LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

彗星 (航空機)

彗星(すいせい)は、大日本帝国海軍の艦上爆撃機。略符号はD4Y1~Y4。連合国軍のコードネームは「Judy」。太平洋戦争後半の日本海軍主力機となり、特攻機としても投入された。単発複座の高速艦上爆撃機として設計された彗星は零式艦上戦闘機とほぼ同サイズとなる艦上爆撃機としてはかなりの小型機である。機体下部の爆弾倉と中翼配置、空力を重視した平滑な機体外形を採用しており、特に水冷エンジン独特の先細りの機首を持つ一一型・一二型は、空冷エンジンがほとんどだった日本の軍用機の中では特徴的な外見を持っている。海軍の航空技術研究機関である海軍航空技術廠(以下、空技廠と略)で開発された本機は、当時の最新技術を多数盛り込んだ性能優先の設計とされた。本機で採用された機構は彗星自身の高性能化に貢献しただけではなく、後に開発される彩雲、晴嵐といった海軍機の多くにも採用された。反面で複雑な構造や水冷エンジンの採用は日本の生産・運用事情を鑑みたものではなかったため、生産面や整備面で様々な不具合を惹起し稼働率の低下を招いた。生産性について設計主務者の山名正夫は「艦上機であるので保有空母数の制約によりあまり多数は生産されないと考えていた」としている。特に水冷エンジンの生産が機体の生産数に追いつかず、生産性・信頼性の高い空冷エンジンへの換装に至り、この空冷エンジン搭載機が後半戦の主力となった。開発は空技廠だが、生産は民間の愛知航空機で行われた(後に第十一航空廠でも水冷型を転換生産)。日本海軍はロンドン海軍軍縮条約により、戦艦や巡洋艦と同様、英米海軍に対する航空母艦(空母)の保有数の不利を打開するため、艦上爆撃機の主任務を敵航空母艦に対する先制攻撃とし、それを可能とするために「敵艦上機より長大な攻撃半径」、「迎撃してくる敵艦上戦闘機を振り切ることが可能な高速力」の二点を求めるようになった。このために、十試艦上軽爆としてHe 118を昭和11年(1936年)にドイツから輸入したが要求性能を満たしたものではなく不採用となった。艦上爆撃機として十一試艦上爆撃機(採用機が九九式艦上爆撃機となった)の開発も行なわれたが、更なる高性能艦上爆撃機への要求からHe 118の資料を参考に、新機構を盛り込んだ航空機を新たに開発することとなり、空技廠(当時は航空廠)の山名正夫中佐らに“十三試艦上爆撃機”の開発が命じられた。要求性能は概ね以下のようなものであったとされる。「敵艦上機より長大な攻撃半径」と「敵戦闘機を振り切る高速性能」という2つの要求性能を満たすために空気抵抗の軽減に重点を置いて新機軸を多く盛り込んだ結果、試作機は要求以上の性能を発揮した。また、彗星で実用化された翼型や急降下制動板、動翼システムは後に開発された陸上爆撃機銀河、水上攻撃機晴嵐、艦上攻撃機流星、艦上偵察機彩雲等でも採用され、技術開発の面では高い成果を挙げたと言える。高速性を買われて開発開始から4年後の1942年(昭和17年)に二式艦上偵察機として実戦配備が開始されたものの、艦爆型の実戦配備は新機構に起因する不具合により開発開始から5年後の1943年(昭和18年)にずれ込んだため、開発開始時に目標とされた「迎撃してくる敵艦上戦闘機を振り切る」ほどの高速機ではなくなっていた。とはいえ、単発複座爆撃機としては世界的に見てもかなりの高速機で、九九式艦上爆撃機や零式水上偵察機、月光などから乗り換えた搭乗員の多くはその高速性能を褒めている。空母隼鷹・飛鷹・龍鳳に所属した第六五二海軍航空隊に至っては九九艦爆と彗星を同時に運用することになり、マリアナ沖海戦では九九艦爆が先に発進、彗星が後から追いかけるという複雑な運用を行っている。前面投影面積の小さい水冷エンジンの直径に合わせて胴体を細く絞り込み、風防を可能な限り低くするために背負式落下傘の新規開発まで行われている。また、日本製艦上爆撃機としては初となる爆弾倉の採用に加えて爆弾倉扉を胴体内側に畳み込む方式とすることで、爆装時のみならず爆撃時における空気抵抗の増加を防いだ。さらに、He 118を参考にラジエーターと潤油冷却器を爆弾倉の前に配置することで機首下面を滑らかに成形している。空力的な面と爆弾倉との兼ね合いのため中翼配置とし、誘導抵抗を抑えて高速を得るために主翼面積を最小限に抑えた。また折り畳み機構を省略するために空母のエレベーターに合わせて翼幅を11mに抑えた。その一方でセミ・インテグラル式燃料タンクを採用して長大な航続力に要する大量の燃料を搭載した。主翼の翼型は内翼側に層流翼的翼型を採用し、外翼側は翼端失速しにくい通常の翼型にすることで、空気抵抗を増やすことなく捻り下げと同様の翼端失速防止効果を得ている。小さな主翼面と空母からの短距離離陸を両立させるため、翼幅の60%に及ぶセミ・ファウラー式フラップを装備した上に補助翼や急降下制動板を補助フラップとして使用可能にするといった様々な設計上の工夫を凝らしたが、過荷重時の離陸滑走には翔鶴型以上の大型高速空母でなければ多数機の同時運用は困難となる程の距離を要した。幅の広いフラップの代償として切り詰められた補助翼は艦爆としての許容範囲内の性能しか得ることが出来ず、後に夜戦として採用された際には効きの不足を指摘された。十二試陸上攻撃機(一式陸上攻撃機)から採用され始めた各部の電動化を全面的に採用し、脚の出入やフラップ・爆弾倉扉の開閉に使用した。未熟な電気駆動技術による不適切な艤装やモーター出力、及び、バッテリー容量の不足から故障や不具合が多く、従来の油圧駆動式に比べ信頼性に劣った。艦爆として高速を手にいれた反面、着艦速度も従来機よりも高速となり、重量も増しているので艦上機としての運用には空母を選んだ。翔鶴型のような大型空母でないと機体だけで発着するのは難しく、マリアナ沖海戦を戦った隼鷹艦長は「運用が難しかった」と証言している。実際のところ海軍は艦上爆撃機と艦上攻撃機の機種統合を計画しており、両方の性能を兼ね備えた流星艦上攻撃機を開発中だった。そのため海軍が次期主力艦上機を保持している空母にどれだけ積めるか調査した際も、搭載予定機は後の烈風と流星で計算されており、事前計画の段階で彗星をどれだけ積めるか、各空母で出した記録はない。あくまで流星が実用化されるまでの中継ぎとしての機体だった。空気抵抗の面で有利と試算された愛知航空機製の水冷エンジンである「アツタ」を搭載した。この発動機は当時同盟関係にあったドイツのダイムラー・ベンツから購入したDB601Aをライセンス生産した物である。精密なDB601エンジンの国産化に際して、液冷エンジン生産に必要な資源物資もままならず、精密パーツの生産に必要な最新の工作機械を導入できなかったことから、原型の設計図の材質や部品精度のままでの大量生産は不可能と判定された。このため大量生産に向けて材質の変更や部品精度の低下などの設計の改変を行ったが、エンジントラブルの頻発やエンジン性能の低下を招くこととなった。一例として、冷却液について、オリジナルのDB 601Aで使用するエチレングリコールから、資源不足や物資の行き届きにくい前線での整備を考慮して、普通の水に変更したことが挙げられる。エチレングリコールに比べて沸点が低い水で置き換えただけではオーバーヒートを起こしやすいため、加圧することによって沸点を最高125℃まで引き上げたが、冷却系部品への圧力負荷による水漏れのトラブルを招き、エンジン稼働率低下の一因となった。その反面で同じくDB601Aエンジンのライセンスを購入し国産化した際にニッケルの使用禁止で部品強度の落ちていた川崎ハ四〇系に比べると、製造工程で強度低下を抑えていたアツタはハ四〇で多発したクランクシャフト折損のトラブルがなく、全体的に状態が良かったと言われる。整備面では、比較的早くから二式艦偵を運用していた第三艦隊や沖縄戦での活躍で知られる芙蓉部隊では、豊富な予備部品とアツタに熟知した整備兵を揃える(メーカーで専門教育を受けた整備兵を教官にして自隊で教育する等)ことで、エンジントラブルは多いものの特に整備に困難を覚えることなく、空冷エンジン搭載機と遜色ない高い稼働率(芙蓉部隊では8割以上)を達成している。アツタに限ると、搭載機全体の相対的な稼働率の低さはエンジン自体の問題もさることながら、既知のトラブルに対処する整備能力が講習や整備マニュアル不足により限られていた結果であると言える。当時の日本製航空機は空冷エンジンを搭載した機体がほとんどで、アツタ搭載機の機種(大量生産されたのは本機のみ)及び相対的な機数の少なさ、戦況の悪化などもあって有効な対策が行き渡ることなく終わり、前線の整備員の大半にとって液冷エンジンは馴染みが薄いままトラブルの多い非常に扱いづらい難エンジンとの印象を与えてしまった。1940年(昭和15年)11月1日、AE2A(DB 600Gのライセンス生産型)を搭載した十三試艦爆試作一号機が完成した。その後、不調のAE2Aを十三試ホ号(アツタ二一型の試作名)に換装して試験が続けられ、当時の海軍機最高速度となる551.9 km/h/4,750 mと偵察過荷重にて3,780 kmという長大な航続力を記録、五号機まで試作機が製作された。既存の九八式陸上偵察機や九七式艦上攻撃機、零式水上偵察機に代わる高速偵察機の必要性を感じていた海軍は、海軍機最高速度と大航続力を記録した十三試艦爆に目を付け、開戦直前の1941年(昭和16年)11月に十三試艦爆40機を偵察機として次年度生産分に追加発注した。これに先立って試作二、三、四号機を爆弾倉にカメラを搭載した偵察機に改造、1942年(昭和17年)1月に四号機が第三航空隊に貸与されたが、不調のため前線に到着するのに半月以上を要した上に実戦投入されずに終わっている(後に再整備の後、第三艦隊の翔鶴に配備され、南太平洋海戦で実戦投入されている)。1942年5月、偵察機に改造された試作二、三号機が開戦前から高速偵察機の配備を要望していた第一航空艦隊第二航空戦隊所属の空母蒼龍に配備された。うち1機はミッドウェー海戦にて米機動艦隊を発見したが、無線機故障のため空母飛龍に帰還してからの報告となり、後に飛龍ごと沈没、残る1機も喪われている。戦闘詳報では十三試艦爆の偵察を『敵機動部隊情況不明なりし際、極めて適切に捜索触接に任じ、その後の攻撃(飛龍の反撃)を容易にならしめたり。功績抜群なり』と評価している。1942年8月15日、試作五号機が飛行試験中に空中分解し、艦爆としては機体の強度が不足しているため改修が必要と判断されたが、通常の飛行には差し支えないことから、海軍は爆弾倉内蔵式増加燃料タンクやカメラを搭載した機体を二式艦上偵察機一一型(D4Y1-C)として採用した。1942年末から配備の始まった二式艦上偵察機の運用は比較的良好で搭乗員の評判も良く、後継の艦上偵察機彩雲と共に大戦後半における日本海軍の眼として働いた。1943年(昭和18年)6月から、機体強度を向上させた艦上爆撃機型も彗星一一型(D4Y1)として量産に移り、1943年後半のソロモン戦から実戦投入された。マリアナ沖海戦時には母艦航空隊、基地航空隊とも艦爆隊の主力を占める様になったが、制空権がアメリカ軍の手に握られていた上に、1943年5月に出力と整備性を向上させたアツタ三二型に換装した性能向上型の彗星一二型(D4Y2)試作一号機が完成した。しかしアツタ三二型は生産数が伸び悩み、生産終了予定だった旧型エンジン(アツタ二一型)の生産を再開する対策は取ったものの、多数の「首無し機」(滞留機=エンジンの無い機体)が工場外に並ぶという事態になってしまった。そこで一二型試作機完成から約半年後の1943年12月から、比較的供給に余裕があり出力の若干高い空冷エンジン金星六二型に換装した彗星三三型(D4Y3)の開発が始まり、完成後は一二型と平行生産された。なお、生産数は一一型705機、一二型約710機、三三型・四三型合計約830機である。直径のやや大きな金星を装備した三三型は「首」が太くなり、水冷型の流麗な胴体形状は失われたものの、金星はアツタに比べて出力が大きい上軽量だったため最高速度は若干の低下にとどまった。一二型は艦上爆撃機または夜間戦闘機、三三型は陸上爆撃機という棲み分けの元に配備が行われているが、。1944年(昭和19年)10月24日、レイテ沖海戦にて基地航空隊の彗星1機が軽空母プリンストンに命中弾を与え、艦上機・弾薬庫の誘爆により火災鎮火の見込みがなくなったプリンストンは味方駆逐艦により雷撃処分された。単機、1発の爆撃でプリンストンを撃沈したこの彗星が誰の乗機であったかは現在も判明していない。なおプリンストンの救援作業に当たっていた軽巡バーミンガムも誘爆の巻き添えにより上層構造物が破損、大破している。最終量産型は1945年(昭和20年)から投入された三三型を改修した四三型(D4Y4)で、操縦席に防弾設備を増設する一方で後部座席と機銃類を廃し、爆弾倉に800kg爆弾を装備可能とした特攻仕様機であった。第五航空艦隊司令長官宇垣纒中将が終戦当日に沖縄沖の米艦隊に特攻出撃した際、複座型の四三型に搭乗(操縦員席に中津留達雄大尉、偵察員席に宇垣中将、遠藤秋章飛曹長)したことでも知られる。空冷エンジンに換装された彗星三三型からは、「陸上爆撃機」に機種変更されたという記述が既存の書籍に散見される。また、最終型の四三型に至っては、機体後部が増速用噴進器(ロケット)取り付けのために改装され、着艦フック取付け部の凹みも無くなっており、これによって空母への着艦は完全に不可能となった。とは言え、海軍部内では彗星は一貫して「艦爆」と呼称され続けた。実際のところ、空冷彗星はまだ母艦航空隊であった頃の第六〇一海軍航空隊に配備されている。六〇一空がまだ第二艦隊の第一航空戦隊、すなわち空母部隊に属していた時期の、昭和20年(1945年)1月1日付の同航空隊戦時日誌では、配備されている彗星はすべて「三三型」となっている。当時六〇一空の第四飛行隊長(天山艦攻)だった肥田真幸大尉の回想でも、1945年1月早々に天城で発着艦訓練を行ったとされている。肥田は自分の艦攻隊の発着艦訓練にしか言及しておらず、彗星や零戦については言及していないものの、以上を総合すれば、六〇一空がまだ母艦航空隊であった頃に、彗星艦爆隊(第三飛行隊長村川弘大尉。第二御盾隊指揮官として同年2月21日に戦死)は空冷の三三型のみで編成されていたことになる。また、第一技術廠(もとの空技廠の本廠)の終戦後の連合軍への引渡目録に含まれる「海軍現用機性能要目一覧表」では、三三型が「艦爆」、四三型が銀河と共に「陸爆」と区分されている。また、彗星の設計は空技廠であるが、その「海軍現用機性能要目一覧表」には、「製造所」はどちらも「愛知」と記載されている。戦闘機に準じた機体強度と高速性能を持つことから、旧式化したとして一二型に20mm斜銃を追加装備(試作機のみ30mm機銃)した一二戊型(D4Y2-S)に改造されて、三〇二空、三三二空、三五二空等の本土防空部隊に配備され、主にB-29の夜間迎撃に投入された。終戦間際には三三型に20mm斜銃を追加装備したされ、少数が実戦配備されている。沖縄戦では、美濃部正少佐率いる芙蓉部隊所属の一二戊型が一二型と共にアメリカ軍に占領された嘉手納飛行場や沖合の艦隊に対して夜間銃爆撃を粘り強く続けたことで知られる。1945年6月10日には、芙蓉部隊所属の中川義正上飛曹-川添普中尉機(一二戊型)がP-61ブラック・ウィドウと思われるアメリカ軍夜間戦闘機の撃墜という希有な戦果も報じている。海軍は、主力艦上爆撃機として大きな期待を寄せていたことから、様々な改造型を開発しており、多数の派生型が存在した。型式名に小改造符号「甲」(a)を付けた型は、旋回機銃を12mm機銃に変更改造した強化武装型である。なお、三三型以降は戦局が悪化して空母がなくなったため、陸上爆撃機として扱われている。

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。