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ミホシンザン

ミホシンザンは日本の競走馬、種牡馬。1985年の皐月賞と菊花賞に優勝し、中央競馬クラシック二冠を達成。ほか1987年の天皇賞(春)などに勝利している。1985年度優駿賞最優秀4歳牡馬、1985-1987年度同最優秀父内国産馬。五冠馬シンザンの種牡馬生活晩年の産駒であり、その最高傑作と評される。16戦すべてにおいて柴田政人が騎乗した。以下、馬齢は2000年以前に使用された旧表記(数え年)で統一する。1982年、北海道浦河町の日進牧場で生まれる。幼駒時代は全体に丸みを帯びた、あまり見栄えのしない馬体で、評価は高くなかった。しかし馬主の堤勘時は本馬を一目見て気に入り、調教師の田中朋次郎を説得して管理を取り付け、自身の所有馬とした。堤は本馬の父・シンザンの現役時代からのファンであり、かつて6頭の産駒を所有していたが、いずれも活躍はしなかった。しかし、これまでの所有馬とは違うと感じていた堤は、シンザン産駒の所有はこれが最後と思い定め、長年温存していた「ミホシンザン」と命名した。3歳(1984年)9月、茨城県美浦トレーニングセンターの田中朋次郎厩舎に入る。入厩後に骨膜炎(ソエ)を発症して調整が遅れ、さらに症状が治まった後の調教で手間取り、デビューは翌年1月にずれ込んだ。初戦は中山開催の新馬戦で、鞍上には堤と親交の深い柴田政人を迎えた。デビュー戦は2着に9馬身差を付けて勝利した。次走の条件戦では一転、後方待機から最終コーナーで一気に位置を上げ、直線で先行馬を一気に差し切り2連勝を挙げた。重賞初出走となったスプリングステークスでは、前年に柴田が騎乗して朝日杯3歳ステークスを制したスクラムダイナとかち合ったが、同馬を管理する矢野進の配慮により、柴田は引き続きミホシンザンに騎乗した。レースでは最終コーナー入り口で先頭のサザンフィーバーが故障を発生、人馬共に転倒するアクシデントがあった。しかしミホシンザンはこの影響を被ることなく、スクラムダイナに2馬身弱の差を付けて勝利した。迎える皐月賞で不動の本命と目されたが、当日までに右前脚に再度骨膜炎の症状が表れ、状態は芳しくなかった。競走4日前の調教においては、柴田は状態を考慮して直線コース以外は流す程度の動きに留めた。しかしこの日は霧が深かかったため記者席からは直線しか見えず、翌日の新聞には「豪快な動き」と書き立てられた。当日は圧倒的な1番人気に支持されるも、パドックでは転倒を防ぐために意図的に大きく周回させるなど、陣営は状態の悪さを隠すことに苦心していた。しかしレースでは第3コーナー手前で先頭に並び掛けると、そのままゴールまで押し切り、2着スクラムダイナに5馬身差を付け優勝、父シンザンとの父子制覇を達成した。しかし右脚を庇いながら走った結果、競走翌日に左前脚の骨折が判明、続く東京優駿(日本ダービー)の断念を余儀なくされた。前々年はトウショウボーイの仔ミスターシービーが、前年には『皇帝』シンボリルドルフが三冠を達成していたため、「3年連続で三冠馬の誕生か」と期待されたが夢に終わった。なお、当年のダービーはミホシンザンが苦手とする重馬場で行われ、また勝ったシリウスシンボリが重馬場得意の馬であったため、「出ていても勝てなかった」とする見方が根強くある。骨折は極めて軽度のものであり、休養中も軽い調教は続けられた。9月に美浦に帰厩、29日のセントライト記念で復帰した。当日は単枠指定を受けたが、苦手の不良馬場に手間取って5着に敗れ、初の敗北を喫した。次走は菊花賞に備えて関西に移動、トライアル競走の京都新聞杯に出走すると、2着に2馬身差を付けて勝利した。迎えたクラシック最終戦の菊花賞では、日本ダービー優勝馬シリウスシンボリがヨーロッパ遠征のため不在で、圧倒的な1番人気に支持された。当日は昼まで降雨があったが、発走時刻までに強風と日射しで馬場の水分が飛び、馬場状態は稍重まで回復していた。レースでは中団に控えると、周回2周目の最終コーナーからスパートを掛け、直線半ばで先頭に立ってそのままゴール、クラシック二冠と、皐月賞に続くシンザンとの父子制覇を達成した。前走の京都新聞杯も含め、父の地元であった京都競馬場での勝利に、ミホシンザンは関東所属馬でありながら大きな拍手で迎えられた。競走後の記念撮影にはシンザンを管理した武田文吾も収まっている。年末の有馬記念では、1歳上のシンボリルドルフと対戦。両馬とも単枠指定となった。最終コーナーで一旦は並び掛けたが直線で突き放され、同馬から4馬身差の2着に敗れた。翌年1月、クラシック二冠が評価され、当年の最優秀4歳牡馬と最優秀父内国産馬に選出された。休養後、翌1986年3月に日経賞で復帰した。当日は重馬場にも関わらず圧倒的な1番人気に支持されたが、6着に敗れた。競走後には4歳時の患部と同じ左前脚の骨折が判明し、休養に入った。秋になって復帰したが、初戦の毎日王冠3着に始まり、天皇賞(秋)はサクラユタカオーの日本レコード優勝の前に3着、ジャパンカップは日本馬最先着ながら3着、1番人気に推された有馬記念でも3着と、秋のGI戦線で全て3着に終わった。当年は未勝利であったが、他の父内国産馬も総じて不振であったため、翌1月には2年連続の最優秀父内国産馬に選出された。柴田によれば、当年のミホシンザンは怪我を恐れて本気で走ることをしなかったという。翌1987年も現役を続行、1月25日にアメリカジョッキークラブカップに出走した。レースは柴田が逃げ戦法を採ると、そのまま流れをスローペースに落としてゴールまで押し切り、約1年2ヶ月振りの勝利を挙げた。次走、天皇賞(春)への前哨戦として出走した日経賞には菊花賞以来という好調で臨み、前年度代表馬ダイナガリバー以下を5馬身突き放して優勝、天皇賞の本命馬と目された。4月29日の天皇賞では、圧倒的な1番人気に支持された。しかし日経賞以降ミホシンザンの状態は急速に下降しており、皐月賞以来の最悪に近い状態にあった。レースでは先団の中で終始内埒沿いの最短距離を通り、直線で先頭に立った。直後にニシノライデンがミホシンザンを抜き去る勢いで追い込みを見せたが、同馬はゴール前で外側に大きく斜行、最後はミホシンザンとニシノライデンが内外の埒沿いで並んで入線した。写真判定の結果、ミホシンザンがハナ差凌ぎ切って優勝、三度目のGI制覇となった。一方、ニシノライデンは直線の斜行で3位入線アサヒエンペラーの進路を妨害したとして失格処分となり、公式記録では繰り上がり2着となったアサヒエンペラーと1馬身1/4差となっている。競走後のミホシンザンは駈歩もできない程に疲労困憊しており、6月にはファン投票1位で選出された宝塚記念を回避した。秋の復帰を目指して函館競馬場で調整が続けられたが、復調は見られず、そのまま引退した。同年12月13日、大雪により2レースで中止した中山競馬場で引退式が行われ、天皇賞優勝時のゼッケン「6」を着けてラストランを披露した。この引退式は史上初めて天候が雪の中で行われたものであった。翌年1月には、当年の年度代表馬となったサクラスターオーを差し置き、3年連続で最優秀父内国産馬に選出された。本馬の引退後、柴田政人は「これからはミホシンザンの柴田と呼んで下さい」と発言している。種牡馬入りしてからは、初年度から優駿牝馬に出走したオンワードモニカ、2年目にはNHK杯などに勝利したマイシンザンを送り出すも、全体的には低調だった。父ほど極端ではなかったが、産駒は総じて良馬場の芝を最も得意とし、ダートや重馬場は苦手とした。マイシンザンは、1995年秋の天皇賞で有力馬の1頭に数えられ、ミホシンザン、祖父シンザンに続く「父子3代天皇賞制覇」という偉業に挑戦する機会を得たが、競走前日に屈腱炎が判明して出走を取り消し、記録は成らなかった。2001年には当時中央競馬に唯一所属していたグランドシンザンが7歳にして愛知杯 (GIII) を制し、同年のグランドシンザンによるオパールステークスが中央競馬で最後の勝利となった。グランドシンザンは後にホッカイドウ競馬に移籍し、2005年4月1日に登録を抹消された。2002年に種牡馬生活からも引退し、その後は日高町の谷川牧場清畠事業所で余生を過ごした。2014年に32歳に到達、ユキノローズ(1982年生、1986年中山牝馬ステークス優勝など)が2014年3月15日に死亡した為、その後は重賞競走の優勝馬として最長寿となっていた。最後の現役馬となった名古屋競馬のキャニオンマープルも、2006年10月1日に登録抹消となり、この日をもって全産駒が現役を引退した。2014年12月4日、余生を過ごしていた谷川牧場で心臓麻痺により死亡した。父シンザンについては同馬の項を参照のこと。「シンザンの最高傑作」と呼ばれたが、柴田や担当厩務員の高橋治男によれば、体型や気性などは母の父ムーティエの影響を感じさせる馬であったという。4代母Singing Sisterの姉コンキユバインは、本馬の父シンザンと同期の二冠牝馬カネケヤキの母である。

出典:wikipedia

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