マンノウォー("、1917年 - 1947年)は、アメリカ合衆国の競走馬・種牡馬。セクレタリアトと並ぶアメリカを代表する名馬である。『20世紀米国の100名馬(ブラッド・ホース誌)』第1位。『20世紀のトップアスリートベスト100 (ESPN) 』第84位。全弟にジョッキークラブゴールドカップの勝ち馬のマイプレイがいる。馬名は最初「My Man O' War(私の軍艦)」の予定だったが、登録の際になぜかMyが抜け落ちて「Man O' War」になってしまったという。愛称は赤味がかった栗毛の馬体に由来する「Big Red(ビッグレッド)」で、必要な場合をのぞきほとんどこの名前で呼ばれていた。マンノウォーは1917年3月、ニューヨークジョッキークラブ会長のオーガスト・ベルモントが所有するナーサリー牧場で生まれた。ベルモントは第一次世界大戦にアメリカが参戦すると軍務に就くことを志願してパリへ渡り、その際にマンノウォーを売却するよう指示を出した。マンノウォーは1918年にサラトガスプリングで開催されたファシグ・ティプトンのスプリングセールに出品され、サムエル D.リドルによって5000ドルで落札された。この落札はのちに「リドルの幸運はベルモントの不運」と称されることになる。マンノウォーは1919年6月にデビューし、8月にかけて6連勝を飾った。7戦目のサンフォードメモリアルステークスでマンノウォーはスタートで出遅れ、第4コーナーで大きく外側を通ったあと内側によれ、ゴール前で今度は外側によれるという走りを見せ、2着に敗れた。このレースの優勝馬は番狂わせという競走馬名を持つアップセットで、のちに「マンノウォーに勝った唯一の馬」として知られるようになった。サンフォードメモリアルステークスのあと3連勝したマンノウォーは10戦9勝でこの年のシーズンを終えた。1920年、マンノウォーはアメリカクラシック三冠第2戦のプリークネスステークスでレースに復帰した(第1戦のケンタッキーダービーに出走しなかった理由は不明である)。マンノウォーは同レースを優勝すると11日後にはウィザーズステークスにも優勝した。6月に行われたクラシック第3戦のベルモントステークスはドンナコーナとのマッチレースとなったが、ダート2200メートルのアメリカレコードを記録し、ドンナコーナに20馬身の着差をつけて優勝した。このマッチレースは当時の新聞によって「ダチョウとガチョウの駆け比べ」と評されるほど一方的なものであった。その後もマンノウォーは8戦8勝、うち6つのレースでレコードを更新するという非常に優秀な成績を収めた。中でもフードウィンクに100馬身もの着差をつけたローレンスリアライゼーションステークスでのマッチレースと、ジョンピーグライアーと接戦となり、直線で一瞬前に出られたもののゴール前で抜き返し1馬身半差で勝利したドワイヤーステークスでのマッチレースが有名である。10月にアメリカ競馬史上初の三冠馬・サーバートンとのマッチレースで7馬身差の勝利を収めたのを最後にマンノウォーは競走馬を引退し、種牡馬となった。獲得賞金は24万9465ドルで、アメリカ史上初めて獲得賞金が20万ドルを超えた競走馬となった。なお、マンノウォーの活躍を受けて馬主のリドルのもとには2回、それぞれ50万ドルと100万ドルという金額が提示されて購買の申し込みがあったが、リドルはこれを断っている。種牡馬となったマンノウォーはケンタッキー州にある牧場で繋養された。リドルはマンノウォーの年間交配頭数を25頭に制限したため、マンノウォーの産駒はもっとも多い年でも23頭しか生まれなかった。それでも1926年にはアメリカのリーディングサイアーを獲得し、リーディングサイアー10位以内を10回記録した。晩年は心臓に疾患を抱え、1947年11月1日、激しい疝痛を起こし心機能が低下したことを受けて安楽死処分された。おもな活躍馬にアメリカクラシック三冠馬ウォーアドミラルや後継種牡馬となったウォーレリックなどがいる。日本では直仔の月友が種牡馬として活躍し、さらに直系種牡馬のヴェンチア、リンボーなども活躍を見せた。なお死後の1957年、アメリカ競馬殿堂入りを果たした。
出典:wikipedia
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