LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

A-1 (航空機)

A-1 スカイレイダー (Skyraider) は、第二次世界大戦中に開発が始まったアメリカ海軍の爆撃・雷撃兼用艦上攻撃機。空軍との名称統合前はAD-1〜7だった。第二次世界大戦後半に活躍した、前任のTBF/TBMアベンジャー雷撃機・SB2Cヘルダイバー急降下爆撃機よりも小型軽量であるが、全ての面で前任機を凌駕する汎用攻撃機であった。艦上機がプロペラ機からジェット機へと入れ替わった1960年代までに3,000機以上生産され、アメリカ海軍の主力攻撃機として、朝鮮戦争・ベトナム戦争において活躍した。1943年、アメリカ海軍は空母上で運用する対艦攻撃用途機に複座の偵察爆撃機と三座の雷爆撃機を装備していたが、単座の攻撃用途機に一本化する方針を軍用機メーカーに打診した。この頃、艦船の防御力の増強に伴い、従来の急降下爆撃機の搭載量では威力不足となりつつあり、一方で、雷撃機にはより機敏な運動性が求められるようになっていた。結果、両者に要求される性能は接近し、複数の任務をこなす新型機登場の機が熟していたのである。期を同じくして、日本海軍でも同様の性格を持つ流星が開発されている(ただし、兵器の搭載方法など、両者の間には相当な違いが認められる)。要請に応じた各社の競合の結果、ダグラス・エアクラフト社が受注を獲得したが、開発には紆余曲折があった。基本となったSB2Dは、先立つ1941年に海軍から試作契約を受けて試作した攻撃機だったが、海軍が搭載エンジンや降着装置の形式、自衛火器にまで細かく要求を突きつけたこともあって、重量過大で見るべきところが無く、失敗作に終わった機体だった。これを基礎に、単座に改め、後部機銃を廃したBTD-1デストロイヤーも、多少は改善されたものの凡庸な性能しか発揮できなかった。このままでは競合機種(他社)との競争に敗れると危機感を抱いたチーフエンジニア、エドワード・ハイネマンは、自ら海軍にBTD-1の契約キャンセルと、その予算を流用して新たな攻撃機を開発することを提案。これに対して、海軍は「翌朝9時までに設計図を提出せよ」という、無茶な要求を突きつけた。ハイネマンは、2人の部下と共にホテルに缶詰になって、(大まかな概念設計図だったが)一晩で新型機の図面を書き上げ、要求通り軍に提出した。新型機の案は海軍に採用されたが、さらに9ヶ月以内に試作機を完成させるようにとの、新たな難題を突きつけられる。こうしてダグラス社は単座艦上攻撃機XBT2Dの開発に着手したが、基本となるアイデアはハイネマンが長年温めていたものであり、設計は至極真っ当なものであった。それまでの魚雷を機内装備する設計を放棄し、兵装をすべて機外装備としたことで、機体は大幅に小型・軽量化することが出来た。また、単に高性能なだけでなく、給油や兵器搭載、整備の手間を50%低減させることも目標とされた。ハイネマンは実際に航空母艦「タイコンデロガ」に乗り込み、現場の生の声を採り入れる努力も払っている。努力の甲斐あって、XBT2Dは1945年には試作機が完成。折りしも日本軍との激戦中であったため開発・配備が急がれ、1945年3月18日に初飛行に成功すると直ちにアメリカ海軍は、ダグラス社にBT2D デストロイヤーIIとして500機以上の大量発注を行った。しかし太平洋戦争の終結には間に合わず、配備開始は1946年12月までずれ込んでしまい、終戦により発注は277機に減少した。1946年6月にはAD-1 スカイレイダー(Skyraider)と名称が変更され、AD-1のうち35機は電子妨害を任務とする複座のAD-1Qとなった。その後もAD-2、AD-3、AD-4、AD-5、AD-6、AD-7と改良されながら、1957年まで生産が続けられた。なお、1962年に軍用機の命名規則が陸海空軍で統一されたことにより、A-1となっている。本機の最大の特徴は、単発のレシプロ攻撃機としては類を見ない、大きなペイロード(兵器搭載量)にある。最大搭載力は3,130kgにも達し、これは同じコンセプトで開発された流星(800kg)の4倍近く、4発の大型爆撃機B-17(3,600 kg)にさえ迫るほどである。各種兵器を懸架するハードポイント(パイロン)は、左右の主翼下にそれぞれ7ヶ所、胴体下に1ヶ所の計15ヶ所も用意されており、現代のジェット戦闘機でも、これに匹敵する機体はなかなか見あたらない。この図抜けた搭載力は、攻撃機としての価値を高めた(戦術核の搭載能力まで付与された機体もあった)のみならず、各種派生型を誕生させるのにも役立つこととなった。余談だが、本機の兵装搭載量は当時、「キッチン以外に運べない物はない」と評された。それを受けて朝鮮戦争では、流し台を翼下に“兵装”として搭載し、投下し、「キッチンも運べる」事を証明した。そのためベトナム戦争の際には「もはやこの機体が搭載したことがないのはトイレくらいのものである」と言うジョークが生まれ、「それならば」ということで「信管を取り付けた便器」を搭載し、実戦で投下し「搭載したことがないものはない」事となった。1950年に朝鮮戦争が勃発すると対地攻撃任務に投入され、朝鮮人民軍および中国人民志願軍の撃破に大きく貢献した。A-1は戦闘機並みの優秀な飛行性能・空戦能力と3tを超える武装搭載能力を有していたが、特に兵器搭載量においてはIl-10等当時のソ連製攻撃機を大きく凌駕しており、その攻撃能力の高さから海兵隊にも多数が配備された。この朝鮮戦争ではタイコンデロガ級航空母艦「プリンストン」に搭載されたA-1による攻撃隊が、航空魚雷で北朝鮮国内のダムを破壊するという戦果を挙げている。なお、現在までのところ(そしておそらくは将来においても)、これが航空機による最後の無誘導魚雷による攻撃である。攻撃ヘリコプターやより新型のジェット攻撃機が登場するとA-1の役割は減じ、またレシプロ機であることから旧式機として軽んぜられがちであった。しかし、1965年にベトナム戦争が勃発すると、にわかに本機の重要性が高まる事となった。地上目標への攻撃に関しては新型のジェット機、特に超音速機は適しているとはいえず、むしろ本機のように低速な機体が適していた。そのため海軍のみならず空軍も、本機を借り受けて運用する事となった。本機は主に、拠点を破壊するヘリボーン部隊の護衛のほか、撃墜されたパイロットの捜索及び救出支援任務に従事した。特に後者は、戦闘捜索救難(CSAR:Combat Search and Rescue)における「RESCORT:Rescue Escort」任務と位置づけられ、敵の脅威下において救難ヘリに先んじて遭難者の位置の特定を行い、搭載火器を駆使して周囲の敵を制圧し、救難ヘリの誘導及び援護を行った。この際のコールサイン「Sandy」はA-1の代名詞にもなり、少なからぬ犠牲を出しながらも撃墜された搭乗員の上空に駆けつける勇姿は、ベトナム戦争に従軍するパイロットにとって心強い存在であった。この任務は、後継機であるA-10に受け継がれることとなった。また、ベトナム戦争時には陳腐化していたエセックス級航空母艦でも運用できたことからも重宝された。高い機動能力を発揮してジェット戦闘機MiG-17Fを撃墜した記録が2回残っている。これは上記のRESCAP任務中の海軍機が記録したもので、1回目は1965年、4対1の状況で、2機ずつがチームを組んで旋回戦を挑む「ラフベリィ・サークル(別名、芝刈り機戦法)」で撃墜し、2回目は1966年MiG-17Fがオーバーシュートしたところを機関砲により撃墜したものである。特に前者の4機のA-1パイロットは『ミグキラー・フォー(ミグ殺しの4人組)』と称えられ、当時の南ベトナム空軍司令グエン・カオ・キから叙勲される栄誉を得た。その後、ジェット攻撃機の攻撃能力発展によりアメリカ海軍のA-1は1968年に一線を退いたが、空軍では護衛任務のためベトナム戦争の最終局面まで使用された。使い勝手の良さから使用国も多く、アメリカ海軍、海兵隊、空軍のほか、イギリス、フランス、南ベトナム、カンボジア、ガボンなどでも使用され、アメリカでも一時期、再生産が真剣に検討されたと言われる。なお、本機の後継としてエンジンをターボプロップ化したA2Dスカイシャークが試作されたが、エンジンの信頼性に問題があって開発が遅れた上、同じメーカー、同じ設計者によるジェット攻撃機A-4スカイホークが予想以上の高性能だったため、実用化されずに終わっている。機体の地味な性格ゆえか、主役よりは脇役としての登場・活躍が目立つ。

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。