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清元志寿太夫

清元 志寿太夫(きよもと しずたゆう、1898年(明治31年)4月25日 - 1999年(平成11年)1月2日)は、大正から平成にかけて活躍した清元節太夫。正式表記は旧字の志壽太夫。重要無形文化財保持者(人間国宝)、文化功労者、日本芸術院会員、正五位勲三等瑞宝章。前名は清元松喜太夫。本名柿澤竹蔵。天声の美声と声量の豊かさによって清元界のみならず、戦前・戦中・戦後の邦楽界を代表する太夫・演奏家であった。四代で清元をしている家系である。主な賞歴は以下の通り。1956年、清元節太夫では初めて、重要無形文化財保持者(人間国宝)として各個認定された。子息の榮三郎も1996年に重要無形文化財保持者として各個認定され、現役で親子二代にわたる人間国宝として活躍するという稀有な記録も残した。このほか清元節演奏家としては極めて稀なことに、1955年(昭和30年)頃高松宮家より『志摩ノ大掾』の掾号を授与される。極めて長命を保ち、しかもその芸は衰えることがなく、歌舞伎座で百歳記念の興行(1997年1月 昼の部『青海波』幹部、花形が総出演した。)を行ったほどであった。晩年は自らの語り場の途中で突然扇子を置いて止めてしまったり、他の太夫の語り場を語ってしまったりというアクシデントもあった。所演曲のほとんどすべてについて極め付きの声が高かったが、特に『色彩間苅豆 累(かさね)』『忍逢春雪解 三千歳』『隅田川』などを得意としていた。豪放磊落な性格で知られ、徹夜麻雀を好み、煙草は嗜まなかったが、極端な偏食で、酒は好きなだけ飲む、という生活であったにもかかわらず、その声質は衰えることを知らなかった。朝まで麻雀を打って歌舞伎座に出演したとか、舞台の声が歌舞伎座表の晴海通りまで聞こえたなどという逸話には事欠かない。麻雀以外の賭け事も好み、巡業先でも国内外を問わず近隣の競馬場へ出入りし、亡くなる間際にも家族に馬券の購入を頼んでいたという。長寿の秘訣は本人の語るところによれば大根おろしにしらすをあえてレモンを掛けたものを毎朝食べることだそうである。臨終に際しては、入院はしていたものの特に具合が悪いということもなかったが、1999年(平成11年)1月1日、病床を訪ねた長男の榮三郎に「こうした101歳まで生きられたのもおまえたちのおかげだ」と感謝の言葉を漏らし、亡くなる当日もテレビで初芝居の勧進帳を視聴していたが、しばらくして容態が急変し、101歳の生涯を閉じた。1999年の正月は偶然にも38年ぶりに清元の初芝居出勤が無く、清元社中は総出で長年社中の大看板であった志寿太夫を見送ることができた。「清元ひとすじ」1981年7月、演劇出版社刊「清元志寿太夫全集・清元五十番」 1955年 - 1970年、日本ビクター志寿太夫の「隅田川」は海外でも大絶賛であった。

出典:wikipedia

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