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落書き

落書き(らくがき、落書)とは、以下のようなものである。この行為、またはそれによって書かれた物は、多くの場合において第三者にしてみれば意味の無いものであるが、古いものでは民俗学などに於いて当時の風俗、文化を知る上で大きな手掛かりとなるケースも見られる。ノートの隅や本の端などに書き散らされる物では半ば無意識に書かれる場合もあるが、他人に見せようとして書かれる物では意識的に書き記される。ただ客観的に価値が無いと見なされた著作物もこのように形容されるなど、この概念が指す対象は広範囲に及び、商業価値の重視されない同人活動では、自嘲を含めて自らの著作物を落書きと称する場合も見られる。とはいえ、それら同人活動の成果物も金を払って購入する者もある以上、無価値であるとは一概に言えない。中には、その記述内容が様々な意味で価値をもちうる落書きも存在する。(下記参照)語源としては、古くは落書(らくしょ、おとしがき)と呼ばれる、特定の誰かを揶揄したり風刺する意図で、対象人物の家の門や壁に貼られた、またはわざと目に付く場所に落とされた匿名文章の様式が存在したが、恐らくこれが今言う所の落書きになったとみられる。なお現在にも伝わっている落書には、建武の新政における混乱を風刺した『二条河原の落書』が知られている。なお徒に書き記された物では、古典において徒然草に代表される徒然文と呼ばれる様式がある。紙が貴重品である時代には、徒に書き記す行為でも、書く内容はそれなりに厳選された事であろう。ただし、徒然草はある程度意識して書かれた随筆である。他方、戯れに描かれる絵では、やはり古く鳥獣戯画に代表される滑稽な物が残されているが、現代でも絵によって滑稽さを表現する落書きの様式もあり、猥褻にも滑稽なものなら、風刺を交えて滑稽な物まで、様々な様式が存在している。また建物の壁や柱・床などに直接描かれる落書きもある。雪舟が涙で描いたネズミの逸話は広く知られているが、たとえば、後述するようなカンボジアのアンコール・ワットの壁面に刻まれた訪問者の人名など歴史的建造物の中には、当時の、または後世の人々の落書き(だったもの)が見られ、興味深い事実が明らかになるケースもある。ドイツ・ハイデルベルクの学生牢では収容された学生による落書きが多数残されている。日本には古くから「へのへのもへじ」や「ヘマムシ入道(またはヘマムシヨ入道)」等の文字遊びとしての伝統的落書きが存在し、今でもこれを(ほとんど無意識に)描く人も見られる。(ヘマムシ入道に関しては、広辞苑の同項に図が見られる)落書きは人の起こす無為、無作為な行動であるため、時にとんでもない分野にも現れる。ハイテク分野もその例に漏れず、コンピュータプログラムのソースコードには古くよりコメント行と呼ばれる、実際の動作には関係しない文字列が在り、これらはプログラムソースを直接的に見ない事には発見されないメッセージである。これらコメント行は本来プログラムに対する注釈であるが、ここにプログラム本体とは無関係な落書きが成されることもある。このような落書きは時折コンピュータプログラムに仕込まれており、プログラマーの作業メモから単なるジョーク、果ては職場の鬱憤に至るまで、様々な事が書き散らされていたりするケースも見出せる。バイナリエディタでファミリーコンピュータのROMカセットに格納されていたデータを調べた所、延々と職場の愚痴が書き込まれていたゲームソフト(『えりかとさとるの夢冒険』)や卑猥な文言がキャラクタデータとして格納されていたもの(『元祖西遊記スーパーモンキー大冒険』)が発見されたなどという話も出ている。またそれ以外にも、イースター・エッグのようにプログラムそのものをジョークとして仕込むことも行われる。その一方で、ソフトウェアのみならずハードウェアにまで落書きが見出される事もある。集積回路はその内部回路を写真のように感光による化学的処理で作成しているが、この原版に落書きする事で、回路内に落書きできる事が知られている。このような微細な落書きは顕微鏡でしか見る事は出来ないが、米国のMichael Davidsonはこれを収集、自身のサイトで紹介している。現代社会にあってモラル低下から文化財などへの落書きによる汚損、破壊が懸念されるが、その一方で歴史的に興味深い落書きがあるのも事実である。以下にその例を挙げる。ヴェスヴィオの噴火により埋没したポンペイでは、古代の町並みをそのままの姿で見ることができる。こうして現代に残った古代の建物の壁面には多数の落書きが残されており、古代ローマ時代にはどの町にも同様の落書きがみられたと考えられている。落書きのなかには、公職立候補者の選挙の際に各建物に大書された推薦や誹謗の落書きや、剣闘士試合の告知があり、こうしたものは専門の業者の手によって書かれたと考えられている。他方で、酒場の戯言や恋人同士の伝言など一般人の手によると思われる落書きも多く、ここから当時の庶民階層の識字率の高さを指摘する意見もある。アンコール・ワット遺跡には、寛永9年(1632年)に同地を訪れた江戸初期の武士・肥前松浦藩士の森本右近太夫が筆と墨で残した落書きが見られる。当時、日本の商人や浪人たちが多数東南アジアに住んでおり、こうした人々によってアンコール・ワットは「祇園精舎」の跡地であるという誤った情報が日本に伝わり、多くの人々が海をわたり祈りのために訪れた。アンコール・ワットはこの落書きが書かれた後に一旦忘れ去られ、1860年にフランス人学者のアンリ・ムーオにより再発見された。「父母の菩提(ぼだい)のため、数千里の海上を渡り…」と記された森本右近太夫の記念の落書きのほか、十数箇所の日本人の落書きが1960年代までは残っていた。一度ポル・ポト派の手によってペンキで塗り潰されていたが、現在では森本右近太夫の落書きはペンキの風化によって再び(部分的ではあるが)読めるようになっているという。2003年11月21日には右近太夫の15代目の子孫がこれに対面を果たした。グアテマラのマヤ遺跡ティカルの建物からは、草ぶき屋根の神殿や輿に乗った貴族などを描いた落書きが発見され、当時の社会や生活の様子を描いた興味深いものとして知られている。英国のロンドン塔は建築の約1080〜1100年代以降その長い歴史の中でテムズ川の防御を担うと共に、英国王の居城としても、その一部は牢獄(身分が高い人では、使用人を置く事も許される、それなりに恵まれた物ではあったが)としても利用されていた。このため随所に関係者や収容されていた者の落書き(石や漆喰に彫り込んだもの)が残されている。その中には当時の権力闘争に敗れた著名人(権力者)の落書きとするにも余りに緻密なメッセージが見られる。1961年から東ドイツ政府は東西ベルリンを遮断し有刺鉄線を、のちに石壁を西ベルリンを囲むように張り巡らせ、1975年にはコンクリートの155kmに及ぶ壁が完成した。東側からは幅100mの無人地帯のため立ち入ることができなかったが、西側からは接近することができたため、壁の建設をなじり撤去を求める政治的な落書きが出現するようになった。やがてさまざまなメッセージや色鮮やかなストリートアートが西側の壁を彩ることになった。郡山八幡神社の本殿解体修理時に、木材に木片が打ち付けられているのが発見された。そこには永禄2年(1559年)8月11日の日付とともに「其時座主ハ大キナこすてをちやりて一度も焼酎ヲ不被下候(くだされずそうろう) 何共めいわくな事哉(ことかな)」(今回の施主はたいへんけちで一度も焼酎を振る舞ってくれなかった。なんともひどい話だ。)と書かれており、施主に対する愚痴を綴っただけの落書きであるが「焼酎」の語を使用した最も古い文献とされている。落書きがされている板は頭貫と呼ばれる水平材であり、打ち付けられている状態では見えないようになっていた。現代ではグラフィティなどのような、美術様式化したものや行為自体が何等かのファッションスタイル化した物がある一方、便所の落書きに代表される雑多な物も見られる。ただ公共施設や他人の家屋・店舗などに勝手にこれらを書き入れる行為は、器物損壊の範疇で扱われるため、決して褒められた行為ではなく、特に第三者を不快にさせる乱雑な物は、落書きという様式の暴力(→ヴァンダリズム)であると見なされる場合もある。特に他人を誹謗・中傷する意図で攻撃的な文言を書き残した場合は、脅迫の範疇によって扱われる。和歌山毒物カレー事件では、容疑者として逮捕された夫婦宅が不特定多数によって落書きされ汚損されたが、これは刑法にいうところの器物損壊としてれっきとした犯罪行為であるとともに道徳的に見ても公共良俗を損なう行為である。その一方で近年ではインターネットの普及によって、電子掲示板や個人・団体のウェブサイト上にも、様々な落書きがみられる。これらは他人を不快にさせない範疇に於いてはさほど問題視されないが、内容によっては荒らしの誹りを受けたり、特定個人・団体に対する中傷と受け取られる場合もある。意図してそのようなモノを公開するのは論外と言えるが、他方では意図せずそうなってしまうケースもあるため、注意が必要であると共に、ネチケットなどによって、または掲示板管理者などにより、一定のガイドラインが示されている場合も見られる。歴史的建造物に来訪者が落書きを残すケースは多く、1980年代〜1990年代には日本人観光客らが訪れた国の文化財とされる歴史的建造物を汚損したとして逮捕される事例も度々出て問題視された。万里の長城では、観光客らによる落書き(彫り込んだもの)などにより、風化が進む事が懸念されている。日本の奈良の大仏殿など一般公開されている神社仏閣の汚損も酷く、大阪城でもハングルの落書きが問題視されている。後述のドイツ・ハイデルベルクの学生牢やハイデルベルク城でも本来の落書きのほか、観光客がドイツ語のほか、英語・日本語・中国語・韓国語など様々な言語による落書きを行っている。2003年に日本人の青年がイースター島のモアイにサインを彫りこんで国立遺産法違反で逮捕されている。2016年に神奈川大学の学生2名がケルン大聖堂に落書きし、それをツイッターで公開、神奈川大学はケルン大聖堂に謝罪している。また天然記念物や自然の景観を汚損する落書きをするケースでは、それら傷付けられた動植物の生命を脅かす事態まで発生しているとされる。1989年に、スクープを目論んだ朝日新聞社カメラマンによってサンゴが傷付けられ(朝日新聞珊瑚記事捏造事件の項も参照されたし)、大きな社会問題とされたが、同時にサンゴ落書き問題が方々で発生している事もクローズアップされた。学校を含む公共の場としての便所には、落書きが書かれている場合が多い。そこには愚にもつかない駄文から、個人情報とおぼしき文字列までさまざまな情報が書かれているが、稀に秀逸なジョークや、非常に興味深い警句もみられる。馬上、枕上、厠上の3つを文章を練りやすい場所という意味で「三上」というように、便所を使用している最中は、様々な思索が交錯しやすい。それの発露が便所の落書きといえる。多種多様な人間の利用する駅や高速道路サービスエリアの公衆便所では、多様な落書きが見出される。特に日本では1990年代以降、携帯電話番号の落書きが増える傾向が顕著だが、これは本人の番号ではなく、他人の番号を書き散らして個人攻撃を実現する目的と推測される。公園に併設された衛生状態の芳しくない公衆便所では、暴走族の叫びにも似た自己主張的なマーキング、同性愛者向けの交流に向けたメッセージも見られる。いずれにしても、第三者にとっては無価値な情報であるものが多く、有益な情報が残されている事は稀である。またそれら雑情報に埋もれる格好で、他の情報までその価値を失うという現象も見られる。ノイズの項を参照。以下に国によって地域性の見られる落書き事例とその対応について述べる。イギリス・ロンドンには縦横無尽に地下鉄が走っているが、その窓への落書きがみられ問題とされている。これらはダイヤモンドの指輪などによって付けられたもので、ガラス面を直接傷つけるために強度低下が心配され、地下鉄の管理側は罰金を課して取り締まってはいるが、完全には防ぎきれていない。なおこういった傷は、ガラス切りでガラスを切削するのと同様であり、クラッカープレートと同じ原理により最終的には割れる可能性を含んでいて、大変危険な行為である。アメリカでは、1970年代より都市部の落書きが、犯罪や失業の増加とあいまって深刻な社会問題と化した。一方これらはエアロゾール(グラフィティ)と呼ばれるヒップホップ文化の重要な要素であり、多くのグラフィティや出身の画家やイラストレーターを輩出した(ストリートアートを参照、またニューヨークのグラフィティ・シーンを追った2002年の映画『ボム・ザ・システム』もこの文化に関して詳しい)。しかし、その他ギャングの縄張りを示す走り書き(タギング)のような悪質なものも相当見られた。1990年代以降各都市の施策により頻繁に消去されるようになった。なお米国にはキルロイ参上(“Kilroy was here”:「キルロイは此処に来た」とも)と呼ばれる伝統的落書きの様式があり、第二次世界大戦当時にはアメリカの方々に存在し、一説に拠れば朝鮮戦争からイラク戦争に至るまで、米軍が軍事活動した地域には、しばしばこういった落書きが残されたという。多くの歴史的事件の舞台となり、文化財も多く残っている世界的な観光地であるイタリアだが、歴史的建造物への落書きは多い。落書きの大半はイタリア人によるものであり、言語別ではイタリア語や英語、スペイン語が大部分を占める。イタリア人は落書きに対して寛容であり、上述のとおりイタリア語の落書きは多い。2008年6月にサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂への京都産業大学や岐阜市立女子短期大学の学生、教育者であるべき常磐大学高等学校野球部監督による落書きが新聞やニュースで相次いで取り上げられ、関係者が停学等の処分を受けたことについては、「いきすぎた処分であり、イタリアではあり得ない」と地元紙が報道した。もっとも立場が変われば意見は変わるもので、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の技術責任者・ビアンキーニが「日本の出来事は、落書きが合法と思っているイタリア人にはいい教訓だ」と述べたように、イタリア人の意識に釘を刺す意見もある。観光産業に力を入れるシンガポールでは、落書きは都市の景観を汚損する重大な犯罪と見なされている。鉛筆やクレヨン等による消す事が比較的簡単な物は初犯に限り注意に留められるが、ペンキや油性ペン等による落とし難い物で落書きした場合は鞭打ち刑が科せられる。1993年にアメリカ人の18歳男性が他人の自動車にスプレーペンキで落書きをして逮捕された。シンガポール政府は当時の合衆国大統領ビル・クリントンによる嘆願書を退け、「鞭打ち4回」の刑罰を執行して国際的にも大きく取り上げられた。2010年にスイス人の32歳男性が夜中に一人のイギリス人とともにチャンギ車両基地に忍び込み、2台の車両にスプレー落書きをした。一週間後、スイス人は逮捕されて5か月の懲役と「鞭打ち3回」判決された。他のイギリス人の共犯はまだ逮捕されず香港にいると考えられている。日本では地方町村の商店街の中にシャッター通り化するところも発生、これら無味乾燥な店舗のシャッターを装飾する商店街や市民有志による活動が見られる。その一方で1980年代には暴走族による難読漢字の羅列が、1990年代より米国のヒップホップカルチャーに憧れを持つ青少年層がタギングによる縄張り宣言行為を行うことから社会問題として度々新聞に取り上げられており、これらも市民有志に拠る除去活動も見られる。大阪では「ヨカ」と呼ばれるマークが、東京では「スプレゴ」という第三者には意味不明な汚損行為が続いており、これらを真似て書くことのファッション化傾向が見られる。汚損する側は一瞬でもあることから、これら落書きは確実に消す側を含めた市民感情を害している。日本の法令では文化財保護法違反、建造物損壊罪、器物損壊罪、軽犯罪法違反、落書防止条例違反などに問われる。落書きは都市の景観を損なうことから、各国で多くの市民は迷惑行為と考えており、器物損壊、不動産に対する侵害、ヴァンダリズムの一環として捉える向きもいる。また落書きと若年犯罪の密接な関係を強調し、犯罪抑止の観点から割れ窓理論等の犯罪抑止理論が盛んに論じられるようになり、都市部の落書きも地域の治安を悪化させる要因と見なされ、厳重に取り締まられている。1990年代以降落書きに対する規制や消去の努力が各国の地方政府やボランティアの手で始まっている。ニューヨークのルドルフ・ジュリアーニ市長(当時)は割れ窓理論の立場からかねてから落書きに反対し、悪名高い地下鉄の落書きを消し去った。1995年には落書きと戦う「アンチ・グラフィティ・タスクフォース」を結成し、過去最大級の落書き反対キャンペーンを開始した。また同年、18歳以下の青少年にエアロゾール・スプレーを売ることを禁止したニューヨーク市条例を施行させた。イタリアのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂ではバーチャルに落書きするアプリを搭載したタブレット端末が設置されている。一方、ヨーロッパやアメリカ、近年では日本でも、特定の壁面をストリートアーティストやグラフィティアーティストのために解放し自由に描いてもらおうという、「リーガル・グラフィティ(合法的な落書き)のための壁面」を用意する地方政府や建物所有者が現れるようになった。アーティストには見回りの目を気にしない発表の場を存分に提供し、同時に非合法な落書きを減らし、都市の装飾や観光にも使おうとのアイデアである。これには歓迎する立場と、非合法の落書きを減らすことにはならないと歓迎しない立場がある。ある程度自発性が育ってきた幼児は、その程度にも個人差があるが、筆記具と紙さえ与えておけば落書き(もう少し丁寧に「お絵かき」と呼ぶ場合もある)に熱中する傾向がみられる。ことによると興にのって壁や床などにまで落書きしてしまうことも珍しいことではない。これら幼児の落書きは、共通して幾つかの段階を経ていく傾向が見られ、幼児自身の発育過程を把握する上で、興味深い資料となる。また情緒的な水準ないし機嫌のようなものや、性格にもよって描かれる絵にも傾向が発生する。1-2歳程度の初期の段階では、子供は「何かを書く」という行為そのものに関心を抱く。専ら紙の上に筆記具(クレヨンや鉛筆など)に「腕の左右の往復」という形で緩い弧を描く線をひたすら書く。仕舞いには紙が破れるまで線を幾重にも重ねて書く。線をひたすら描く時期が過ぎると、幼児は円を描き始める。最初の内こそグルグルと何重にも重なった歪な円を描く。3歳頃までには、幾つかの簡単な図形を描くことが出来るようになる。これらの段階では、描くという行為そのものを通して表現する傾向にあり、例えば自動車に乗った体験では何本もの線を重ねて描いて「早く移動した」ことを示そうとし、新幹線に乗ったら更に多くの線を重ねてスピードの激しさをしめそうとするのである。したがって、描かれた絵そのものにはなんら意味は無く、描く過程を観察するか当人が説明しなければ、それが何を描いたのかは他人にはわからない。これは落書きされた絵(映像)そのものには意味が無い、筆記用具を使った遊びの一種である。しかし次第に描くという行為と表現する欲求を結び付け始め、これら円はやがて人の顔や物の輪郭として利用されるようになる。多くの場合に最初の物は、身近な人間である母親の顔などとする、円に目・鼻・口をあらわす線や丸を書き込んだ物を描くケースが多い。進歩すると母親と父親・祖父母といった書き分けを始めるようになる。ただし最初期の人物画を描き始める3歳後半頃までは、俗に「頭足人」と表現される、頭に直接手足が生えたM&M'sのイメージキャラクターのような感じのものを「人間」として描く傾向にあり、これは子供が認識する人間(ヒト)のイメージが、顔と手足に集約されているものと解される。しかし次第に「人間としてのディティール」に胴体や首などの他の部位があることを意識するようになって、大人の認識する人間の姿により近くなっていく。この段階に至ると、急速に認識力が進歩し、両親の顔の違い・近所の人の顔の違いを明確に意識し始める様子が窺え、4-5歳頃には絵の方も丸や四角・三角を組み合わせた物へと進歩を始め、自動車や飛行機・家や木や花といった様々な物に関心を向け図形の組み合わせでそれらを表すようになる。例えば、横に平たい楕円を二つ並べて足を生やし動物に見立てたり、三角形の下に四角を描いて家に見立てたりといった具合である。また最初の頃には、そういった様々な物品をカタログのように並べて描いていたものが、5歳頃には社会性の発達や行動半径の拡大により、多様な人・物・動物・植物を描くと共に、明確な嗜好によって絵にテーマが生まれるようになる様子が見られる。この段階にもなると、性格にも性差が出てくるようになり、いわゆる「男の子らしい絵」や「女の子らしい絵」などの傾向も発生、男児なら乗物やヒーロー番組の登場人物など、女児なら花やお姫様などといったような、記号化されたイメージが繰り返し描かれるようになっていく。なおこういった絵の傾向には個人差があるほか、当人の実生活における経験が反映される傾向にあり、読み聞かせてもらった物語や絵本、あるいは様々な生活体験、コミュニケーションの内容などが絵に影響する。ただ、それらの影響も一枚の絵で軽々しく判断できるものではない。線を引く、円を描く、絵にするという段階は、幼児の発達において見られる現象であるが、その一方で、扱いの難しい筆記用具に慣れるための練習にも用いられる。例えば漫画を書くためのペンは扱いの難しい筆記用具の一つとされているが、これの扱いを習得する上で、「フリーハンドで横線を引く」「紙を動かさずに丸を描く」といった段階があり、これを習得することで、自在に絵が描ける。これは線を書くことで適切な一定の筆圧を維持する練習となり、円を書くことで360度全方向へ筆先を滑らせる事が出来るようになる…という理由で、様々な筆記用具の練習にも応用する事が可能である。他方では自由に落書きさせる事で、児童の心理状態を調べる分野もあり、精神的な健康状態を落書きを描かせて測定する手法がある。この方法は失語症に陥っている大人にも適用されることもある。健康な精神状態にある児童は、様々な物を描く傾向が強いが、紛争や事件に巻き込まれたり児童虐待を受けるなど、トラウマやPTSDによって精神活動にダメージを受けている児童では、上手に落書きをすることが出来ない。場合によっては極端にデフォルメされた人物像を描いたり、または意味のある絵が描けなくなってしまう現象も見られる。また精神的なダメージの回復に、落書きを根気良くさせる事でストレスの原因となっている記憶を吐き出させ、治療を行う方法も存在している。これらでは、ストレスの原因を絵を分析する事で周囲が把握し、これを取り除く方向で助けていくとされる。

出典:wikipedia

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