堺筋(さかいすじ)は、大阪府大阪市中心部の南北幹線道路。本稿では、都市計画道路堺筋線についても記す。大阪市北区の天神橋1交差点から、大阪市中心部の船場・島之内を縦断して、西成区の天下茶屋東1交差点に至る、全長約6.1kmの南北幹線道路。大阪府道102号恵美須南森町線の大部分を占め、ほぼ全線の地下に大阪市営地下鉄堺筋線が通っている。天神橋1交差点 - 日本橋3南交差点間は、起点方向への北行き一方通行で全5車線。このため、東側を走る南行き一方通行の松屋町筋と対になっている。日本橋3南交差点 - 天下茶屋東1交差点は、片側2車線の全4車線以上となっている。島之内となる長堀橋交差点(長堀橋跡) - 日本橋間では長堀橋筋(ながほりばしすじ)、日本橋 - 阪神高速1号環状線えびす町入口(名呉橋跡)間では日本橋筋(にっぽんばしすじ)とも呼ばれる。また、「堺筋」は砂糖の隠語でもある。「堺筋線」は、大阪市の都市計画道路である。現在は、起点から天下茶屋東1交差点までが堺筋として開通しており、また、終点付近の西成区玉出東の区間も事業は「完了済み」となっている。その間の区間は、未整備であり、事業に取りかかってもいない。和歌山へ至る紀州街道の一部区間にあたり、江戸時代の船場において堺へ出る道であったことから堺筋と呼ばれ定着した。当時から人通りが多く、南北方向のメインストリートであったが、大川には架橋されていなかった。大川以北からの人通りは大川に難波橋が架かる一筋西の難波橋筋に流れ込むようになっており、難波橋筋は西宮へ至る中国街道の一部区間にあたる。江戸時代の大坂は東西方向の道路が主で、従である南北方向の道路は3.3間幅しかなく、南へ伸びる堺筋と北へ伸びる難波橋筋とで繁栄を二分していた。堺筋は1908年(明治41年)に日本橋3交差点 - 恵美須交差点間が拡幅され、大阪市電南北線が敷設された。次いで、1912年(明治45年)に北浜1交差点 - 日本橋3交差点間が12間(約21.8m)に拡幅され、大阪市電堺筋線が敷設された。この際、大川北岸の天満へ向けて、難波橋に市電を通すことに対して反対運動が起こった。そのため、1915年(大正4年)に堺筋に新・難波橋(現在の橋)が架けられ、天神橋1交差点 - 北浜1交差点間には大阪市電天神橋西筋線が敷設された。以降、旧・難波橋が撤去された難波橋筋は裏筋化の一途をたどり、以前の難波橋筋の役割が加わった堺筋は人通りが倍増した。1917年(大正6年)には三越が高麗橋に、1921年(大正10年)には白木屋が備後町に、1922年(大正11年)には高島屋が長堀橋筋に、1925年(大正14年)には松坂屋が日本橋筋に店を構えるなど、堺筋は大正時代に繁栄を極めていた。しかし、1937年(昭和12年)に梅田 - 難波間を24間幅で結び、地下には大阪市営地下鉄御堂筋線が通る御堂筋が竣工する。商業施設はいち早く、一般企業の多くも戦後御堂筋へ移転し、メインストリートとしての地位も御堂筋へ移った。市電は1960年代には姿を消し、1969年(昭和44年)に大阪市営地下鉄堺筋線が開通。1970年(昭和45年)から交通渋滞緩和のため、上述の北行き一方通行が開始された。
出典:wikipedia
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