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丸谷才一

丸谷 才一(まるや さいいち、1925年(大正14年)8月27日 - 2012年(平成24年)10月13日)は、日本の小説家、文芸評論家、翻訳家、随筆家。主な作品に『笹まくら』『年の残り』『たつた一人の反乱』『裏声で歌へ君が代』『女ざかり』など。文字遣いは、1966年から74年までをのぞいて、歴史的仮名遣いを使用。日本文学の暗い私小説的な風土を批判し、軽妙で知的な作品を書くことを目指した。小説の傍ら『忠臣蔵とは何か』『後鳥羽院』『文章読本』などの評論・随筆も多数発表しており、また英文学者としてジョイスの『ユリシーズ』の翻訳などにも携わった。座談や講演も多く、「文壇三大音声」(〜おんじょう)の一人と自負していた。1925年、山形県鶴岡市馬場町乙三番地にて、開業医・丸谷熊次郎(1956年死去、74歳)とその妻・千(せん。1978年死去、85歳)との間に次男として誕生。1932年、鶴岡市立朝暘第一尋常小学校に入学、1938年、同小学校を卒業、旧制鶴岡中学校(現・山形県立鶴岡南高等学校)に入学、1943年、同中学校を卒業。中学在学中に勤労動員を体験して軍への嫌悪感を募らせる。当時の優等生は陸軍士官学校か海軍兵学校に進むことを期待されていたにも関わらず、校長の勧めを無視して上京して東京の城北予備校に1年間通学(1943年4月から1944年春)。予備校時代に作家の安岡章太郎と知り合う。1944年、旧制新潟高等学校文科乙類に入学。百目鬼恭三郎と知り合う。1学年上には編集者・作家の綱淵謙錠がいる。1945年3月、召集(学徒動員)によって山形の歩兵第32連隊に入営し、8月15日は青森で迎え、9月に復学する。1947年3月、新潟高等学校 (旧制)を卒業。1947年4月、東京大学文学部英文科に入学。中野好夫、平井正穂のもとで主に現代イギリス文学を研究、ジェイムズ・ジョイスを知り大きな影響を受ける。1950年3月、卒業。卒業論文は「James Joyce」(英文)。4月、同大学院修士課程に進む。修士課程時代には桐朋学園で英語教師としても勤務しており、当時の教え子には小澤征爾や高橋悠治がいた。1951年1月、東京都立北園高等学校講師(1954年3月まで)。1952年1月、篠田一士、菅野昭正、川村二郎らとともに季刊同人雑誌『秩序』(白林社)を創刊。その第1号に短編小説「ゆがんだ太陽」を掲載した。また同誌2号から7号に『エホバの顔を避けて』を連載。4月、杉並区にある高千穂高等学校の講師となる。5月、グレアム・グリーンの『ブライトン・ロック』を『不良少年』の邦題で翻訳、筑摩書房より刊行。以後英文学の翻訳を行う。1953年9月、國學院大學の専任講師となる。1954年の春まで、同人雑誌「現代評論」の同人仲間であった山口瞳が同じ学校の学生として在籍していた。1954年4月、國學院大学助教授に昇進。ここで中野孝次らと知り合う。また、桐朋学園の非常勤講師となる。同年10月、東大英文科の同級生で演劇批評家の根村絢子と結婚。戸籍上は根村姓を継いだ。1960年10月、初の長編小説『エホバの顔を避けて』を刊行。1964年、ジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』上・下を永川玲二、高松雄一と共訳、刊行。1965年3月、國學院大學を退職。東京大学英文科非常勤講師として4月より2年間「ジェイムス・ジョイス」を講義。1966年7月、2つめの長編小説『笹まくら』、10月、評論集『梨のつぶて』刊行、新仮名遣いを使用する。1967年、『笹まくら』で河出文化賞を受賞。『鐘』刊行。1968年3月『年の残り』発表、7月に同作品で第59回芥川賞受賞。1972年4月、長編小説第3作『たった一人の反乱』を刊行し話題となる。12月、同作品で第8回谷崎潤一郎賞受賞。以後ほぼ10年に1作のペースで長編小説を刊行する。1973年4月、評論『後鳥羽院』を刊行し翌年読売文学賞受賞。1974年7月、中編小説『横しぐれ』発表。これ以降の著作は歴史的仮名遣いを使用。1975年、「四畳半襖の下張事件」において、被告人野坂昭如の特別弁護人として出廷。1982年8月、長編第4作『裏声で歌へ君が代』刊行。1984年4月から10月まで、東京大学文学部講師をつとめる。1985年、評論『忠臣蔵とは何か』を発表し、忠臣蔵における御霊信仰とカーニバル性について国文学者、諏訪春雄と論争を行う。同作品はこの年の野間文芸賞を受賞した。1988年、『樹影譚』で川端康成文学賞受賞。1991年、種田山頭火を扱った『横しぐれ』の英訳(デニス・キーン訳、『"RAIN IN THE WIND"』)がイギリスのインディペンデント外国小説賞特別賞受賞。1993年1月、長編第5作『女ざかり』がベストセラーとなり、翌年吉永小百合主演で映画化された。1995年、鶴岡市名誉市民に推戴される。1998年、日本芸術院会員に選出。1999年、評論『新々百人一首』が刊行し翌年に大佛次郎賞受賞。2003年11月、長編第6作『輝く日の宮』が第31回泉鏡花文学賞を受賞。2004年1月、2003年度朝日賞を受賞。2006年10月27日、文化功労者に選ばれる。2010年2月、ジェイムズ・ジョイスの『若い藝術家の肖像(改訳版)』が読売文学賞(研究・翻訳部門)を受賞。2011年10月25日、文化勲章の受章が決定。2012年7月17日、山形県の名誉県民の称号が贈られる。10月7日、体調を崩し入院、同月13日に心不全のために死去。。夫婦のお墓は鎌倉霊園にあり、墓碑銘は岡野弘彦が生前に依頼されていた「玩亭墓」で、碑の裏には夫婦の略歴と「ぱさぱさと 股間につかふ 扇かな」(大岡信『新 折々の歌』所収)の句がある。小説家としては寡作である。長編小説に主力を注ぎ、本人も、周囲も、長編小説家と見なすことが多い。かつて筒井康隆は「ディケンズ的退廃」と絶賛した。初期からモダニズム文学の影響を受け、英国風の風俗性とユーモア、知的な味わいを重視して、近代日本の従来の私小説的な文学風土に対するつよい批評意識のもとに小説を書いてきた。前期の作品ではイギリス風の風俗小説と私小説が持つ叙情性をない交ぜにしたようなところがある。『エホバの顔を避けて』は本人も習作としている。エホバとの関係を通して、圧倒的な権威によって抑圧されそこから逃れようとする魂の状況を描く。またジョイスの影響によって取入れられた内的独白の手法は、長編第二作『笹まくら』においてより大きなかたちで完成を見ることになる。『笹まくら』は「十五年戦争中を徴兵忌避者としてすごした男が、戦争が終わって後もその過去が彼にさまざまな影響を与えつづける」という精神の様相を描いたもので、『エホバの顔を避けて』以来の主題、戦争の気持わるい実感を描ききった(鹿島茂に「『笹まくら』は戦争後遺症小説である」という言がある)。また彼の小説の柱である風俗性が生かされている。文芸雑誌などに発表する文章では歴史的仮名遣い(ただし、漢字音については字音仮名遣を採用していない)を用い、その文体を清水義範に『猿蟹合戦とは何か』(『国語入試問題必勝法』に収録、元ネタは『忠臣蔵とは何か』)としてパロディにされたこともある。丸谷は『国語入試問題必勝法』文庫版に解説を寄せており、その中で清水の才能を認めながらも、同時に『猿蟹合戦とは何か』を評価できかねる気持ちを正直に告白し、複雑な心境をうかがわせた。またフリーウェアの旧字旧仮名遣い変換辞書「丸谷君」の名は丸谷才一に由来する。評論家としての丸谷の仕事は、和歌の伝統の日本文学史上の位置づけにある。『日本文学史早わかり』で主張された、アンソロジー中心の文学史論は、大岡信による紀貫之や菅原道真再評価とともに、同時代の文学に大きな刺激を与えた。これは後の『新々百人一首』につながり、また石川淳や安東次男、大岡信とともに歌仙連句を文壇に復興させることにも貢献した。石川淳の後を受け、朝日新聞の1973年・1974年度の文芸時評(のちに『雁のたより』で出版)を担当、文芸雑誌にこだわらない評価をくだした。日本におけるジェームズ・ジョイス研究の第一人者としても知られる。また純文学のみならず、ミステリー小説に関する評論も手がけている。イギリスの書評が文学になっていることの衝撃を受ける。それは内容の紹介、本の評価、書評には文章を読む楽しみがそなわっていなくてはならないこと、批評性(これが最も重要なことと丸谷は考えていた)である。毎日新聞が書評欄の大刷新を行った際(1992年)には同社の委嘱によって顧問に就任。企画段階から深くかかわり、特色ある紙面づくりに大きく寄与した。同顧問は2010年に辞した。書評を文芸の一つとして見なすべく主張し、毎日書評賞を発足させた。書評の長さを四百字詰原稿用紙で3.5枚と5枚のふたつにする。リヴューアーの名前を大切にし、大きく出す。本の選択は編集会議など開かずに、リヴューアーがほんとうに扱いたい本を扱う。希望が重なったときは、先着順。全体に明るい雰囲気にするために、第1ページに和田誠のイラストを大きく使うなど。芥川賞(1978年から1985年まで。1990年から)、谷崎潤一郎賞(1978年から)や読売文学賞(1982年から)、毎日書評賞などの選考委員を長年にわたり勤めた。村上春樹の才能を早くから見いだし、村上のデビュー作『風の歌を聴け』を群像新人文学賞において激賞。また、受賞はしなかったが芥川賞の選考においても村上を強く推した。丸谷は村上の受賞祝辞を用意していたが、村上が弔問に行った時にこの幻の原稿を息子さんから見せられた。

出典:wikipedia

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