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波田町

波田町(はたまち)は、かつて長野県中西部の東筑摩郡に存在していた町。長野県全体の人口が減少している中、県内トップクラスの人口増加率を誇っていた。なお、旧町域には市町村の合併の特例に関する法律(合併特例法)に基づく地域自治区が2015年3月31日を期限として設置された。サラダ街道という観光道路や特産の下原スイカ(しもはらスイカ)で有名。町のキャッチフレーズは「河岸段丘に味なまち」。1874年に上波多村、下波多村、三溝村が合併し波多村となっていた。しかし1930年ころから生じた上水道敷設問題での村内の対立は、政友・民政両党勢力の対立になって流血事件まで引き起こした。このため、1933年1月には村長職務管掌として県職員が派遣されるに至る。その村長職務管掌者の下で2月に「波(波乱)が多い」と読める村の名称を「波田」と改めた。また、「波田」の名称には、豊富な水田に対する望みがこめられていたと言われる。波田町は梓川右岸の河岸段丘上にあり、標高約700メートル前後である。町北側の松本市梓川地区との境に梓川が流れている。梓川の河岸段丘により南側から北側へ傾斜がある。また町の西側にある旧安曇村には飛騨山脈(北アルプス)がそびえており、西側から東側に向かって傾斜がある。町の行政区域の8割は山である。集落や耕作地があるのは町全体の面積の2割である。この8割を占める山の区域にはまったく人が住んでいない。そのため、町の面積の8割が山であることはあまり意識されていない。梓川は前項の通り。町の中には、黒川堰(せぎ)、波田堰、和田堰がある。いずれも梓川から取水して、水田に灌漑するため人工的に掘削されたものである。中でも波田堰は、古くからの集落である下波田地区と、新しい集落である下原地区の間に広がる水田をうるおすこととなり、水稲の作付制限が始まるまでは、150haと言われた一面の水田地帯が広がっていた。波田堰水利の永久の安全を祈るための「水神社」が1881年(明治15年)に造られ、今に残っている。また、波田下の段から下流2700haを灌漑している和田堰は、その成立が平安時代にさかのぼると言われる。黒川堰は、黒川から取水するように造られたが、1971年の東京電力梓川ダム完成に伴い、梓川から取水するように改造された。山から流れ出している小河川もある。上海渡地区に流れ下る水沢川、上波田地区に流れ下る男女沢、栗谷俣、赤松沢などである。中世以前においては、これら小河川が集落住民の生活用水や農業用水を供給していた。波田町の西南端にある鉢盛山(標高2448m)は、町内の最高峰である。鉢盛山は、波田町・松本市奈川・東筑摩郡朝日村・木曽郡木祖村の境界をなす。鉢盛山から北北東に伸びる尾根が波田と奈川の境界をなし、少し下って波田と安曇の境界になる。また北東に伸びる尾根が波田と朝日の境界をなし、少し下って波田と山形の境界となる。この2つの尾根に挟まれた谷筋が波田の山間部であり、この部分への降水を集めた川が黒川である。黒川沿いに登山路があり、松本市役所への届出をすれば登攀が可能である。上記2つの尾根からはずれて挟まれた所に、白山(標高1387m)がある。別名を水沢山と言い、山腹には明治維新によって廃寺とされた若沢寺跡地が、山頂にはその若沢寺が創建された当時の遺跡である元寺場(もとてらば)遺跡がある。元寺場遺跡からは平安時代前半期のものもわずかに出土し、後半期のものが多く出土している。波田町は平成の大合併により当初は他の4村(梓川村・四賀村・奈川村・安曇村)とともに松本市に編入される予定だったが、住民投票の結果により合併が頓挫したため東、北、西の三方を松本市に囲まれ波田町が取り残されるような格好になっていた。その後の事情の変化(#歴史参照)により松本市に合併された。隣接する自治体の中でも平地上で隣接する松本市、山形村とは特に密接な関係にある。また、朝日村とも同じ郡に属すためやや密接な関係にある。なお、松本市への合併以降の地名表示は「東筑摩郡波田町 - 」が「松本市波田 - 」となる。8世紀初めに、波田・安曇・山形・和田にかけての地域に、大野牧という養馬を目的とした牧場(御牧=みまき=勅旨牧)が造られた(延喜式)。これは、663年に白村江の戦いで新羅と唐の連合軍に敗れ、応援していた高句麗が668年に滅ぼされた背景に、自国の騎馬の貧弱さがあると考えた朝廷が勅旨をもって、全国に33の御牧を造ったが、その1つであり、中信地方には、大野牧以外にも、埴原牧(松本市中山・内田・塩尻市片丘広丘)と猪鹿牧(穂高)が造られた。その後、大野御牧の牧長であった秦氏は、牧内の水利のよい場所を私墾田として開発し、ここを不輸・不入の特権を持つ荘園として実権を握る。872年に編纂された『貞観寺領目録』には、「信濃国 大野庄 百二町二段五十歩 在筑摩郡」と記録されている。また、仁和寺文書でも、大野牧があった地区を大野庄と呼称するように変転している。現在の梓川のことは、この大野を流れていたことから、「古くは大野川と言っていたと思われる」。秦氏はまた、灌漑工事が得意であった。波田赤松の地に堰堤を造り大井口水門とし、大井堰(和田堰)を開削して、この用水をもって筑摩野の原野に水田を開いた。『和名抄』(937年)には、筑摩郡の6郷として、良田・崇賀・辛犬・錦服・山家・大井が載っている。大井郷はこの大井堰が郷名になったものと考えられ、『和名抄』編纂以前に大井堰はできていた。平安時代(794年 - 1191年)の初期から続いていた「大野庄」の地名は消滅し、平安末には「畠郷(庄)」に変わった。老年人口は19.0%で、長野県全体の平均より4%も低い。ごみ処理、消防業務などの業務は隣接している松本広域連合やその他の一部事務組合を通じて松本市などと共同で行っていた。所轄広域連合所轄警察署所轄消防署太田典男(前町議) 2005年7月25日就任町政県政国政近年第3次産業の人口が漸増。1995年から2000年までの増加率は5年間で5%増。町内の道路は東西方向の軸は国道158号である。これを補う東西方向の軸として、松本環状高家線和田殿交差点から西進し北原団地へ通じる町道がある(旧称は和田道。1970年代初めに行われた農業構造改善事業以前には、通称郡道坂の要衝交差点に直通していた。ところが、事業に際して、集落内生活道路を通過し屈曲するように変更されてしまった)。南北方向の軸は昔からの集落内を通過する長野県道25号塩尻鍋割穂高線と、新しい道路である長野県道315号波田北大妻豊科線および長野県道449号上竹田波田線をつなぐものである。ただし、県道449号上竹田波田線は、県が位置指定をしたけれども、道路造成に着手する姿勢がない。このため、以前からある国道158号三神社交差点から南進し下原から山形村下竹田へ通じる市道(旧称は山形街道)が代替道路になっており、車両交通が多く、路側帯もないため歩行者には危険である。この市道拡幅工事は河川(波田堰の末流)の移動を含む大工事として交通量の少ない南方から逐年進んでいる。鉄道は松本電気鉄道上高地線が朝のラッシュ時にほぼ20分おき、そのほかはほぼ40分おきに運行されている。上高地へのメインルートである国道158号が町内を東西に通っている。

出典:wikipedia

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