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日本ペンクラブ

一般社団法人日本ペンクラブ(にほんペンクラブ)は、国際ペンクラブの日本センターであり、日本の文筆家で構成される法人。元外務省所管。P(Poet:詩人、Playwright:劇作家)、E(Essayist:随筆家、Editor:編集者)、N(Novelist:小説家)のいずれかに該当する文筆業従事者によって組織され、言論の自由、表現の自由、出版の自由の擁護と、文化の国際的交流の増進を目的とするNGO。設立は1935年。2012年12月17日現在、1758人の会員を有している。日本ペンクラブは、その団体としての性質を、次のように説明している。同時に、日本ペンクラブとその会員に対して、国際ペンクラブの定める「国際ペン憲章」の遵守を求めている。日本ペンクラブの会員資格は、自費・自主出版を除く文芸的著作物が二作品以上ある作家に限られている。日本ペンクラブは、表現の自由を守るための組織であって、同じく職業作家による団体でも、日本文藝家協会など文筆家の職能擁護を目的とする職能団体とは、まったく性質が異なる。1935年11月26日、国際ペンクラブの春からの要請を受け、外務省文化事業部の課長・柳澤健(詩人でもあった)が文壇に呼びかけて国際ペンクラブの日本センターとして創立。初代会長は島崎藤村。他に正宗白鳥、徳田秋声などが参加。第二次世界大戦中は活動休止の状態であったが、1947年に再建。国際ペンクラブにも復帰。1957年9月、「東西文学の相互影響」をテーマとした東京・京都での国際ペン大会を主催。1965年、創立30周年を記念し、創立記念日(11月26日)が「ペンの日」に定められる。1970年には韓国での国際ペン大会・台湾でのアジア作家会議に対するペンクラブの行動に抗議して、松岡洋子理事・小田切秀雄・大江健三郎が脱会。1972年にはペンクラブ主催の日本文化研究国際大会開会式に皇太子を呼んだ事への批判から、柴田錬三郎・佐野洋・松本清張・梶山季之・城山三郎・正木ひろしが脱会した。1974年にはペンクラブを代表して藤島泰輔・白井浩司が朴正煕独裁政権下の韓国を訪問、金芝河への死刑判決を「文学活動ではなく、政治活動によるもの」とコメントした。この発言に抗議して7月24日に有吉佐和子理事は、「ペンクラブは序列の厳しいところで、理事といっても名前ばかりで権限はない」と断った上で、個人の発言ではなくてペンクラブ代表の発言としてこのような発言をされたなら心外だと脱会を宣言。7月30日には司馬遼太郎理事も脱会を表明。これに瀬戸内晴美・水上勉・立原正秋が続いた。安岡章太郎や阿川弘之理事も、藤島と白井の訪韓にゴーサインを出したのは失敗だったとして理事辞任の意向を漏らし、遂には芹沢光治良会長も辞任に追い込まれる事態となった。この「藤島・白井事件」以降、野坂昭如・五木寛之・三好徹ら23人が集団入会、1977年の理事選挙では進歩的と呼ばれる作家が執行部の多数を占めたが、これに対し保守的な立場から「政治的に徒党を組んだ者たち」に乗っ取られたとの批判が噴出。小山内高行・黛敏郎・村松剛が脱会する事態に至った。1984年3月、「核状況下における文学―なぜわれわれは書くのか」をテーマとし、東京では2度目の国際ペン大会を主催。ゲストとしてロブ=グリエ、巴金、ヴォネガット等が招かれた。このテーマには、政治的活動をしないというペン憲章に違反しているとの理由で理事の江藤淳が反対し、大江健三郎と論争になった。思想・良心の自由の徹底した擁護を訴え、また表現の自由に関わる知る権利を擁護する立場から国家機密法などにも反対する声明を出している。井上、阿刀田、浅田と直近3代の会長は、ミステリ、SF、ホラー、ユーモア小説など戦後伸張してきたタイプの娯楽小説分野で実績を築いてきた作家が続いており、純文学作家か評論家が代表を務めることの多かった同団体としては異色の傾向を示している。井上以前には存在しなかった直木賞受賞作家の会長が三代続くことになる。2011年8月17日、日本ペンクラブの公式Twitterアカウントが開設された。

出典:wikipedia

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