宇田川 榕菴(うだがわ ようあん、1798年3月9日(寛政10年1月22日) - 1846年6月22日(弘化3年5月29日))は、江戸時代後期大垣藩(現在の岐阜県大垣市)出生の蘭学者。後に津山藩へ養子縁組みされ藩医となる。名は榕、緑舫とも号した。宇田川榕庵とも表記される。それまで日本になかった植物学、化学等を初めて書物にして紹介した人物である。代々津山藩医の家柄であった宇田川家は蘭学の名門として知られ、養父である宇田川玄真、また玄真の養父である宇田川玄随、榕菴の養子である宇田川興斎も蘭学者、洋学者として知られる。大垣藩(現在の岐阜県大垣市)の江戸詰め医、江沢養樹の長男。父の師匠である津山藩医宇田川玄真に才を見出され、玄真の養子となったのは14才の時である。養父・玄真に学び1817年に津山藩医となった後、津山藩主が御家門であったことから玄真とともに幕府に重用された。1826年、天文方蕃書和解御用の翻訳員となり、ショメール百科事典の翻訳書『厚生新編』(こうせいしんぺん)の作成に従事したとされる。父子の逸話として、慕っていた養父・玄真の養生のために、榕菴は津山近辺の温泉の効能(泉質)を調べており、これが日本で初めて行われた温泉の泉質調査であったといわれている。シーボルトとも親交があったことでも知られる。墓所は泰安寺であると言われている(岡山県津山市)。なども記している。日本に概念が無かった植物学や化学の書物を翻訳し、日本に存在しなかった学術用語を新しく造語し生み出している。以下の用語は宇田川榕菴による造語の例である。
出典:wikipedia
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