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岸和田城

岸和田城(きしわだじょう)は、大阪府岸和田市岸城町にあった日本の城である。別名千亀利城(ちきりじょう)。江戸時代には岸和田藩の藩庁が置かれた。庭園は国の名勝、城跡は大阪府の史跡に指定されている。建武元年(1334年)前後に、和田高家が現在の岸和田城跡から約500m東(野田町1丁目周辺)に岸和田古城を築城。「岸の城」とも言われた。その後『日本城郭大系』によると信濃泰義によって現在地に移築されたとしている。羽柴秀吉の紀州征伐の拠点として再築城され、その急ごしらえで造られていたものを、小出秀政が5重天守を上げる本格的な構えとした。松平康重の代に総構えと城下が整備され、岡部宣勝の頃、城の東側に2重、西側に1重の外堀と寺町が増築されている。文政10年(1827年)に天守を焼失。以降再建されないまま、明治4年(1871年)に廃城とされ、まもなく破却された。岸和田城は猪伏山(いぶせやま)と呼ばれた小高い丘の上にあり、本丸と二の丸を合せた形が、機の縦糸を巻く器具「縢」(ちきり)に似ていることから蟄亀利城(後に千亀利城)と呼ばれるようになった。城内にある岸城神社は千亀利と「契り」とをかけて、縁結びの神社として知られている。桜の季節は花見の名所となる。日本100名城の選定対象となるものの、検討の結果、選定されなかった。和泉国守護であった楠木正成が甥の和田高家を岸和田に派遣して岸和田古城を築かせた。「岸」と呼ばれていた当地に和田氏が城を築いたことによって「岸の和田」と呼ばれ、「岸和田」へ変化したと言われている。岸和田古城(岸の城)がいつごろから現在の岸和田城に移ったのか明確でない。守護が楠木正成から山名氏清に代わり、和田氏もその一族と思われている信濃氏を入れたと伝わっているので、『日本城郭大系』によるとおそらく応永年間に現在の地へ移築されたと解説している。ただし、これらの文献の出典を遡っても江戸時代初期にまでしか到達せず、しかも岸和田に城があったことを示す最初の一次史料は後述の永禄元年(1558年)に三好氏が同城に入ったことを記した浄心院快栄書状(永禄元年12月12日付、京都府立総合資料館所蔵「板原家文書」)まで下ることになる。山中吾朗は当時の和泉国の状況から岸和田城の築城をどんなに早くても15世紀とし、楠木氏に関する伝承は江戸時代に盛んになった同氏崇拝の風潮によるものとする。応永15年(1408年)細川頼長と細川基之が和泉国の上下半国守護となり岸和田城の城主となったようで、その後和泉守護細川家が岸和田城と関わりを持っていく。明応9年(1500年)には、和泉上守護細川元有と和泉下守護細川政久が畠山尚順に攻められ岸和田城で討ち死にしたおりには、管領・細川政元の重臣・赤沢朝経が城を奪還した。その後、両細川の乱により細川元有の子・細川元常が阿波に逃れると、細川高国政権下において細川高基、細川晴宣が和泉守護となり、守護代松浦氏の松浦盛・松浦守父子と共に岸和田領の統治をおこなった。大永7年(1527年)、阿波の細川晴元が細川高国との決戦に勝利し(桂川原の戦い)、和泉堺を本拠とした「堺公方府」を設置、細川元常・その子細川晴貞が和泉守護に帰り咲いた。この時、松浦守は引き続き守護代として統治に関わっている。しかし、天文17年(1548年)細川晴元とその重臣・三好長慶が対立すると、松浦守は、和泉上守護・細川晴貞から離反し三好長慶についた。松浦氏は三好政権の下でも和泉国における支配的な地位を確保し続けていたとみられているが、松浦守の没後に跡を継いだ松浦万満(孫八郎)は幼少であり、三好政権は松浦万満の立場を認めつつもその後見を口実に岸和田城に兵を進めることになる(「九条家文書」所収:永禄2(3?)年4月23日付三好長慶書状)。永禄元年(1558年)には、三好長慶の実弟・三好実休、十河一存、安宅冬康が岸和田城に入った。永禄3年(1560年)には三好実休が大規模な改修をし、十河一存、安宅冬康を総大将に2800兵を籠城させた。この時には岸和田城も相当な規模となっており、阿波国、讃岐国、淡路国などから摂津国、京への交通の要となっていた。現在の二の丸(二の丸公園)にある武道場の建設時に、今の石垣の内側に更に古い石垣の列が発掘されたことにより、当時は海に面した二の丸周辺が主郭ではないかと思われ、海を背負った城郭の基礎がこの時に完成したのではないかと推測されている。永禄5年(1562年)畠山高政との久米田の戦いで三好実休が戦死すると、安宅冬康は岸和田城を退き代わって守護・細川刑部(細川晴貞)が城主となった。しかし同年の教興寺の戦いで畠山高政が大敗すると、再び三好長慶軍が岸和田城を回復し、松浦虎が城主になった。だが、当時松浦氏は一族に内紛を抱えていたらしく、この時城主になった松浦虎(孫五郎)は松浦万満(孫八郎)の対立者であったと推定され、後に同じ肥前守と名乗った松浦光(孫八郎)に城主が交替したことが確認できるなど、三好氏と畠山氏の狭間にあって松浦氏は混乱のうちにあったと考えられる。元亀年間において松浦光が岸和田城主となっており、河内高屋城主の畠山昭高と共に織田信長に従い三好三人衆、篠原長房、荒木村重らと戦ったが、天正3年(1575年)に家来であった寺田又右衛門、寺田安太夫(松浦宗清)兄弟に討たれ、松浦宗清が城主となった。天正4年(1576年)織田信長が石山本願寺を攻めた。天王寺の戦い (1576年)である。そこに毛利氏が援助のため兵糧を貝塚に運搬し、これを阻止するため和泉国水軍(沼間、松浦、寺田、真鍋)が立ちはだかったが大敗した(第一次木津川口の戦い)。天正5年(1577年)、織田信長は紀州征伐を行い、紀伊方面の抑えとして織田信張を佐野砦に置いた。その後、織田信張は岸和田城へ移った。天正10年(1582年)、和泉一国が蜂屋頼隆に与えられ、岸和田城がその居城とされた。天正11年(1583年)豊臣秀吉は、岸和田城を中村一氏の配下に置き、根来衆、雑賀衆、粉河衆などの一揆衆討伐を命じる。そんな中天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いの留守を狙って、根来衆、雑賀衆、粉河衆連合軍は総数3万兵が侵攻し岸和田城に攻城戦を仕掛けてきた。これに対して中村一氏と松浦宗清は城兵8000兵で守り切った(岸和田合戦)。この時、無数の蛸に救われたという伝説がある(蛸地蔵伝説)。この功により松浦宗清は加増されて、伊勢国に転封となった。豊臣秀吉は根来衆、雑賀衆、粉河衆連合軍を追討するため、天正13年(1585年)に岸和田城に入城し、そこから貝塚の諸城を落城させ最後に積善寺城、沢城を開城させた(千石堀城の戦い、紀州征伐)。この合戦の後、豊臣秀吉は小出秀政を岸和田城の城主とした。最初4千石であった小出秀政の知行も、文禄3年(1594年)1万石、翌文禄4年(1595年)3万石に拡大した。『岸城古今記』にはこの年から天守が築城され慶長2年(1597年)に竣工したと記している。慶長19年(1614年)、大坂冬の陣では松平信吉が城主となり、のちに北条氏重、その後は小出吉英、元和5年(1619年)松平康重が城主となったようである。その後寛永8年(1632年)に伏見城が破却されると矢倉などが移築され城郭が強化された。その松平康重も山崎城へ転出すると寛永17年(1631年)、高槻城より岡部宣勝が入城し、6万石の城主となった。以後岡部長職の時代まで岡部氏13代の居城となる。明治4年(1871年)廃藩置県により岸和田城も廃城となる。岸和田城は大坂城と和歌山城の中間地点にあり、通説では岡部宣勝は徳川家康の妹の子で、紀州藩の監視の意味もあったとされる。徳川御三家の一つである和歌山城も徳川幕府の相互監視政策に例外は無く、徳川家康の子徳川頼宣の抑えの城としても城郭が整えられたのでは思われている。『深訪日本の城』によると、江戸城で徳川頼宣と岡部宣勝が対面した時、徳川頼宣が「貴殿が岸和田に移封されたのは、われらの目付のためだという風聞であるが、いかなる計策をもって紀伊をおさえるつもりか」と問いかけてきたのに対して、岡部宣勝は「われら小藩のものが、大大藩の貴殿のおさえるほどの策略を持ち合わせるきずもござらぬが、ただ足の裏に米粒がついたぐらいのことしかできませぬ」という返事をした、と解説している。このようなやり取りがあったと思われているが両藩は戦を交えることはなかった。しかしながら、岸和田城の縄張が和歌山側より大坂側に厚い防御線を設けていることなど、矛盾する点も指摘されている。『泉邦四県石高』によると、とあり大坂の役後に本格的な城郭、総構えが整えていたのではないかと推察されている。東西は約370m、南北は約650mの平城で、5万3千石の城郭であった。現在の天守は連結式望楼型3層であるが、正保年間に幕府へ提出された正保城絵図「泉州岸和田城図」では5層の天守が描かれている。初層は千鳥破風であったが、後に唐破風が取り入れたように見受けられる。文政10年(1827年)11月20日落雷によって消失し、その後江戸幕府に復興願いを届出済みで、それによると3層の天守、2層の小天守とあるが結局は再建されなかったようである。天保年間に描かれた「岸和田城図」には隅櫓しか描かれていないので、この時には既に天守はなかったものと思われている。明治時代以後、天守台の石垣の横に一段低い小天守台があったと言われているが、これは二の丸にあった伏見城の移築櫓が3層であったため、それを代用していた可能性も指摘されている。天守台の大きさは南北、東西共に約18m、面積は336m²で、当時の岡山城と同規模の天守だったと思われている。現在の天守の高さは約22mであるが、当時の天守の高さは18間あり、今の天守より約10mは高かったと思われている。また、本丸の面積は約4702m²ある。現在の天守は昭和29年に市民の寄付や旧城主の子孫である岡部氏の要望などにより再建された。総工費は当時の金額で3460万円、設計士は一級建築士池田谷久吉、施工は岩出建設株式会社、工事は昭和29年1月6日起工、同年11月13日竣工。また平成4年には大改修工事も行なわれた。総工費は3億7801万円、設計は株式会社比石英二建築事務所、施工は岩出建設株式会社、工事は平成3年8月起工、平成4年8月31日竣工。国の名勝(平成26年10月6日指定)。重森三玲の設計で、昭和28年(1953年)7月に着工し同年12月竣工した砂庭式枯山水庭園である。庭園は諸葛孔明の八陣法をテーマにしたとされ、中央の大将と先端の天・地・風・雲・鳥・蛇・龍・虎の各陣に石組みが配されている。現存する内堀石垣の下部に周堤帯が存在する。これを犬走りと呼ぶ。城の防衛という見地から見ると非常に不利であり、なぜこのような構造にされたかはわかっていない。脆い泉州砂岩で造られた石垣が崩れるのを防ぐためという説が有力である。この犬走り周辺の石垣は平成11年 (1999年)6月28日の豪雨で崩れ、今は強度のある花崗岩で補修され色の違う石垣が見受けられる。また補修工事の時に、百数十基の墓石が発見された。年号は、永正、天文、永禄等16世紀前期-中期のものが多く、本丸の石垣は永禄年間(1560年)以後であることが裏付けられた。上記以外の曲輪群として、等があり、町曲輪・外曲輪には紀州街道が通されていた。『岸和田城跡』によると、主に3段階の改修があったと思われている。現在、岸和田城は市立の展示施設として、岸和田城の歴史紹介・所蔵物の展示などを行っており、観光振興の拠点となっている。

出典:wikipedia

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