国立霞ヶ丘陸上競技場(こくりつかすみがおかりくじょうきょうぎじょう、)は、国立霞ヶ丘競技場内にあった、独立行政法人日本スポーツ振興センター (JSC) によって運営される陸上競技場および球技場。新国立競技場(仮称)への改修のため、2014年5月に閉鎖された。本稿では主に閉鎖時における状況について記述し、他の国立競技場施設との区別のため「国立霞ヶ丘陸上競技場」と呼称する。所在地は東京都新宿区。JSCおよびメディアでは「国立競技場」、「国立」と略される。また、毎年全国高校サッカー選手権大会の主催会場となるため、『高校サッカーの聖地』として一般的に広く知られている。明治神宮外苑、国立霞ヶ丘競技場、青山霊園のある一帯は江戸時代には青山氏の大名屋敷敷地であった。明治維新を経た明治19年に敷地跡の北側に青山練兵場が設けられた。明治天皇崩御後に練兵場に明治神宮外苑を建設することとなり、その敷地の一部を用いて1924年(大正13年)に明治神宮外苑競技場が設けられた。この競技場は陸上競技に広く使われ、第二次世界大戦中の1943年10月21日には学徒出陣の壮行会会場となった。1945年の日本の敗戦後は連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) に接収されて『ナイル・キニック・スタジアム』という名称で使用された。1952年の接収解除後は再び一般に開放され、明治神宮外苑部の管理下となった。1958年アジア競技大会と国民体育大会の会場とすることが決まり、1956年(昭和31年)に明治神宮から文部省に譲渡され、現在も残る新設の競技場が整備された。競技場は1957年1月に起工し、アジア大会前の1958年3月に竣工した。フィールドは国産アンツーカが利用された。同年アジア大会を開催し、翌1959年には東京国体のメインスタジアムとして陸上競技が開催された。その後1964年(昭和39年)に開催された東京オリンピックのメインスタジアムとして使用されることとなり、これにあわせてスタンドの増築が行われた(拡充費用は11億7800万円)。高さと直径2.1メートル、重さ2.6トンの聖火台は、埼玉県川口市の鋳物職人の鈴木萬之助が引き受け、彼の死去後に三男の鈴木文吾が完成させた。表面の模様は波を表している。1958年からは日本陸上競技選手権大会が開催されるようになり、2005年まで断続的に会場として利用された。サッカーの競技場としては1968年から天皇杯全日本サッカー選手権大会が開催されるようになった。翌1969年1月1日に初めて天皇杯決勝戦が国立霞ヶ丘陸上競技場で実施され、以降「国立での元日の決勝戦」が定着している。1976年度(昭和51年度)から全国高等学校サッカー選手権大会も開催されるようになった。上位進出を決めたチームのみが国立のピッチでプレーすることができるため「高校サッカーの聖地」とみなされるようになった。1970から80年代の「ラグビーブーム」の際には日本ラグビーフットボール選手権大会など多くの試合で満員の観衆を集め、特に早明戦では前売りチケットの入手困難や試合前日の徹夜による列並びが毎年恒例となっていた。1980年から2001年まではトヨタ・カップの会場として用いられた。1991年には世界陸上競技選手権大会(世界陸上)が開催された。国立霞ヶ丘陸上競技場は日本を代表する大型スタジアムとして利用されてきた。同規模の5万人の観衆を収容できるスタジアムは1924年開場の阪神甲子園球場を別にすれば長らく存在せず、野球中心の屋根付き施設である1988年の東京ドーム、陸上競技場では1994年アジア競技大会開催に向け建設された1992年の広島広域公園陸上競技場(広島ビッグアーチ)開場を待たねばならなかった。2002年(平成14年)に開催された2002 FIFAワールドカップの計画案においても国立霞ヶ丘陸上競技場を会場として利用することが検討されたが、国際サッカー連盟(FIFA)が要求する会場仕様として「観客席の3分の2以上に屋根が架設されること」が条件に挙げられていたため、候補から外された。過去の大会では、1960年のローマオリンピックのメインスタジアムであったスタディオ・オリンピコや、1936年のベルリンオリンピックのメインスタジアムであったオリンピアシュタディオンのように改装により屋根を架けた例もあるが、予算等の問題から改装はおこなわれなかった。ワールドカップ日韓大会の決勝戦は横浜国際総合競技場(日産スタジアム)で実施され、それ以降も大規模なサッカーの試合は、より観客収容人数が多く興行収入が見込める横浜国際総合競技場もしくは埼玉スタジアム2002で開催する事が多くなった。FIFAワールドカップのアジア地区予選も、1997年のフランス大会予選を最後に行われなかった。陸上競技の会場としても、走行レーンが8レーンしかないことやサブトラックが400mトラックでないために、現在の国際陸上競技連盟の規格を満たしていない。トラックを使用したマラソン以外の国際陸上競技大会としては、1999年にスーパー陸上が行われてから、2013年にゴールデングランプリ東京が開催されるまで久しく行われなかった。2013年の東京国体において、国立霞ヶ丘競技場は計画段階で競技会場に含まれなかった。独立行政法人日本スポーツ振興センター (JSC) が管理団体になってからは断続的に施設改修が行われており、また2000年代からは音楽コンサートなどの利用も進められている。2005年に単独のアーティストとしては初めてSMAPがコンサートに使用したが、この際には打診してから使用許可を得るまでに3年の期間を要した。その理由として、騒音問題、芝生などの施設管理といった競技場側の問題の他に、SMAPの公演内容、スタッフの対応、観客のマナーの様子等、総合的に厳しくチェックされ、3年間事故も無く、観客のマナーも問題が無いことが認められるまでに非常に慎重な審査を重ねた。2007年9月にDREAMS COME TRUEが使用に関する審査をパスしコンサートを行い、2008年9月には3組目となる嵐、2012年5月には史上4組目(ロックバンドとしては史上初)として、L'Arc〜en〜Cielのコンサートが開催されている。さらに2014年3月には5組目として、女性グループとしては初めてももいろクローバーZがライブを開催し、2日で11万人を動員した。2010年の嵐の公演では、会場外で演奏を聞くために集まった多数のファンに対して近隣住民から苦情出たと報道された。また2014年にはポール・マッカートニーが日本国外のロック歌手単独で初(かつ、現競技場唯一)となるコンサートが予定されていたが、体調不良のため延期代替の分を含めた公演を中止している。コンサート以外のイベントとしては、2009年7月5日に石原裕次郎23回忌法要が開催された。1999年に石原の菩提寺である神奈川県横浜市の總持寺で営まれた13回忌法要に大勢のファンが詰め掛け寺院周辺が大混雑したため、死没地である慶應義塾大学病院に程近い国立霞ヶ丘陸上競技場を利用することになった。この法要では、トラック部分に總持寺の本堂を模した仮設の建物を用意し、主催した石原プロモーションの発表では約11万7000人のファンが訪れた。2011年3月11日の東日本大震災では、照明灯の損傷や、通路の壁が一部で落ちるなどの被害があったという。ちょうど初となる本格的な耐震改修(「一部改修及び安全対策その他工事」)を仕上げていた時期(矢ヶ崎総合計画の矢ヶ崎彰らによる)だった。また、この年までの工事で、バックスタンドが増席された。2012年には、ゴールドカラーと赤を用いた、国立競技場のロゴタイプが新作成された(かつては昭和34年に国立競技場マークが作られていた)。この年の震災補修工事では、民主党政権・野田佳彦内閣(当時の文科相は平野博文)の第3次補正予算における東日本大震災復興予算からの流用疑惑が問題視された。2014年5月31日、「SAYONARA国立競技場FINAL "FOR THE FUTURE"」のピッチ開放をもって閉場となった。このファイナルイベントの一部は、TBSで生中継された。高さ制限や景観保護が行われてきた歴史がある。幻に終わった1940年の東京オリンピック。メイン会場の候補としては、代々木練兵場案や千駄ヶ谷の民有地取得案が頓挫(他に月島の埋立地案もあった)。そして、1937年の小委員会で、当初の計画でもあった(国立競技場の敷地に存在した)明治神宮外苑競技場の改築案で行くことが確認された。しかし、建築家の岸田日出刀は、ベルリン視察後、神宮外苑はオリンピック会場の敷地としては狭すぎると気づき、12万人収容への改造となる巨大スタジアムの建設に、反対を表明。外苑の風紀、風致(景観)を害するとも訴えた。岸田の他、内務省神社局の反対もあり1938年4月、建設場所を駒沢にあった駒澤ゴルフ場跡地(現在の駒沢オリンピック公園)へ変更することが決まった。しかし、日中戦争の戦局悪化により、同年7月にオリンピックの返上が決定。スタジアム建設も中止となった。戦後、1958年の国立競技場の建設の際には、神宮外苑の聖徳記念絵画館(約17m)側からの景観に配慮して、絵画館側バックスタンドの高さは7m91cmに抑えた。明治神宮外苑部の児玉九一らとの話し合いの結果で、神宮球場外野スタンドの8m60cmを参考としたものだった。1964年の東京オリンピックではメインスタジアムとして使用するために、バックスタンドを増設。その中央部の一番高い部分は(絵画館側の地盤から)23m43cmになった。なお、2014年5月28日の新国立競技場有識者会議(第5回)の配布資料によると(同年6月18日に訂正資料が発表)、バックスタンド最上段のフェンス頂部で地上から27.76mだが、これはフェンス部分が加わっているためである。また、照明塔の高さは52.32mである。岸田は、「こんどの計画でも、主競技場をなんとか10万人収容の線に近づけようとすると一方のスタンドを大きく張り出して拡張させたが、その最上部は外苑内の道路の上に大きくおおいかぶさるようなことになってしまった。それほどにこの敷地はせまいのである」 と述べた。2010年(平成22年)度の、稼働日数は計154日(スポーツ117・一般37)、総入場者数は894,296人だった。また、2012年(平成24年)度の場合は計39日という報道もある。国際大会としては、1958年アジア競技大会にてこけら落とし。1964年の東京オリンピック、1991年の世界陸上競技選手権大会の会場のほか、東京国際ナイター陸上→東京国際スーパー陸上競技大会に1966年から1999年まで、一部年度を除き使用されていた(2013年のゴールデングランプリ川崎も等々力陸上競技場改修に伴う特例として、翌年の2014年も大規模改修前最後の陸上競技大会として競技場にて開催された。この時は両年とも「ゴールデングランプリ東京」として施行)。国内規模の大会では日本陸上競技選手権大会、日本学生陸上競技対校選手権大会(全日本インカレ)、関東学生陸上競技対校選手権大会(関東インカレ)、全国高等学校定時制通信制陸上競技大会、全国小学生陸上競技交流大会に使われているが、日本選手権は前身の明治神宮外苑競技場の時代である1925年から終戦直後の一時期を除いて1997年までほぼ毎年断続的に開催され続けたが、1998年以後は地方都市での開催にほぼシフトされている。また1959年の第14回国民体育大会・「東京国体」秋季大会のメイン会場として陸上競技が行われている。またマラソンでは東京国際マラソン(1981年-2006年)、東京国際女子マラソン(1979年-2008年 1990年に限り明治神宮野球場を使用)の発着点としても使用された。当競技場を明確にホームグラウンドと謳うチームは存在しないが、サッカー日本代表およびラグビー日本代表が国際試合を行うスタジアムとして定着しており、それぞれの代表チームにとってのホームスタジアムということができた。ただしサッカー日本代表は、2002 FIFAワールドカップをきっかけに横浜国際総合競技場(日産スタジアム)や東京スタジアム(味の素スタジアム)や埼玉スタジアム2002などのサッカー専用スタジアムが完成してからは、それらの競技場を利用することが多くなった。また、ラグビー日本代表も近接する秩父宮ラグビー場がラグビー専用スタジアムであるため、そちらを使用することが多い。Jリーグでは当競技場をホームスタジアムとするクラブチームはなかった。これはJリーグの方針で国立霞ヶ丘競技場にホームチームを置かないと決めているためである。読売サッカークラブ(現:東京ヴェルディ1969)がJリーグに参入する際に、ホームスタジアムとすることを希望したものの拒否されている。首都圏周辺にホームタウンを置くクラブが集客の都合や観客の安全確保、スタジアムの増改築、その他スケジュール上の不都合等の理由で、ホームスタジアムでの開催に支障がある場合、国立霞ヶ丘競技場や国立西が丘サッカー場でホームゲームを開催することがある。首都圏以外に本拠を置くチームでも過去に清水エスパルス、名古屋グランパスエイト、ジュビロ磐田などが主催試合を行ったことがある。東京都をホームタウンとするFC東京、東京ヴェルディは毎年複数試合ホームゲームを主催していた。また、都外のチームでは横浜FCも2006年から2011年まで毎年利用していたほか、鹿島アントラーズ、柏レイソル、ヴァンフォーレ甲府、栃木SCがホームゲームを開催していた。鹿島と栃木は本拠地スタジアム改修による代替地での利用であるが、甲府と柏は本拠地の収容数を超える見込みのある対戦時に使用していた。なお、甲府は浦和レッズ戦、柏は浦和と鹿島の試合で使用することが多かった。FC東京は東京(味の素)スタジアムが竣工する前の2000年にJ1へ昇格したが、スタジアムがまだ建設中で、その他にJ1開催基準(夜間照明、15000人以上収容のスタンドなど)を満たした施設がなかったため、同年に限り当競技場を事実上の本拠地としてホームゲームの過半数を主催した。被災時の代替地として使用されたこともあり、2004年10月23日に発生した新潟県中越地震の時は、アルビレックス新潟の本拠地である新潟スタジアムでの開催が不可能になった事(スタジアム自体の被害は少なかったが、駐車場が自衛隊の災害派遣基地として使用されたことなど)から、30日の柏戦は当競技場での振替開催となった。また、甲府も2014年の平成26年豪雪の影響で本拠地である山梨中銀スタジアムでの開催が不可能(こちらも駐車場が自衛隊の災害派遣基地となっており、また周辺の除雪が間に合わないなど)となり、3月1日の開幕戦である鹿島戦を当競技場開催に振り替えた。東日本大震災の際は鹿島が被災して使用できなくなっていたカシマスタジアムの代替として、4月23日の横浜F・マリノス戦とAFCアジアチャンピオンズリーグのグループリーグ3試合がホーム扱いで開催された。1993年のJリーグ開幕戦であるヴェルディ川崎対横浜マリノスから使用されてきた当競技場の公式戦は、2014年5月6日開催のJ1第12節ヴァンフォーレ甲府vs浦和レッズ戦が最終戦となった。毎年8月に開催される神宮外苑花火大会の会場の一つとなっている。同大会に先立って行われるアトラクションは、単独コンサートが許可される以前は本競技場における数少ないライブの機会であったため、過去に多くの有名アーティストが演奏をおこなった。大規模競技場をコンサート会場として使用することは珍しい事ではないが、当競技場をコンサート会場として使用する機会は限られている。コンサート会場として使用する際には、天然芝の保護のために競技場スタッフによる厳しい審査をパスする必要がある。また近隣住人への配慮から音を出すのを午後9時までとする規制があり、これらの基準に合格したアーティストに限り使用が許可されている。コンサート利用は天然芝の保護という審査基準もあって年間1組のみ許可されていたが、2012年はL'Arc〜en〜Cielと嵐の2組がライブとコンサートを開催した。取り壊し直前の2014年には天然芝の保護という関連から審査が緩和されたため、3組のアーティストが開催し(ほか1組が開催中止)、締めくくりには特別イベント「SAYONARA 国立競技場 FINAL WEEK JAPAN NIGHT」が開催された。その一方で、上記の音の規制などからコンサートを開催することについて否定的な見解を示すアーティストも存在する。例として、日本一のCDセールスを記録し、これまで数多くの大規模コンサートを開催してきたB'zは「自分たちが求める音のクオリティでライブができない」という理由から、当競技場でのコンサート開催を見送っていると公言している。一部のチケット非所持ファンが、場外から見えるビジョンや場外へ漏れる音楽を目的に周辺地域に滞留し、問題視されることもあった。「国立競技場労働組合」を立ち上げ、のちに場長になった中原久和は、コンサートで稼げば稼ぐほど、文部省から補助金が減らされたとの弊害を2015年、語った。新国立への建替での開閉式屋根の必要性として、ある調査ではコンサート騒音を心配する地元住民が85%に達した一方で、神宮外苑の半径400m以内には民家自体は少ないという近隣住民の意見もある。グラウンド面にまで観客を収容して行われたライブ・コンサートのみ記載する(神宮外苑花火大会は除く)。すり鉢状の競技場(お椀型)。下部の客席勾配が17度で、中ほどが22度、25度、26度、27度と急勾配にし、最上部が28度に設計されたともいわれる。トラック8レーンを有する日本陸上競技連盟公認第一種陸上競技場である。現在の規則によると、日本陸連の第一種競技場として登録されるには、1周400mの補助競技場(サブトラック、公認第三種登録相当)を併設することが義務付けられている。当競技場にはそのサブトラックがないが、東京都営の東京体育館の付属陸上競技場を事実上のサブトラックと見なし、第一種トラックとして登録されている。ただし、東京体育館陸上競技場は直線コースは100mあるものの、全周200mしかない上にコースが5レーンしかない。なお、近接地・渋谷区にある代々木公園陸上競技場(同じく都営。1周400m8レーンの第3種公認)も、当競技場の事実上の補助競技場と位置づけられている。都内においては、2012年に都営の味の素スタジアム(第1種)の隣接地に「西競技場」(第3種)が竣工し、唯一第1種競技場の直接的な補助競技場が整備されている。日本陸連の風間明事務局長の2014年の発言によると、9レーンは必須条件ではなく8レーンでも国際基準はOKだが.最内枠の1レーンは使用頻度が高くてコースが荒れやすいため、2レーンから使うのが好ましいという。1964年東京オリンピックの開催時には、明治神宮野球場に付帯した軟式野球グラウンドに仮設のトラック(400m)が開設され、選手の練習やウォームアップに利用されていた。1991年の世界陸上東京大会も、仮設サブトラックを使用したという(出典では詳細は不明)。この開催に際して、前年の1990年に『レオタンαエンボス』(ローラーエンボス仕上げ)に改修された。2006年には、1レーンのみ表面のオーバーレイ施工された。グラウンド内のメインスタンド北側(千駄ヶ谷駅、第4コーナー側)寄りにあるポールは織田ポールと呼ばれ、織田幹雄が三段跳びで日本人初のオリンピック金メダルを獲得したアムステルダムオリンピックでの記録、15m21cmの高さで立てられている。なおコンサート開催時には撤去される。日本陸連顧問の帖佐寛章は「国立競技場は、陸上競技ではほとんどの場合、向かい風になるという欠点があります」と指摘し、同事務局長の風間明もショートトラックの向きに関しては、同様の認識を示し、貴賓席に西日が当たるためトラックの向きを変えることはできないという噂もあるとも言った。逆に、「強い風が吹かない印象があった」(為末大)、「風が回ることは滅多になかった」(友永義治)、「最高に使いやすかった」(武井壮)というアスリートの声もある。当初は寒冷期には芝がすべて枯れ、ピッチコンディションの悪さが指摘されていたが、1989年より芝生の二毛作(オーバーシードに類似した手法)により年間を通して青い芝を保つようになった。国立競技場のHPでは、この間の海外選手の苦情や芝生の塗装、改良の試行錯誤が記述されている。スタンドの形状は4階建て楕円形スタンドとなっている。この形状のためラグビーの試合では、しばしばラインアウトでの「ノットストレート」の反則をとられることがあり、テレビ中継などで「(楕円形スタンドに惑わされて)まっすぐに投げ入れることが難しい」と解説される。1963年には翌年の東京オリンピックを控え、バックスタンドを中心に大幅拡張され、71,715人収容の大スタジアムとして生まれ変わった。1964年10月10日のオリンピック開会式の観客動員数72,000人が、国立霞ヶ丘陸上競技場の最多入場者数である。その後1978年の改修では約62,000人収容に減少した。これ以降の入場者数はキャパシティ一杯でも60,000人前後で推移していたが、その後の改修が進むに連れキャパシティは縮小している。2005年9月から複数年の予定で、スタンドの改修工事が行われた。先ず最初の段階で収容人数は60,057人から55,903人まで縮小された。この改修で座席スペースの拡張や背もたれ、カップホルダー付き座席の設置、および記者席の機能強化が図られた。スタジアムのキャパシティは50,339人にまで縮小された。その後、2011年まで実施した耐震工事の際に3,885席増加し(バックスタンド上段4,922席増加、南側ゴール裏1,037席減少)、計54,224人となった。屋根はメインスタンドの一部にのみ設置されている。代々木門エントランス下に国立霞ヶ丘競技場体育館が、同門側サイドスタンド下に国立霞ヶ丘競技場室内水泳場がある。メインスタンド下には秩父宮記念スポーツ博物館、秩父宮記念スポーツ図書館、日本体育施設協会の事務局が設けられている。照明施設はバックスタンドに照明塔4機、メインスタンドの照明は屋根の先端部に内蔵されている。視聴覚装置は、千駄ヶ谷門寄りサイドスタンドに大型画像モニターが設置されている。国立競技場となった際に上部のみ電光表示を可能としたスコアボードが設置され、オリンピック開催にあわせて大型化・および全面電光表示化(富士通信機製造製、なお同社の大型映像装置部門は現在の富士通フロンテックにあたる)の改修が行なわれた。1991年の世界陸上開催を契機とした改修で松下電器製「アストロビジョン」を設置。その際に大時計下にトヨタ自動車の広告が入ったが、現在は撤去されている(accessのTRY AGAINのPVで1993年当時の大時計が見られる)。中央門(メイン)、(以下は時計回りに)北車門、千駄ヶ谷門とマラソン門、北一門、北二門と北三門、北四門、青山門(バック)、南五門から南二門まで、南一門、代々木門、南車門。以上、公式サイトの見取り図では16の名称が確認できる。メインスタンドの屋根付き部分の両端には、相撲の神である野見宿禰とギリシャ神話の勝利の女神ニケの壁画が描かれていた。無地で地味だった国立競技場の壁は、1964年のオリンピック開催に合わせて、華やかな壁画が設置された。メインゲートには、東京オリンピックで金メダルを獲得した319名を刻んだ銘板が設置されていた。聖火台など以下のほか、三段跳びの織田幹雄を記念した「織田ポール」もあった。また、敷地外には、「クーベルタン男爵石碑」「嘉納治五郎石碑」があった。壁画13点その他宮城県石巻市に「復興のシンボル」として貸与中の、旧国立の聖火台に2016年3月6日、牛のふんから生成されたバイオメタンガスを燃料にした「聖火」が灯された(バイオガスによる火が聖火台に灯るのは世界初という)。2020年東京五輪での再生エネルギーを用いた聖火リレーの実現を望む、多田千佳・東北大大学院農学研究科准教授らのチームによる実証実験。なお、新国立競技場のザハ・ハディッド案では、聖火台は競技場外を想定していたという。メインスタンド下にはトレーニング施設が整備され、中学生以上は一般利用が常時可能である。また、スタジアム利用が無い日には、通常のトラックやスタンド下に整備された1周650mの回廊走路も利用できる。メインスタンドには貴賓席や記者席などが用意され、スタンド下には室内練習場や会議室もあって大会時には選手控室や記者会見場に利用されるが、近年に整備された各スタジアムと比較すると古くて手狭である。競技場のスタンド下からトラック内部へは選手用の地下通路があったが、現在は利用されていない。ここには東京オリンピックの際に女子選手も使える立ち小便器が設置されたが、実際の使用例はなかったとされる。聖火台下などのバックスタンド上部はメインスタンドよりも高く、荒天時を除けば競技場の西側にあるNTTドコモ代々木ビルや新宿新都心地区の超高層ビル群がメインスタンドの背後から眺められる。以上の各施設については、秩父宮スポーツ博物館と合わせて随時見学ツアーが開催されていた。東京都新宿区霞ヶ丘町10番2号。東京都心部のスタジアムとして、大きな輸送力を持つ多くの鉄道路線が利用可能であり、高い利便性を持っている。入場門によって最寄り駅が異なる。これらの駅はコンコースの拡張や臨時改札の設置などで試合終了時の観客輸送に対応しているが、神宮球場でのプロ野球(東京ヤクルトスワローズ戦)等と重複した場合には一時的な滞留が起こる場合もある。また、大ターミナル駅である新宿駅へはJRと都営地下鉄で4~6分程度の他、徒歩でも40分前後(約2.5km)で移動できる。国立霞ヶ丘競技場では一般観客が利用できる駐車場は用意されず、周辺地域でも駐車場は少ない。青山門の東側にある明治神宮絵画館前駐車場は団体バスの利用が可能で、千駄ヶ谷駅西側の首都高速高架下にも駐車場が整備されているが、5万人のスタジアム規模に見合う台数ではなく、来場者には公共交通機関の利用が呼びかけられている。道路交通としては、以下の道路がスタジアムに近い。消防は、東京消防庁四谷消防署の管内に置かれている。東京オリンピックの開催にあたっては内外の要人・賓客輸送のために首都高速道路の建設が急がれ、開会の2ヵ月前に外苑出入口が完成し、東京国際空港(羽田空港)からの路線が開通した。同バス停は代々木門が最も近いが、輸送力・運行回数共に上記の鉄道路線よりも少ないため、積極的な案内は行われていない。新国立競技場建設のため既存の国立競技場は解体されることになり、日本スポーツ振興センター (JSC) により南北工区に分けて入札が行われることとなった。1回目の入札は2014年5月29日に開札されたが、すべての入札価格が予定価格を上回り不調に終わった。2回目の入札は2014年7月17日に開札され、南北工区とも関東建設興業株式会社が落札したが、関東建設興業は北工区は2番札、南工区は3番札であった。南北工区の1番札であった株式会社フジムラおよび南工区の2番札であった株式会社関口興業は「特別重点調査」により無効と判断されたためである。この結果に対してフジムラは内閣府政府調達苦情検討委員に異議を申し立てた。審議の結果、JSCが入札書および工事費内訳書の提出期限前に工事費内訳書を順次開封していたこと、ならびに入札者が提出した工事費内訳書の開封と並行して予定価格の決定に係る関係調達機関内部の手続を行っていたことは、調達過程の公正性および公平性ならびに入札書の秘密性を損なうものとして、契約を破棄し、新たに調達手続を行うよう求める提言が出された。これにより2回目の入札による契約は破棄された。3回目の入札は2014年12月2日に開札され、北工区はフジムラが、南工区は関東建設興業が落札した。この解体工事入札の不手際により、当初2014年7月から始まる予定だった解体工事が2015年2月下旬(南工区)、3月(北工区)からと大幅に遅れることとなった。建物のサイズは増築スタンド部分を含めて約200. 5m×約252. 0mだった。2008年5月29日に文部科学省は、需要の変化や著しい老朽化に対応するため、サッカー専用競技場化などの大規模改修も視野に入れて、施設としてのあり方を見直す有識者らを集めた調査研究協力者会議を発足させた。2009年に東京都が開催都市として立候補した2016年夏季オリンピックにおいて、東京オリンピック構想で国立霞ヶ丘競技場はサッカー会場としてのみ使用される計画となっていた。陸上競技などを開催するメインスタジアムは、晴海に建設されるオリンピックスタジアムが予定されていた。同年2月19日に日本ラグビーフットボール協会会長の森喜朗は国立霞ヶ丘の改修に言及し、2016年の東京オリンピック招致に成功した場合には国立霞ヶ丘競技場をラグビーやサッカーの専用球技場として改修したいと述べた。2009年10月2日に行われたIOC総会の投票で東京は落選したため専用球技場への改修は白紙となった。2011年に東京都は2020年夏季オリンピックへの立候補を表明した。新しい案では国立霞ヶ丘競技場をメインスタジアムとして使用する計画となり、8万人以上のスタジアムへの改修に向けて国と協議を始めた。文部科学省は2012年度予算の概算要求に、国立霞ヶ丘競技場の改修調査費として1億円を盛り込んだ。吹付アスベスト含有については、調査により不検出との結果を得たという。2012年2月16日に2020年東京オリンピック・パラリンピック招致委員会が大会の開催基本計画を発表し、国立霞ヶ丘競技場を8万人収容のスタジアムに改築し、開閉会式、陸上競技、サッカー決勝戦、ラグビーの会場とすることを正式に発表した。翌日には国立霞ヶ丘競技場を運営する日本スポーツ振興センターの河野一郎理事長が「世界一のものをつくりたい」とコメント、開閉式の屋根を備えた全天候型ドームスタジアムに改築する構想を発表した。3月6日に組織された「国立競技場将来構想有識者会議」では第1回会議で改築に向けて以下の事項を柱とすることに合意した。これらの柱を基にして今後は3つのワーキンググループを中心に議論を進め、国際オリンピック委員会 (IOC)への立候補ファイルの提出締切日(2013年1月)までに改築の正式計画を策定することを目標とした。2012年7月13日に有識者会議の第2回会議が行われ、新競技場の概要計画を決定した。計画内容は以下のとおり。総工事費は解体費を除いて1300億円程度を見込んでいる。現在の競技場は2014年7月から2015年10月にかけて解体され、2015年10月から「新国立競技場」の建設を開始、2019年3月までに完成する予定となっている。現在の聖火台と1964年東京オリンピックのメダリスト名を刻んだ壁は保存される予定。2012年7月20日に日本スポーツ振興センターは、「新国立競技場」(仮称)デザインの国際設計競技の詳細を発表し公募を開始した。募集要項はスポーツWGと文化WGの要望を、建築WG(座長:安藤忠雄)が取りまとめた。7月13日の計画内容では「周辺の都立明治公園や日本青年館まで敷地を広げてサブトラックを敷設」となっていたが、発表した詳細によると敷地をそこまで広げるがサブトラックは敷設されない。明治神宮外苑軟式グラウンドをサブトラック(2015年現在、仮設の可能性が高いとしている)に、明治神宮第二球場を投擲種目の練習場にする構想である。審査委員 11名 (役職は当時)技術調査員ワーキンググループ応募資格 (1)-(3) まであり、(3)のみを抜粋。(3) 応募者の代表者若しくは構成員が次のいずれかの実績を有する者であること。締切の2012年9月25日までに計46作品(国内12点 / 海外34点)が集まり、同10月30日に1次審査に残った11点の作品が発表された。応募期間が短かったことから安藤委員長が海外の著名建築家らに直接メールを送ってコンクールを告知もした。同11月15日に最終審査結果が発表され、ザハ・ハディドが経営するイギリスの建築設計事務所ザハ・ハディド・アーキテクトのデザインが「最優秀賞」、オーストラリアのコックス・アーキテクチャーが「優秀賞」、日本のSANAAおよび日建設計が「入選」を受賞した。2013年3月19日の表彰式には、関係者のほか義家弘介(文部科学大臣政務官)やSPORTS JAPAN アンバサダーらも招かれた。ザハ・ハディドには賞金の2000万円が贈られ、基本設計・実施設計・施工のそれぞれの段階で「監修」に当たることになった(後に監修料13億円を支払うデザイン監修契約も結ばれるに至った)。なお、コンペでは「実施設計者」は選ばれなかった。応募期間が約2か月しかなかったことについて、2次審査まで残った渡辺邦夫は、「コンペ自体が実際に作る競技場の案を募るためではなく、IOCに開催を認めてもらえる案を決めるために行われた」との見解を示した。IOCへの計画書提出期限は2013年1月に迫っていた。審査員だった内藤廣は一個人の見解として2013年、「世論喚起を急ぐあまり、広告代理店による誤解を招くような事前の情報発信があったこと」を反省点に挙げた。内藤は翌2014年、シンポジウム「新国立競技場の議論から東京を考える」の場で、同席したザハ案に異議を唱え続ける槇文彦らに対し、当時コンペの応募資格を日本建築家協会の新人賞受賞者や日本建築学会の受賞者などまで広げるべきではと主張したが実現しなかったことを、打ち明けた(前記の一覧のように個人による応募資格のハードルは高かった)。内藤は審査で唯一、ザハ案建設費用についての懸念を示していた。また同年7月には(2013年11月に続き)、応募時のハディドの案が公募条件の建設範囲を逸脱していたものの、事後修正すれば良いとJSCにみなされたことが、東京新聞によって報道された。なお、芦原太郎(日本建築家協会長)によると、ザハ・ハディドは新国立競技場の設計者ではなくデザイン監修者であり、設計は日本の設計者が担当するという、設計責任を負わない形式になっているという。2015年7月8日、有識者会議の第6回にて、総工費2520億円の現計画を承認、今年10月の着工が決まった。しかし、7月17日、安倍晋三首相が「現在の計画を白紙に戻し、ゼロベースで計画を見直す」ことと、予定していたラグビーW杯(2019年9月)の新国立での開催断念を表明。その理由に、コストの大幅な膨らみ、国民・アスリートたちからの大きな批判を挙げた。再コンペを実施し、計2案(A・B)の応募があり、12月22日、大成建設・梓設計・隈研吾のチームによるA案(総整備費約1490億円)に「優先交渉権者」が決定された。隈は2016年2月時点で、旧国立の壁画のうち、野見宿禰とニケの2点を入場口に設置する意向であることを表明している。
出典:wikipedia
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