新城(しんじょう)は神奈川県川崎市中原区の地名。現行行政町名としては町丁としての新城一丁目から五丁目と、大字としての新城が併存している。このうち新城一-五丁目は1979年(昭和54年)11月5日に住居表示が施行されている。なお、「新城」を冠した町(上新城、新城中町、下新城)が新城の近隣にあるが、これらは新城から分離されて設置された(後述)。中原区の西端に位置し、全体に平地である。武蔵新城駅の南口を中心として商店街が広がり、その周囲は住宅地となっている。新城は北端で南武線を境界として高津区末長や上新城と、東端で新城中町と、南端で下新城と、西端で高津区の千年新町や新作と接している(特記のない町域は中原区)。住宅地の地価は、2014年(平成26年)1月1日の公示地価によれば、新城4-11-6の地点で30万8000円/mとなっている。当地周辺では平安末期から新田開発が行われており、「稲毛本荘検注目録」にもその様子が残っている。ただ、「小田原衆所領役帳」に「稲毛荘木月郷屋けへ方」とあり、この「屋けへ」が当地内の小名に比定されているように他村の一部であり、新城が1村となるのは江戸時代に入ってからであった。江戸時代の当初、当地は天領だったが、天正年間には旗本である中川氏に賜われ、同氏の支配が幕末まで続いた。農地としては「水田多くして陸田少」なく、村高は、正保年間の「武蔵田園簿」で200石、「元禄郷帳」や「天保郷帳」、幕末の「旧高旧領取調帳」では300石となっていた。用水は二ヶ領用水の分流から取ったほか、岩川村(現在の千年)との間に溜池があった。農間には菰蓆作りも行われたほか、全体が平地であり薪の確保が困難なので、野川や千年まで出かけて開墾を行い、切り株をもらって来るようなことも行われていた。また、将軍が近隣で鷹狩をする際に、当地からも人足が徴発されていた。明治維新後、当地は神奈川県に属し、新城村→中原村→中原町→川崎市と推移していった。野菜や桃が作られるようになる、不在地主が増えるなどの現象はあったものの、当地は農地として推移していた。1927年(昭和2年)に南武鉄道(現在の南武線)が開通して武蔵新城駅が設置され、1942年(昭和17年)には武蔵新城駅南側の、現在の新城に当たる地の水田が、南武線経由や近隣から運ばれた土砂で埋め立てられ、規則正しい道路を持った住宅地へと変貌していった。戦後には1950年頃から南側に商店が進出し始め、武蔵新城駅に南口が開設されたのと前後して、駅南側が完全に商業地と化した。当地には明治時代から続く7つの小字があったが、地元にはあまり定着しておらず、上・中・下の3分割で呼ばれており、昭和30年代の土地改良後にはその3つに加え、昭和17年に埋め立てられた区域を含む中央の4町会が成立した。1979年(昭和54年)、中原区内で初めて行われた当地の住居表示では、この4町会をほぼそのまま活かす形で、上新城、新城中町、下新城、新城の町が設置された。平安末期から近隣に存在した「稲毛庄」に対して新しく開かれた地が「新庄」と呼ばれ、のちに文字が転じたものと考えられている。南武線が当地の北端を通過しており、武蔵新城駅の南口が当地と隣接している。武蔵新城駅を基点として、各方面へのバスが運行されている。駅周辺には、あいモール・サンモール・マイロードなど商店街が広がっており、大規模な店舗としてはスーパーマーケットのマルエツがある。公立の小中学校の学区は、以下のようになっている。
出典:wikipedia
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