旧皇族(きゅうこうぞく)とは、1947年(昭和22年)に皇籍離脱した11宮家51名の元皇族とその子孫を指す俗称である。旧宮家ともいう。いずれにしても俗称であるから、正式・正確な定義というものは存在しない。各人が各人の立場や好みにより自由な解釈を行っている。竹田恒泰によれば、宮内庁は1947年に皇籍離脱した11宮家51人の王、王妃、女王を「元皇族」、その中で当時宮家の当主だった王を「旧皇族」と定義しているという。また高森明勅や小林よしのりらは自身の著書や講演での発言において、旧皇族とは実際に1947年に皇籍離脱した人物であるとし、離脱後に誕生した男系子孫については一度も皇族であった時期がないという点から「旧宮家系国民男子」と呼んでいる。旧皇族の11家は、すべて室町時代以来続く世襲親王家の筆頭であった伏見宮家の男系子孫にあたる。現皇室と旧皇族の男系での共通の先祖は、伏見宮貞成親王(後崇光院)である。旧皇族の各家は、いずれも明治維新前後の時期に、伏見宮家の第19代貞敬親王及び第20代・第23代邦家親王の王子が還俗して、宮家を創設もしくは継嗣のいない宮家を相続したことに起源を有する。ただし、この時期に新立した宮家に関しては1代限りとして、2代目からは臣籍降下させて華族に列することとし、世襲は想定されていなかった。伏見宮家をはじめ、桂宮・有栖川宮・閑院宮の各世襲親王家に共通することであるが、これら4家が代々、親王の身位を世襲してきたのは、時の天皇との血縁の近さによるものではなく、あくまでも家の特権としてである。歴代の当主及び継嗣は、そのときどきの天皇または上皇の猶子となることにより、擬制的な親子関係を構築し、そのことを根拠にして親王宣下により親王の地位と称号を与えられてきたのである。また、門跡寺院に入寺する法親王・入道親王は天皇または上皇の養子として親王宣下を受けることになっており、明治維新前後に新設された宮家は、当時の廃仏毀釈の風潮に乗って続々と還俗した元門跡たちに、その身分にふさわしい礼遇を与えるためのものであった。旧皇族は、伏見宮貞常親王の兄彦仁王が、男子を儲けないまま崩御した称光天皇の後を受けて後花園天皇となって以後、現在の皇室(後花園天皇の男系子孫)とは男系血統では完全に分岐しているため、上述の通り男系での血縁は非常に遠い。また明治天皇の皇女である4人の内親王が、竹田宮、北白川宮、朝香宮、東久邇宮の各家に、昭和天皇の皇女・成子内親王が東久邇宮家にそれぞれ嫁いでいるため、現皇室とも姻戚関係が深い。なお、昭和天皇の皇后である香淳皇后は久邇宮家の女王である。終戦後の1947年(昭和22年)10月14日、11宮家51名は、GHQの指令により皇室財産が国庫に帰属させられたため、経済的に従来の規模の皇室を維持できなくなったことから皇籍離脱した。『昭和財政史』によれば、終戦前後の皇室の財政規模は約2,500万円と推定されている。そのうち450万円が政府の一般会計から支出されていた。この450万円という額は明治43年度(1930年度)から昭和22年度(1947年度)まで完全に固定され、その後の財政規模の拡大にともなう差額は山林・有価証券・農地などの皇室独自の財源からまかなわれていた。終戦後には皇室が自らこの差額を調達することは不可能となり、長年固定されていた皇室費を一挙に数倍に増額することは、敗戦直後の極度に逼迫した財政のもとではとうてい合理的な説明がつかなかったのである。皇籍離脱という着想自体は、GHQにより新たに持ち込まれたものではない。東久邇宮稔彦王は、1945年(昭和20年)に内閣総理大臣を辞任した直後にも、自らの臣籍降下を昭和天皇に願い出ており、さらにそのことをマスコミにも語り、他の皇族も自分にならうことを求めたために、宮内省があわてて否定の声明を出す一幕もあった。また、賀陽宮恒憲王も天皇に同様の申し入れをしている。当然、この動きに対し昭和天皇や一部の皇族から激しい抵抗があり、香淳皇后の実家である久邇宮家や昭和天皇の第一皇女成子内親王の嫁ぎ先である東久邇宮家などの一部の宮家に関しては皇室に残す案も出た。しかし最終的には、昭和天皇の実弟である秩父・高松・三笠の3宮家のみを残し、伏見宮系の11宮家は全て皇籍離脱させることになった。11宮家51名の皇籍離脱は、形式上は現行の皇室典範の第11条第1項「その意思に基き、皇室会議の議により」、第11条第2項「やむを得ない特別の事由があるときは、皇室会議の議により」もしくは第14条「その意思により」または第13条「皇族の身分を離れる親王又は王の妃並びに直系卑属及びその妃は、他の皇族と婚姻した女子及びその直系卑属を除き、同時に皇族の身分を離れる」によってそれぞれ行なわれた。1889年(明治22年)2月11日制定の旧皇室典範は元来永世皇族制を原則としていたが、1907年(明治40年)の皇室典範増補で早くも例外が設けられた。たとえば、同増補第1条には、「王ハ勅旨又ハ情願ニ依リ家名ヲ賜ヒ華族ニ列セシムコトアルヘシ」とあるように、臣籍降下ができるとされたのである。しかし、その後、王の臣籍降下は北白川宮輝久王(侯爵小松輝久)の1例のみにとどまった。そこで、1920年(大正9年)5月19日に制定された内規「皇族ノ降下ニ関スル施行準則」により、この趣旨はさらに徹底された。準則第1条には、「皇玄孫ノ子孫タル王明治40年2月11日勅定の皇室典範増補第1条及ヒ皇族身位令第25条ノ規定ニヨリ情願ヲ為ササルトキハ長子孫ノ系統4世以内ヲ除クノ外勅旨ニ依リ家名ヲ賜ヒ華族ニ列ス」とあり、情願をしない王は、皇族会議及び枢密顧問の諮問を経て勅旨によって臣籍降下させて華族に列することが明記された(皇族身位令第25条は、情願をすることができるのは満15歳以上の王に限る旨の規定である)。具体的には、皇玄孫までを皇族としその子孫は臣籍降下させること、ただし宮家を継承する長男のみは例外とするが、これも皇玄孫のさらに4世(玄孫)までを皇族とし、それ以降の世代は臣籍降下させることとされた。伏見宮系の皇族はもちろんこの範囲には収まらないが、邦家親王を皇玄孫に擬制し、邦家親王の4世(玄孫)までを皇族の身分にとどめるものとされていた。旧皇族との関連で言えば、準則は、伏見宮系の皇族を皇位継承資格として確保することよりも、むしろ邦家親王の子孫からこれ以上皇族が増加することを抑制し、将来的には全員の臣籍降下に導くことを意図していた。そのことは、皇族の範囲を狭く限定する趣旨(これは大正天皇の直系子孫の王・女王であっても同様に適用されるとした)が準則の第1条にまず謳われ、邦家親王の子孫に関する規定は特例として「附則」に言及されているに過ぎないことからも明白である。準則は、同増補では明確でなかった皇玄孫以降の子孫たちが順次臣籍降下してゆく基準を具体的・機械的に定めるものであった。なお、降下の情願をなさなかった場合において、準則に基づいて勅旨によって降下する可能性があった者は以下のとおりである。(※を付した人名は2006年12月現在の生存者)むろん、皇族を勅旨によって強制的に臣籍降下させることを原則とするこのような規定には異論もあり、裁定にあたって準則の諮詢を受けた枢密院での審議でも、一律・機械的に適用するのではなく個別の事情に応じて判断する旨の説明がなされている。枢密院はこれを受けて満場一致で準則を可決した。ついで諮詢を受けた皇族会議でも、一部の皇族たちの反発が予想されたため、宮内省側は、皇族会議の議員は「自己の利害に関する議事」では採決に参加できないという皇族会議令第9条の規定を利用して採決を行わずに議長であった伏見宮貞愛親王の判断のみで皇族会議を通過させている。皇族の身分に関する事柄は天皇の大権事項であるから、この準則が存在したとしても、天皇の意思があれば例外を作ることは可能であったと考えられる。しかし、皇室典範増補制定以来の政府の皇族増加抑制策は、明治維新前後の時期に創設された宮家が、いわゆる世襲親王家とは異なり、本来は世襲を予定しなかったにもかかわらず、当初の意図に反してなしくずしに永世皇族に移行してゆき、結局、皇室典範での永世皇族制の成立に結びついた経緯への反省を踏まえたものでもあり、天皇の大権を発動して例外を作るケースが実際に発生したとは考えにくい。その後、準則が制定されてから1946年(昭和21年)に廃止されるまでの26年間に12人の皇族の臣籍降下があった。いずれも皇室典範増補第1条に基づく情願による降下であり、準則の適用を受けて自らの意志に反して降下させられたケースはひとつもない。しかし、情願をしなければ強制的に降下させられる以上、そのような不名誉を避けるためには、準則の条件に該当する皇族は望むと望まざるとにかかわらず降下の情願をせざるを得ない状況に置かれていたのである。準則の強制力は非常に強いものがあった。準則の規定に反して例外がつくられたケースはひとつもない。ただし、準則の項の一つである「宮家の嫡男たる皇玄孫の玄孫の子」の降下は例そのものが存在していない。もっともこれは、当てはまる皇族が準則の廃止まで一人も存在しなかったことによる。項目に当てはまるべき邦昭王・誠彦王・信彦王・恒正王の長男は何れも親の皇籍離脱後に誕生した人物である。彼らは、皇籍離脱後は、それぞれ宮号から「宮」の字を除いたものを名字として名乗り、民間人としての生活を始めた。財産税の賦課を受けてほとんどの者が資産の多くを失い、長く経済的な困窮に苦しんだ者がいる一方、資産の一部を確保して一定の生活レベルを維持できた者、事業を興して成功した者、皇室・旧華族・神道などに関係する職に就いたりして、社会の名士として活動を続けた者もおり、その後の運命はさまざまである。なかには、新聞の三面記事を賑わすスキャンダルを起こした者もいる。旧皇族は世間の注目を避けて静かに生活してきた者がほとんどだったが、最近では賀陽正憲、竹田恒治など外交官に就いた者、竹田恒泰のように積極的に著作や講演などで活躍し、マスメディアに登場している者もいる。なお、プリンスホテルの社名は、ホテルの建物が旧皇族の手放した土地に立地していることに由来している。皇籍を離脱した後も皇室の親戚という立場には変わりがなく(皇族ではないが民法上は天皇の親族である者もいる)、皇室の親族が所属する親睦団体の菊栄親睦会に所属して現在でも皇室と親しく交流を続けている。久邇朝融(香淳皇后の兄)や東久邇成子など、一部の旧皇族は特例として豊島岡墓地に葬られている。1965年(昭和40年)の秋篠宮文仁親王の誕生以来、2006年(平成18年)の悠仁親王の誕生までの41年間、男子の誕生がなかった。一方、現行の皇室典範の規定では、男系の男子しか皇位を継承することができないため、近い将来に皇位継承資格者が存在しなくなる皇位継承問題が予想されている。この問題へのひとつの対処として、旧皇族から男系男子を補充して皇族の数を維持しようというアイディアが提示されている。現行の皇室典範・旧皇室典範ともに、いったん皇族の身分を離れた者がふたたび皇族になることを禁止しており、このアイディアの実現には法改正が必要である。具体的な方法については旧皇族男性を現在の皇族の養子とする、旧皇族男性を未婚の女性皇族と結婚させるなどのアイディアが提示されている。首相の私的諮問機関「皇室典範に関する有識者会議」は旧皇族男性を養子にする案については「当事者の意思により継承順位が左右され、一義性に欠ける」として否定的見解が出された。近代以前の朝廷では、いったん皇族でなくなった者がふたたび皇族となった例がいくつかある。旧皇族のなかには、皇位を継承しさらに未来の皇位継承者を生み出すことのできる若い男性が数十人おり、このことは上記のいくつかの先例と合わせて女系天皇反対論・旧宮家皇籍復帰論の強力な精神的支柱となっている。ただし、積極的に皇族の身分への復帰を希望する旧皇族はいまだに現れていない。
出典:wikipedia
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