藤原 種継(ふじわら の たねつぐ、天平9年(737年) - 延暦4年9月24日(785年10月31日))は、奈良時代末期の公卿。藤原式家、参議・藤原宇合の孫。無位・藤原清成の長男。官位は正三位・中納言、贈正一位・太政大臣。『続日本紀』では天平神護2年(766年)に従六位上から従五位下への昇進記事が初出で、同時に叙爵された人物に和気清麻呂がいる。2年後の神護景雲2年(768年)には美作守に任ぜられている。光仁朝では、近衛少将・紀伊守・山背守・左京大夫・下総守などを歴任する一方、光仁天皇即位に尽力した藤原式家の政治的な発言力上昇に伴って、宝亀5年(774年)従五位上、宝亀8年(777年)正五位下、宝亀11年(780年)正五位上、天応元年(781年)従四位下と順調に昇進した。特に叔父である良継・百川の死後は、宇合の孫の中で最年長者であった種継が式家を代表する立場になった。天応元年(781年)4月桓武天皇の即位に伴い従四位上に昇叙されと、桓武天皇の信任が非常に厚かった種継は、以降急速に昇進を果たすこととなる。延暦元年(782年)参議に任ぜられて公卿に列すと、延暦2年(783年)従三位、延暦3年(784年)正月には先任の参議4名(藤原家依・神王・石川名足・紀船守)を飛び越えて中納言に叙任され、さらに同年12月には先任の中納言・大伴家持を出し抜いて正三位となった。延暦3年(784年)桓武天皇は平城京からの遷都を望むと、「天皇はなはだこれ(種継)を委任し、中外の事皆決を取る」とまで評されるほど大きく政務を委ねられていた種継は、山背国乙訓郡長岡の地への遷都を提唱した。桓武天皇の命をうけ藤原小黒麻呂・佐伯今毛人・紀船守・大中臣子老・坂上苅田麻呂らとともに長岡の地を視察し、同年長岡京の造宮使に任命される。事実上の遷都の責任者であった。遷都先である長岡が母の実家秦氏の根拠地山背国葛野郡に近いことから、造宮使に抜擢された理由の一つには秦氏の協力を得たいという思惑があった事も考えられる。実際、秦足長や大秦宅守など秦氏一族の者は造宮に功があったとして叙爵されている。遷都後間もない延暦4年(785年)9月23日夜、種継は造宮監督中に矢で射られ、翌日薨去。桓武天皇が大和国に出かけた留守の間の事件だった。暗殺犯として大伴竹良らがまず捕縛され、取調べの末大伴継人・佐伯高成ら十数名が捕縛されて斬首となった。事件直前の8月28日に死去した大伴家持は首謀者として官籍から除名された。事件に連座して流罪となった者も五百枝王・藤原雄依・紀白麻呂・大伴永主など複数にのぼった。その後、事件は桓武天皇の皇太弟であった早良親王の廃嫡、配流と憤死にまで発展する。もともと種継と早良親王は不仲であったとされているが、実際の早良親王の事件関与有無は定かでない。しかし家持は生前春宮大夫であり、佐伯高成や他の逮捕者の中にも皇太子の家政機関である春宮坊の官人が複数いたことは事実である。その後長岡京から平安京へ短期間のうちに遷都することになったのは、後に早良親王が怨霊として恐れられるようになった事も含めて、この一連の事件が原因のひとつになったといわれている。最終官位は中納言正三位兼式部卿。享年49。種継は死後、桓武天皇により正一位・左大臣が贈られ、大同4年(809年)には太政大臣の官職が贈られた。注釈のないものは『六国史』に基づく。『尊卑分脈』による。
出典:wikipedia
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