に1617年には、この司教領で102人の人々が処刑された。最も有名な犠牲者は、市長のヨハネス・ユニウスで、1628年8月に魔術師監獄での拷問を受け死亡した。中世から近世初期には、バンベルクの人口はゆっくりと増加し、戦争、伝染病、飢饉などにたびたび襲われた。1349年から1350年のペストの大流行と、これに続いて起こったユダヤ人迫害(疫病の原因はユダヤ人だという噂による)により多くの人が亡くなった。三十年戦争により人口は減少し、1648年には約7,000人にまで落ち込んだ。戦争前には12,000人の人口があった。19世紀の工業化の開始とともに、人口増加は加速した。1811年の初めには、この市に17,000人が暮らしていたが、1900年にはそれが42,000人にまで増えている。1939年までに人口は59,000人にまで増加した。第二次世界大戦直後には、東部地区からの多くの難民や国外追放者らがこの市に流れ込み、数ヶ月のうちに人口は16,000人増加して、1945年12月の人口は75,000人となった。1953年1月の人口は、最大値の77,000人となった。1972年6月まで人口は次第に減少し、69,000人となった。1972年7月1日の市町村合併により、バンベルク市の人口は7,207人増え、76,000人となった。2006年6月30日の、バイエルン州統計情報局のデータによるバンベルク市の公式人口は、70,063人(推計値)である。以下の表は、その都度の市域における人口の推移である。1811年までの数値は概算の推定値である。それ以降は、国勢調査(¹)または州の統計局の報告書に基づく公的な数値である。¹ 国勢調査2014年3月16日の選挙結果に基づく市議会の構成は以下の通りである。1945年以降の上級市長は以下の通り、1958年にバンベルク市は、チェコのオパヴァ周辺地域から国外追放になったズデーテン地方のドイツ人に対する協力を約束している。"詳細はバンベルク市街参照"1000年にわたる建築文化財が比類のない街の風景を創り出している。バンベルクはローマと同じく7つの丘に築かれた街で、このため、時に「フランケンのローマ」と呼ばれる。バンベルクは、第二次世界大戦でも、大部分が被害を免れ、今日に至るまで変わらない昔の風景を見せてくれている。街は、宗教施設が占めるベルクシュタット(大聖堂周辺の「山の街」)と市民の街であるインゼルシュタット(レグニッツ川の二つの分流の間にある「島の街」)、そしてゲルトナーシュタット(「庭園都市」)の三つの部分からなる。大聖堂の塔がそびえるこの街では、中世の建築物と市民的バロック芸術が、保護文化財となる芸術的アンサンブルを描き出している。1993年に、旧市街は、ユネスコの「人類の文化・自然遺産」に登録された。その選定理由に、バンベルクが、中央ヨーロッパの諸都市で発展することとなる中世初期のグランドデザインを比類ないあり方で示していることが挙げられた。ユネスコ世界遺産の登録対象地域は、歴史的な市の中心街である、ベルクシュタット、インゼルシュタット、ゲルトナーシュタットが含まれ、その総面積は約140haとなる。2004年の100ユーロ記念金貨ユネスコ世界遺産シリーズに、バンベルクの歴史的都市風景が採り上げられた。この他にも1000以上の記念建造物がある。バンベルクには幾人かの重要な文学者が暮らした。1260年からフーゴ・フォン・トリムベルクは、当時のバンベルク郊外トイアーシュタットにあったラテン語学校で働いた。七つの大罪を含む24000行からなる道徳的教訓詩"Der Renner"(『ランナー』)はこの頃に書かれた。初期の人文主義者であるアルブレヒト・フォン・アイプはバンベルクの聖セバスティアン・クリアに住んでおり、"Loblied über die Anmut des Mägdeleins Barbara"(『農婦バーバラの美しさへの賛歌』)はここで生まれた。この後、バンベルクは、ドイツ・ロマン主義の発展に重要な役割を演じた。ヴィルヘルム・ハインリヒ・ヴァッケンローダーはこの潮流の最初期の作家の一人であり、ルートヴィヒ・ティークと共同で著した"Herzensergießungen eines kunstliebenden Klosterbruders"(『芸術を愛する修道士の告白』)をはじめとするバンベルク滞在中の諸作品により、その発展に寄与した。ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルは、1807年にバンベルクで "Phänomenologie des Geistes"(『精神現象学』)の出版者を見つけ出した。彼は、Bamberger Zeitung(バンベルク新聞 )の編集長となるが、その後すぐにバイエルンの出版法に抵触し、ニュルンベルクへ去っていった。彼のジャーナリストとしての社会参加は、彼の年表の中にエピソードとして活きている。1810年にはカール・フリードリヒ・ゴットロープ・ヴェッツェルが、Fränkischer Merkur(フレンキシェ・メルクール)と改名したこの新聞の編集長の職を引き受けた。彼のバンベルクでの活動は、多くの戯曲や詩集、その他の作品を生み出した。この街の文学者で最も重要な人物の一人に、E.T.A.ホフマンが挙げられる。彼は、1808年にバンベルクで音楽監督として活動を開始した。その後すぐに、彼は劇場の作曲家として契約をしている。1809年に、最初の文学作品となる "Ritter Gluck"(『騎士グルック』)を執筆した。これに加えて、彼は舞台作品の演出や、舞台装置の制作にも関わるようになった。彼の文学創作の源泉は、出会った当時15歳の声楽を学ぶ学生だったユリア・マルクへの愛情であった。後年の作品に登場する女性のモデルは彼女なのである。しかし、バンベルクでの彼の収入はすべての活動を合わせてもわずかばかりで、金銭面では困窮生活を続けなければならず、1813年にこの街を離れた。彼の生家は現在、E.T.A.ホフマン協会が管理しており、博物館として用いられている。ハンス・ヴォルシュレーガーは、バンベルクで、アイルランドの詩人ジェイムス・ジョイスの小説『ユリシーズ』をドイツ語に翻訳した。チェコ在住ドイツ人によって結成されていたプラハ・ドイツ・フィルハーモニーを母体として戦後設立。初代常任指揮者ヨーゼフ・カイルベルト以降、多くの名指揮者を迎えて今日に至る。4管編成百名以上の陣容を誇り、積極的な録音や演奏旅行で世界的な知名度も高い。音楽王国ドイツでも、人口10万未満の都市がこの規模の団体を擁する例は珍しい。バスケットボールチーム、GHPバンベルクは、ドイツのバスケットボール・ブンデスリーガでは、2005年優勝、1993年、2003年、2004年に2位、また1992年のカップ戦優勝チームである。GHPグループがスポンサーから撤退したため、2006年からはブローゼ・バスケッツの名称で活動している。このチームの熱狂的なファンや、比較的狭い街にもかかわらずファンが多いことから、バンベルクは、ドイツのバスケットバールファンに、『フリーク・シティ』として知られている。SKCヴィクトリアは、男子チームが、ケーゲル(ボウリングに似たゲーム)のドイツリーグで9回優勝、5回のDKBCカップ優勝、4回のワールドカップ優勝、3回のヨーロッパカップ優勝、2回のチャンピオン・リーグ・優勝を飾っている。女子チームも4回のドイツリーグ優勝、2回のカップ戦優勝、ヨーロッパカップ優勝が1回、2回のワールドカップ優勝、2回のチャンピオン・リーグ・優勝を誇る。チェスのSC1868バンベルクはドイツリーグ優勝3回(1966年、1976年、1977年)と1度のドイツカップ優勝(1983年 - 84年)チームである。潜水クラブは、水中ラグビーの2004年ドイツリーグ準優勝チームで3度のドイツリーグ優勝を経験している。ビールの街バンベルクには、現在9つの伝統的で独特な小規模醸造所と、1つの旅館を兼ねた醸造所 (Ambräusianum) が存在している。特別な飲み物として、バンベルクのラオホビアが挙げられる。ブラウエライ・シュペツィアルとシュレンケーラで醸造されている、煙で燻した麦芽を用いたスモーキーな風味のビールである。この他にバンベルクには2つの大きな麦芽製造供給業者と、1つの醸造機械メーカーが存在している。これらにより、ビール産業は、バンベルク経済の重要な軸足となっている。1907年には、いわゆるバンベルク・ビール戦争が起こった。これは、住民の不買運動により、10から11プフェニヒのビールの値上げを撤回させたものである。この他のバンベルクの味と言えば、「バンベルガー・ヘルンラ」と呼ばれるクロワッサン風の焼き菓子や、ジャガイモ料理が挙げられる。バンベルクの大きな雇用主は、以下の通り(2005年10月現在)バンベルクは、300以上のビール醸造所を擁するフランケン・ビール地域の一部をなす。また、フランケンビール地域とフランケンワイン地域の境界に位置する。2007年現在10軒の醸造所が存在している。マイゼル、マール、フェスラ、シュレンケーラ、シュペツィアル、カイザードム、クロスターブロイ、グライフェンクラウ、ケースマン、そして2004年にオープンしたアムブロイジアヌムの各醸造所である。この他にローベスピーレという小さな家内醸造所があるが、販売はしていない。バンベルクはオーバーフランケンの経済的な中心であると同時に、オーバーフランケン地方の観光の中心でもある。バンベルクには、マイン=ドナウ運河の内陸港、2本のアウトバーン(A70/E48とA73)、それに交通ネットワークの中心となるICEの停車駅がある。遠距離鉄道は、南北にライプツィヒ - ニュルンベルク線が敷設されており、ICEが運行している。ベルリン方面への接続は、ザールフェルトとイェーナを経由する。ニュルンベルク - エアフルト間の高速路線完成後の2020年からはエアフルト経由となる予定である。この他に市内を走る鉄道路線は3本ある。バンベルク - シェスリッツの路線は1988年に廃止された。1897年から1922年までは市内交通に路面電車が運行されていた。バンベルク・オットー=フリードリヒ大学は、学生数9,000人(2006年現在)で、バイエルンの小規模総合大学に属す。大学施設は市内に分散しているが、大部分は、中心地の旧市街に位置している。言語学・文学部はカイザー=ハインリヒ・ギムナジウムの一部を使用している。(これらの文献は、ドイツ語版の文献として挙げられていたものであり、日本語版作成時に直接参照はしておりません。)(いずれもドイツ語サイト)
出典:wikipedia
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