両国 梶之助(りょうごく かじのすけ、1962年7月30日 - )は、長崎県長崎市出身の元大相撲力士。本名は小林 秀昭(こばやし ひであき)。出羽海部屋伝統の四股名である両國(兩國)梶之助を襲名した者は9人存在するが新字体の両国表記のみの者は当人だけである。学生相撲の経験を有する影響で、両国梶之助 (小林)とも表記される場合がある。現在は年寄・境川(13代)として境川部屋師匠を務めている。1962年7月30日に長崎県長崎市で溶接工を営む家に二男として生まれる。長崎市立茂木小学校・長崎市立茂木中学校では柔道・ソフトボール・サッカーなど様々なスポーツで鳴らし、長崎県立諫早農業高等学校進学後は、高校の卒業生からの勧めで相撲を始めた。この時点で既に182cm・110kgに達していたが、巨躯に物を言わせるだけの取り口で、相撲に関する基本的な技術をほとんど知っていなかったために活躍できなかった。高校卒業時で135kgに達していたことから角界関係者からスカウトされるが、当時は大相撲の道へ進む意志がなく、日本大学へ進学して相撲部に所属した。日本大学では主将を務め、個人戦より団体戦で力を発揮し、全国学生相撲選手権大会で準優勝に導く活躍を見せた。3年生で腰の負傷から1年近くを棒に振ったが、4年生では腰の状態も回復して調子を取り戻したため、大学卒業後に角界入りする決意を固めた。小林の元には花籠部屋と出羽海部屋からスカウトされたが、出羽海が同郷であることから出羽海部屋へ入門した。1985年3月場所において、大学時代からのライバルである栃乃和歌清隆(明治大学)と共に幕下付出で初土俵を踏んだ。その後も栃乃和歌と競い合いながら精進し、1986年3月場所で新十両昇進、1987年3月場所で新入幕を果たすと同時に、四股名を「小林山」から出羽海部屋伝統の「両國」へ、下の名も1989年9月場所から「梶之助」へそれぞれ改名した。入幕から2場所連続で勝ち越したことで同年7月場所では早くも小結へ昇進し、早くも大関候補として周囲から期待されたが、何度か好機がありながら関脇には昇進できず、幕内中位に甘んじていた。その後も小結から前頭上位を行ったり来たりしていたが、千代の富士貢を3度に渡って破るなど「千代の富士キラー」ぶりを発揮し、再度の関脇昇進を目指していた。しかし、1992年7月場所で左大腿部屈筋を挫傷する重傷を負ったため、12日目から途中休場となる。大学時代に痛めた腰の負傷によって、以降は思うような相撲が取れなくなり、同年11月場所では2勝13敗と大きく負け越して十両陥落、さらにその十両でも腰の怪我によって途中休場したことで、1993年1月場所では幕下転落が確定的になっていた。このため、1992年12月に現役引退を発表し、年寄・中立を襲名した。現役引退後の1998年5月場所終了後、出羽海部屋から分家・独立して「中立部屋」を創設した。2003年1月場所終了後には、元師匠である境川と名跡を交換して年寄・境川を襲名、部屋名も「境川部屋」となった。出羽海部屋からの分家・独立は、昭和以降では一門から破門された九重部屋を含めると3例目だが、円満に独立した点では武蔵川部屋(現:藤島部屋)以来2例目となる。なお、先代境川から独立を拒否された場合は退職して長崎に帰郷するつもりであったという。部屋設立当初は担保がなく新たに部屋を建てたくても融資を請け合ってくれる銀行はなかったため,知人に借りた資材置き場を仮の稽古場としつつ弟子2人の寝食を当時の自宅であった2DKマンション内で過ごさせるなど厳しい状況にあった。半ば部屋運営を諦めていた頃、これで最後というつもりで訪ねた銀行の支店長が学生相撲のファンであり自身のことをよく知っていたので、支店長の厚意により融資を受けることが可能になった。境川部屋からは大関・豪栄道豪太郎、関脇・妙義龍泰成、前頭・豊響隆太といった、現在幕内上位で活躍している現役力士の他に、小結・岩木山竜太、前頭・寶智山幸観などの有望な弟子が育成されており、親方としての手腕に注目が集まっている。2010年に問題となった大相撲野球賭博問題に関して、豪栄道・豊響が関与していた責任を取る形で、同年7月場所において謹慎処分を受けた。中立を襲名していた時から審判委員を務めていたが、2012年2月25日には、同月13日に急逝した同門の田子ノ浦の後任として、巡業部から審判部に異動した(事実上の再任)。田子ノ浦とは大学、部屋において先輩・後輩の関係でもあった。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。