仁村 徹(にむら とおる、1961年12月26日 - )は、埼玉県川越市出身の元プロ野球選手(内野手、投手)で、現役時代は中日ドラゴンズ、千葉ロッテマリーンズに在籍した。現在は東北楽天ゴールデンイーグルスの一軍ヘッドコーチ。実兄は自身と同じ元プロ野球選手の仁村薫で、現役時代は中日で一緒にプレーした経験がある(当時、スコアボードなどには「仁村兄(=薫)」「仁村弟(=徹)」と表記されていた)。夏、上尾高校の右下手投げのエース投手として夏の甲子園に出場。初戦で浪商高校と対戦し、9回2アウトまで2対0とリードしながら勝利目前で牛島和彦に同点2ランを打たれ、延長11回で敗北。このときの試合は今も甲子園史上に残る名試合として語り継がれている。東洋大学では投手として通算75試合登板し29勝19敗、防御率2.12、155奪三振。3年生春は8勝2敗でチームの優勝に貢献し、最高殊勲選手、最優秀投手、ベストナインを受賞する。大学野球選手権では、決勝で法政大学に敗れ準優勝に終わる。3年生秋は6勝2敗で最優秀投手、ベストナインを受賞する。のドラフト2位で中日に入団。1年目のに投手として初登板初勝利を挙げた(このときリリーフで勝利をアシストしたのはかつてのライバル、牛島であった)。首脳陣は翌シーズンから打者転向を予定しており、投手としての最後に記念登板で起用したところ、打線の思わぬ援護で勝利投手となった。投手としては前述の1試合の出場のみで、に二塁手に転向。に同年監督に就任した星野仙一に起用され、122試合に出場してレギュラーとして定着。は左ヒザの故障で出遅れ92試合の出場、ポジションも二塁手にコンバートされた宇野勝の存在もあって三塁手がメインになるも、打率.306、7本塁打、52打点の好成績を挙げ、チームの優勝に大きく貢献した。には主将になりチームをまとめたが、それ以降はヒザの故障の再発などもあり、おおむね年間100試合弱の出場にとどまった。その3年後に一旦は主将を辞めたが、には三塁手にコンバートされ、5番打者を務めると同時に、再び主将を務めた。に千葉ロッテマリーンズに移籍し、一塁手にコンバートされた。4・5番を打ったこともあった。も4番打者・代打を務めたが、指導者になるために現役を引退。捕手を除く投手・内外野計8ポジションで出場を経験した。ロッテ在籍時は、当時投手を除く8ポジションを経験した五十嵐章人と同僚となった。五十嵐はオリックス移籍後に全ポジション出場を達成したが、仁村は捕手を守らないまま引退した。引退後は古巣・中日でからまで二軍監督を務め、には日本一に導いた。には一軍ヘッドコーチ、からは一軍内野守備・走塁コーチを務め、2005年からスカウト(関東・東海地区担当)となった。また、そのかたわらCBCのゲスト解説者も務めていた。より東北楽天ゴールデンイーグルスの二軍監督に就任。しかし、7月13日付で慢性硬膜下血腫のため休養。手術を受け、7月26日の大学日本代表 対 NPBフレッシュ選抜から復帰した。その後、は一軍作戦コーチ、は二軍監督を務めた。からは一軍チーフコーチとなり、球団初のリーグ優勝と日本一に貢献した。は二軍チーフコーチ、は一軍ヘッドコーチを務め、その年のシーズン終了後に退任した。スタメンでは主に1・2・3・6・7番を打ち、右方向への芸術的な流し打ちとここ一番での勝負強さで知られた。バントも巧く、1987年にはリーグ2位タイ(岡崎郁と同数)の31犠打を記録、の読売ジャイアンツとの開幕戦(東京ドーム)では、勝負どころの重要な場面で3つの犠打を決めている。 足はそれほど速くなく守備範囲も広くはなかったが、捕球・送球は堅実であった。スタメンを外れた日は、川又米利と共に代打の切り札として首脳陣からの信頼も厚く、ファンにとっても強く記憶に残る選手であった。2005年に刊行された『中日ドラゴンズ70年 昇竜の軌跡』(ベースボール・マガジン社)でのアンケート企画「これぞ名脇役 BEST10」では、301票を集め第1位を獲得している。普段は温和な性格であるが、血の気の多い一面もあり、星野仙一をして「怒ったら、俺より怖い」と言わしめた事もある。中日の二軍監督時代に井端弘和に2番打者としてのイロハを叩き込んだ。その指導は厳しく、井端を殴ったこともある。※いずれも、ゲスト解説者として。
出典:wikipedia
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