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東艦

東艦(あずまかん、旧名ストーンウォール(甲鉄艦)(CSS Stonewall))は、外洋航行能力を持ちながら装甲で覆われた日本の軍艦で、日本海軍の草創期の艦である。種類ではマスト2本のいわゆるブリッグと呼ばれる船である。本艦を指すことが多い呼称で甲鉄艦(こうてつかん)があり、一般には鋼鉄製装甲の軍艦(装甲艦、Ironclad)を指す言葉で固有名詞ではないが、幕末から明治にかけての日本史でこれが用いられる時は本艦を指す事が多い。本艦は南北戦争中にアメリカ南部連合の同盟国だったフランスで建造された。もともとは南部連合がボルドーにあったアルマン・ブラザース社造船所に発注したコードネーム「スフィンクス(Sphinx)」と呼ばれていた装甲艦で、同型艦には「キーオプス(Cheops)」があった。本艦の設計者はM・アルマンで、1863年に起工され、翌1864年6月に進水式を行い、建造途中に「ストーンウォール(CSS STONEWALL)」と名付けられ同年中に竣工した。本艦は当時の南軍において数少ない有力艦としてアメリカへの到着が心待ちにされていたが、アメリカ北部合衆国からフランス政府へクレームが付いて引渡し契約が破棄されてしまった。そこで2艦は売りに出され、当時戦争中であったプロイセンとデンマークに渡った。デンマークに売却されたのが本艦で「ステークオザー(Staerkodder)」と命名されるも、デンマーク到着前に戦争が終結。受け取りを拒否された艦は「オリンダ」となりフランスへ戻された。だが、その途中の1865年1月24日にアメリカ南軍がこれを奪取。「ストーンウォール」となるもハバナ入港後北軍に包囲されたためキューバに売却されてしまった。戦後、アメリカはそれを買い戻すも、繋留状態に置かれていた。大きな欠陥としてイギリス純正のアームストロング砲の性能が悪く、敵艦を沈没に至らしめる力はなかったようである。しかし、本艦の防御は排水量を考えれば対15インチ防御を持っており、当時のフランス海軍の主力艦「ラ・グロワール」やイギリス海軍の主力艦「ウォーリア」のどちらに対しても耐えられる防御を持っており、日本で就役後に武装を、アメリカで買い付けてきた最新の物に換装したことで欠陥の少ない艦となった。なお、プロイセンに売却された姉妹艦の「キーオプス」は、「プリンツ・アダルベルト()」と改名されプロイセン海軍の戦艦第一号として就役した。左は本艦の装甲配置を示した図である。本艦の基本構造は艦首に鋭い形状の衝角(ラム)を持つ木造船体に2本の帆走用マストと一本煙突を持つ装甲ブリッグである。船体上の2本のマストには本格的な帆走設備が整えられており、蒸気機関が発明されたとは言え機関技術の信頼性がこの時期では未知数で、長期航海時には帆走を行うのが普通であり、本艦の帆の総面積は750平方メートルもあった。艦首水面下の衝角はコードネームの「スフィンクス(Sphinx)」の名の通り、スフィンクスの顎のように艦首の水線面から、先端部を鉄で皮膜した衝角が水中に7mも突出していた。これは、後の「リッサ沖海戦」でも行われた「衝角攻撃(ラミング)」を行うために特化した設計である。衝角攻撃とは、大砲が発明されていない時代に敵艦の船体を効果的に破壊するために舳先を相手の舷側に突っ込ませて破壊する攻撃方法で、追突した時の衝撃よりも自艦をバックさせて舳先を引き抜いた時に出来る大破口からの浸水により短時間で相手を撃沈できる戦法である。大型の大砲が開発されたとは言え、この時期の砲弾は性能が低く、効果的に敵艦を無力化するには衝角攻撃が主流であった。他に船体形状で他にも目を引く艦尾形状も特徴的で、当時としては非常に珍しかったクルーザースターン(巡洋艦型船尾)を採用していた。当時の主力艦の艦尾は外観を重視して優美にすぼめられた形状を持っていることが多く、角のみを丸くして艦尾を短く纏めたクルーザースターン形状は時代を先取りしていた。だが、水面下はもっと特異で、舵と推進軸の周辺形状にはツイン・スケグを採用していた。ツイン・スケグとは、船底部からスクリュー軸を伝うように垂直に伸ばされた鰭状の構造物を設け、そのままスクリュープロペラの背後に主舵を配置する形式の事で、スクリューで生じた水流の真後ろに舵が配置されるために舵効きが良く、また、スケグがスクリュー軸を囲って守るのでスクリューに異物が巻きついて行動不能になるのを防ぐ効果も有った。船体に大砲や装甲板などの重量物を搭載するために安定性を重視してずんぐりとした船体形状になるために運動性が低くなりやすい装甲艦には必須のアイディアであったが、船体形状の複雑化によるコストの問題もあり、この形式を積極的に採用したのは第一次世界大戦後のアメリカ新戦艦くらいで、この時代の主力艦に採用されたのはまさに時代を先取りしたとしか言い様の無い意欲的な設計である。本艦の主砲には大砲技術の本場イギリスのアームストロング社の砲を採用している。艦首砲郭部には「アームストロング 27.9cm(300ポンド)前装填式滑空砲」を単装砲架で1基を配置し、重量136㎏の砲弾を撃つ事が出来た。船体中央砲郭部に「アームストロング 12.7cm(70ポンド)前装填式ライフル砲」を単装砲架で片舷1基ずつ計2基を装備し、重量32kgの砲弾を撃つ事が出来た。しかし、砲弾の性能が良くなく、火薬庫等に命中しないかぎり敵艦を大破させるのは難しかった。この事もあってか、後に米国製のパロット砲に備砲を換装されている。砲廓部の床面には、ピポッティング・スライド・キャリッジ(Pivotting Slide Calliage)と呼ばれる円弧状のレールが敷設され、その上に置かれた砲架を旋回・移動させる事により、砲郭から大砲を出した砲身を出した際に砲門を支点として砲尾部を扇状に動かすことにより広い射界が得られた。これにより少ない門数でも迅速に火砲を敵艦に向けられる工夫であった。更に砲架の設計も新型で、従来の砲架の仰角は10度程度であったが、本艦の物はスライド・キャリッジと呼ばれる形式の砲架により、仰角は一挙に倍以上の25度が可能となり射程の延伸が可能となった。また、砲廓に設けられた砲門には戦闘時に開口部から敵弾が飛び込むのを防ぐために装甲板と同じ材質の蓋が取り付けられ、装填時に開口部を塞いだ。本艦の防御要求は対15インチ砲防御を目標として設計され、北軍の持つあらゆる種類の艦砲に対して貫通されない防御力が要求された。砲郭部の形状は前後ともに横方向に広い楕円形をしており、当時の低い工作技術で複雑な曲線の船体に装甲板を満遍なく貼り付けるフランスの建艦技術の高さが窺える。船体甲板上の艦首側と中央部に主砲を収める楕円筒形の砲郭(ケースメイト)が設けられた。砲郭部には船体構造部とは別個に装甲板を装着するためのコーキングと呼ばれる緩衝材が構造材から上に貼り付け、その上にアーマーパッキング(砲弾が命中した際にショックを和らげるための緩衝材)として厚さ80mmのチーク材が更に貼り付けられた。このアーマーパッキングに装甲板を専用のボルトで螺子止めして装着される。本艦の砲郭部には装甲板の材質は粘り気のある錬鉄製で前述のアーマーパッキングの上から厚さ102mmから140mmの装甲を貼った。同時期のデンマーク海軍の装甲艦「ペダー・スクラム(1866年竣工、3,300トン)」の砲廓部の装甲が120mmであることを考えれば本艦は排水量が2倍の艦と同等の装甲厚を持っていた事が判る。この当時の艦体の防御様式は水線部は装甲板を舷側の全周に装着する全体防御方式が主流であった。本艦は高さ2.7mの装甲板を水線部を0として上方向に1.5m、水線下に1.2mもの範囲で舷側を覆っていた。防御厚は船体中央部は125mmで艦首と艦尾の水線末端部に向かって90mmにテーパーした。さらに、その装甲板の上から厚さ約32mm(1.25インチ)の装甲を貼る複合装甲を採用していた。後に北部合衆国軍が開発したモニター艦「モニター (USS Monitor)」の搭載砲は11インチ(279 mm)砲でしかない事を考えれば、本艦の防御能力は高い物であった。本艦の主機関はル・アーヴルのマゼリン鉄工所でボイラーとレシプロ機関が共に製造されて搭載された。マゼリン式チューブラーボイラー2基とマゼリン式水平型レシプロ機関2基2軸が組み合わせられ、推進機関であるレシプロ機関は1基あたり600馬力の出力があり、それを2基搭載されたので最大出力は1,200馬力を発揮できた。推進軸に取り付けられたスクリュープロペラは一枚が推進軸に対して斜め45度に傾けられた長方形の板状の4枚プロペラで直径は約3.6mであった。本艦は公試において最高速力10.8ノットを発揮し実用速力は10.5ノットとした。同時に燃料消費量から計算して石炭200トンを満載して9ノットで1,200海里を航行できると計算された。慶応3年(1867年)に小野友五郎を代表とする江戸幕府の訪米使節がアメリカに「ストーンウォール(CSS STONEWALL)」買取を約束したが、翌慶応4年(1868年)に戊辰戦争が勃発して幕府が瓦解すると、新政府側でもストーンウォールを買い取りたいと言い出した。旧幕府側はこれに反発。横浜に至ったアメリカ側は、戦争の決着がつくまでストーンウォールをどちらにも売る気はないと、局外中立を宣言した。しかし奥羽越列藩同盟が崩壊し、榎本武揚ら旧幕府海軍が蝦夷地へ渡って所謂「蝦夷共和国」を樹立させた頃には、明治政府が新たなる政府であることを認めて局外中立を撤廃。まだまだ財政が厳しかった明治政府は躊躇したが、明治2年(1869年)2月3日ストーンウォール(甲鉄艦)購入に踏み切った。旧幕府海軍は旗艦の開陽丸を座礁で失った上、明治政府のストーンウォール(甲鉄艦)購入の知らせが箱館に届き危機を感じた榎本らは軍議の上、同艦の奪取作戦を計画(アボルダージュ作戦)、宮古湾海戦が起こった。榎本らは甲鉄艦の装甲を貫ける新型砲弾を開発しており、船に積んでいたと言われるが、天候などの不運も重なりその威力は試せないまま奪取に失敗した。本艦は宮古湾海戦で旧幕府軍艦を追撃した後、青森に待機し、同年4月9日の新政府軍上陸に際して箱館湾に出撃。箱館湾海戦を経て旧幕府軍の降伏に至った。1872年12月7日には名を「東艦」と改められた。その後、佐賀の乱、台湾出兵に出動。1874年8月19日に長崎港に停泊中に台風により沈没したが、程なく浮揚されて横須賀海軍工廠で復旧修理の上海軍に復帰し、西南戦争では瀬戸内海の警備任務についた。購入から17年後の1888年に除籍された。解体のため民間に売却された東艦の装甲板は上質であったので浅草火力発電所の変圧器の鉄芯に再利用された。

出典:wikipedia

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