同盟90/緑の党(どうめい90/みどりのとう、)は、ドイツの環境政党。グローバルグリーンズ加盟。2014年現在、ドイツ連邦議会で63議席を持つ4番目に大きい政党であり、1980年代以降一定の勢力を持っている。1998年から2005年まではドイツ社会民主党と連立政権を組み、脱原発・風力発電の推進・二酸化炭素の削減など環境政策を進展させ、国民的人気の高いヨシュカ・フィッシャー外相などの閣僚を送り出した。この期間以外は常に野党である。西ドイツの地方レベルで1970年代の終わりに、戦前から続く主に右翼的な環境保護運動が連合する形で「諸派・緑の党」 (Die Grünen) は設立された。しかし、そのままでは5%条項を突破できなかったため、のちに1960年代の左翼的な学生運動世代を呼び込んで、連邦レベルの政党「緑の党」として1980年に再出発した。その後、右派グループは別の環境政党として脱退、以降は新左翼色の濃いエコロジー政党となっている。1983年に連邦議会で初めて議席を獲得。世界の多くの緑の党の中で最も古く、最も議会政治的に成功している。1989年と1990年には、東ドイツの民主化に関わった市民グループが同盟90を結成、1993年に緑の党と統合した。ドイツにはナチス時代以前から続くエコロジーの伝統があり、シュヴァルツヴァルトの喪失などが話題となり環境意識の高まった1970年代の半ばから末期にかけて、主に右派や保守派の環境保護グループが中心となって、「Die Grünen」を組織した。当初はヘルベルト・グルール(ドイツキリスト教民主同盟 (CDU))を筆頭とする保守派・右派500人に対して中道左派(ドイツ社会民主党 (SPD) 系)はわずか15人にすぎなかった。1979年の欧州議会選挙ではヘルベルト・グルールとペトラ・ケリーの2人を第一候補に置いて、有効投票数の3.2%を獲得した。また、ブレーメン市州選挙では 5.1% の高得票を叩き出す。さらに党員は一万人を突破した。これらの成功をみて、70年代をテロリズムにあけくれ衰退期にあった学生運動出身の左派グループが接近してくる。1979年11月4日にオッフェンバッハで行われた党大会では、右派グループは左翼過激派の参加を拒んで反対動議を提出するが、僅差で否決された。この採決によって緑の党の今日まで続く路線が決定されたと言える。1980年1月13日のカールスルーエでの党大会で新たに連邦議会政党として出発することになった際の結党メンバーにはドイツ全学連の元議長ルディ・ドゥチュケも名を連ねた。しかし、結果的に主導権を握ったのは、ケリーらの中道左派であった。彼女は右派と左派を巧みに仲介する役割を果たしていく。反原発と自然エネルギーの推進、反核兵器・反軍国主義・反 NATO と平和主義、反消費社会と循環型社会が当時の主な主張であった。いったん加入が認められた左派グループはどんどんと党員を送り込み、党内は次第に左寄りに加速していく。このことに不満をもったグルールの右派グループは、「毛沢東主義者に党が乗っ取られている」として1982年に脱退を表明し、新たに保守系の環境党(エコロジー民主党、Ökologisch-Demokratische Partei, ÖDP)を創設する(グルール自身は、1990年にさらに右寄りのドイツ独立環境党 Unabhängige Ökologen Deutschlands, UÖDを成立させた)。この分裂によって緑の党は党員の3分の1を失う。緑の党に残った人々は、軍事主義や移民規制と反中絶に対してより強く反対した。またこの間、マリファナ使用の自由化、ゲイとレズビアンの権利の向上、自由主義教育や育児を主張した。さらに、核兵器保有案やフランクフルト空港の新しい滑走路の構築に対して、デモで警察と頻繁に衝突し抗議を行った。州レベルや欧州議会の選挙でのいくつかの成功の後に、1983年の連邦議会選挙で初めて議席を勝ち取った。その時の重要な争点の中で、アメリカ合衆国および NATO による、パーシング II (IRBM) および核巡航ミサイルの西ドイツへの配備が、一般住民の強い反対を生みだしていた。新しく形成された党は、人々の運動への支援を補充することができた。部分的に、1986年のチェルノブイリ原発事故のインパクトとドイツの大気汚染と森林への酸性雨の脅威に対する意識を育てることで、1987年1月に行なわれた連邦議会選挙で得票率を8.3%に増加させた。ドイツが再統一されて初めて行なわれた1990年12月の連邦議会選挙は旧東ドイツと旧西ドイツで5%のハードルを別々に適用して行われたが、旧西ドイツの緑の党は、連邦議会の中で議席を得るのに必要な5%の得票率を越えることができなかった(旧東ドイツでは、同盟90と東ドイツ緑の党の政党連合が投票の5%以上を獲得することができた)。敗因はナショナリズムと愛国心の高まっているムードに反対するキャンペーンを行ったことが原因だと考えられた。1994年の連邦議会選挙では、連邦議会で 7.3%を得票し、49議席を獲得した。1998年の連邦議会選挙では、得票率が6.7%に落ちたにもかかわらず、47議席を保持し、ドイツ社会民主党(SPD)との連立政権(赤緑連合)を組むことで初めて政権与党となった。ヨシュカ・フィッシャーは副首相兼外相に就任した。その他環境大臣にユルゲン・トリッティン、保健相にアンドレア・フィッシャー(後に狂牛病問題で辞任)が就任した。政権発足直後、コソボにおけるNATOの軍事行動へのドイツ軍参加に関する対応で危機に陥った。緑の党が参加する政府の下で軍事衝突中の国外へのドイツ軍の最初の配備が行なわれたため、多数の戦争反対者が党員を辞めた。そのため、この時期は地方選挙で長期間にわたり敗北した。また、産業界寄りなSPDの閣僚は、広範にわたる妥協が必要として、緑の党の環境保護主義的な主張に反対した。2001年には、数人の緑の党の連邦議会議員がアメリカ合衆国のアフガニスタン侵攻を支援するためのドイツ政府によるドイツ軍派遣案を拒絶した。ゲアハルト・シュレーダー首相は内閣の信任投票を行い、緑の党から4人、SPDから1人の議員が反対したが、大多数は賛成した。2002年の連邦議会選挙では、得票率8.6%で議席を55へ伸ばし、自由民主党(FDP)を抜いて第3党となった。SPDは議席を減らしたものの、連立政権は僅差で過半数を獲得し、第2次内閣を発足させた。外務大臣のヨシュカ・フィッシャー、消費者保護・栄養・農業大臣のレナーテ・キューナストや、環境大臣のユルゲン・トリッティンが再任された。2005年9月の連邦議会選挙では、微減にとどまって党勢を維持したものの、FDPと左翼党が勢力を伸ばしたために議会の第5勢力となってしまい、また連立相手のSPDが敗北し、CDU・CSU と大連立を組むことになったために政権与党の座を失った。メルケル政権の大連立に対する国民の評価を問うこととなった2009年9月の連邦議会選挙では、CDU・CSU と SPD の2大勢力に対する批判を集め、得票率は初めて10%を超え、議席を大きく増やした。福島第一原子力発電所事故の影響で高まった反原発への世論の高まりもあり原発政策が争点となった2011年のバーデン・ヴュルテンベルク州(ドイツの原子力発電所17基中4基がある)の州議会議員選挙で24.2%の得票を獲得し、CDU政権が58年間続いた同州の首相にヴィンフリート・クレッチュマンが就任した。CDUが敗北した選挙の結果について、CDU党首のアンゲラ・メルケル首相は「福島原発の大事故を巡る議論が敗因となったのは明らかだ」と述べた。緑の党が州首相の地位を得るのは、これが初めてとなる。2010年頃は、CDU/CSUやSPDに迫る支持率を確保し、一部の報道機関が行った世論調査では支持率でSPDを抜くこともあった。2011年9月4日、メクレンブルク=フォアポンメルン州で初議席を得て、全州議会での議席獲得となった2013年9月の連邦議会選挙では環境負荷軽減とアンチ工場式畜産として週一度は菜食日とする「ベジ・デイ」の導入やエネルギーシフトをかかげた他、最低賃金制導入、高所得者層への増税などを訴えたが、得た得票率は8.4%と前回の選挙より2.7%後退、議席数も68議席から64議席に後退させる結果となった。この結果を受け、緑の党は選挙分析と総括を行うと共に党指導部の世代交代を行うことを決定。最高議決機関である党大会を10月18日から20日の3日間の日程でベルリンで開催し、新たな党指導部を選出するとした。現在は、社会民主主義政党であるSPDや社会主義・民主社会主義政党である左翼党との最大の違いとして脱物質主義を前面に掲げている。
出典:wikipedia
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