大久保(おおくぼ)は東京都新宿区にある町名。現行行政地名は大久保一丁目から大久保三丁目。大正時代から終戦までは戸山界隈とともに華族や実業家の邸宅街として知られ、前田利為侯爵や安藤子爵、室町伯爵、北大路男爵などの、それぞれ400~500坪から1000坪ほどの邸宅が立ち並んでいた。大久保やその近辺には小泉八雲、西條八十、吉江孤雁、国木田独歩、水野葉舟、前田晁、前田夕暮といった文学者が住み、クラブに集まり、投扇興という京都風の風雅な遊びを楽しんでいた。島崎藤村や下村湖人、岩野泡鳴、戸川秋骨、田岡嶺雲、嵯峨の屋おむろ、竹越三叉、松居松葉、草野柴二、服部嘉香、金子薫園といった文人も住民であり、当時の大久保は「樹木に囲まれた閑静な住宅街で、文筆家や芸術家の集まる土地」で「大久保文士村」とも呼ばれた。そのほか岡田啓介、平沼騏一郎、阿部信行といった歴代総理や、落合豊三郎、東條英教、与倉喜平といった軍人、牧野伸顕、床次竹二郎、警視総監安楽兼道のような官僚も西大久保に住んでいた。それと同時に、市民の文化住宅も並び、庶民的な商店街も混在しており、「山の手に下町が混っていた」「知識階級の子弟もいるけれども、廃品回収業の家の息子もいる」「原っぱもある、住宅街もある、貧民窟もある、それから町工場もある」と大久保小学校出身の加賀乙彦は回想している。しかし、東京大空襲で街のほぼ全域が罹災。家を失った住民は街を離れた。1950年の朝鮮戦争の際にGIが日本人女性と情交するための場所としてこの一帯を選び、1960年代以降、大久保の住宅の多くは連れ込み宿となった。現在も基本的には住宅街であるが、駅周辺は百人町と合わせて日本最大のコリア・タウンといわれている。ただ実際は韓国のみならず、中華人民共和国やタイ、ミャンマー、インド等のアジア諸国、近年はイスラム系の国々も増え、料理店・雑貨店が立ち並んでいる。近年は日本の名門大学を目指す中国人留学生向けの予備校が相次いで進出している。他には戸山公園、新宿スポーツセンターや大久保スポーツプラザなどの運動施設があり、早稲田大学西早稲田キャンパスや海城中学校・高等学校といった私立中高学校、各種専門学校が多く集まる文教地区でもある。2001年に大久保のニューカマー韓国人を中心に在日本韓国人連合会(韓人会)が結成された後、韓国・朝鮮系商店主と地元日本人の商店会である新大久保商店街振興組合・新宿マンモス通り商栄会等との間で会合がもたれるようになり新宿の北隣という立地を生かし、横浜・神戸・長崎などの中華街にならって観光地として整備し地域活性化を図ろうという案も出ている。山手線線路と早稲田大学西早稲田キャンパスに挟まれた大久保3丁目では、大規模な再開発事業「大久保三丁目西地区開発計画」が進行している。計画では、この地区に地上45階建て、高さ160メートルのタワーマンションをはじめ、高層オフィスビル2棟など、計三棟の超高層ビルが2013年中に竣工する予定であるはずであったが、協議の末『新宿スカイフォレスト』と再開発地域が命名され、高さ約100メートル・26階建てのレジデンス棟『スカイフォレストレジデンス』(2014年12月26日竣工)および37階建てのオフィス棟ができる予定である一方、住友不動産が行っているこの事業では、これら大型建築物が計画通りに完成した場合、神宮外苑イチョウ並木と聖徳記念絵画館や、日暮里富士見坂からの富士山の眺望など、貴重な東京の景観が破壊されることが判明しており、広く報道されるとともに反対運動も起こっている。旧・豊多摩郡大久保町の内。「大久保」の地名の由来は、かつてはこの地に川が流れて相対的に周りより大きな低地(窪地)であったことから、大久保と呼ばれた。江戸時代までは農村であった。明治時代にはつつじの景勝地として知られ、近郊から多くの人が訪れたという。町域内に鉄道駅はないが新大久保駅、東新宿駅、大久保駅、高田馬場駅、西早稲田駅が利用可能な範囲にある。幹線道路沿いにバス便も多く、これを利用する者もいる。
出典:wikipedia
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