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厚木海軍飛行場

厚木海軍飛行場(あつぎかいぐんひこうじょう)は、神奈川県綾瀬市と大和市にまたがる軍用飛行場で、アメリカ海軍と海上自衛隊が共同で使用している軍事基地。県内で唯一、固定翼ジェット機が離着陸できる航空施設である。航空管制は海上自衛隊が行なっている。通称は厚木基地(あつぎきち)、厚木飛行場(あつぎひこうじょう)。海上自衛隊では厚木航空基地(あつぎこうくうきち)と呼ばれるが、日本の公的資料では「厚木海軍飛行場」と呼称されている。米海軍は空母ロナルド・レーガン(USS Ronald Reagan, CVN-76)艦載機の第5空母航空団(CVW-5)の本拠地として使用しており、海上自衛隊は第4航空群、実験航空部隊の第51航空隊、輸送航空部隊の第61航空隊、の航空基地として使用している。米軍内における名称はNaval Air Facility Atsugi(直訳すると海軍厚木航空施設)である。ジョン・F・ケネディを暗殺したとされるリー・ハーヴェイ・オズワルドは1957年から1958年にかけて航空管制官としてこの地で勤務していた。総面積約506.9haのうち約395ha(全体の約78%)が綾瀬市で、残りが大和市である。帝国海軍が、主に帝都防衛の拠点として1938年に着工、1942年に完成した。東京に最も近い海軍の航空拠点として重視され、整備訓練航空隊である相模野海軍航空隊や、戦闘機操縦士練成部隊である厚木海軍航空隊が置かれた。太平洋戦争後期に防空隊である302空が開隊して以降は、陸軍の調布飛行場、柏飛行場、松戸飛行場、成増飛行場などと並び、首都圏防空の重要拠点として機能した。1945年8月14日、日本がポツダム宣言を受諾し降伏を決定。しかし302空司令の小園安名大佐は、翌15日の玉音放送の後も降伏を受け入れず祖国防衛を目的として徹底抗戦を主張し、若い隊員たちも数日にわたって戦闘機からビラ撒きをするなど、厚木飛行場の部隊は反乱状態に陥った(厚木航空隊事件)。8月16日、米内光政海軍大臣の命により寺岡謹平海軍中将や高松宮宣仁親王海軍大佐、第三航空艦隊参謀長・山澄忠三郎大佐などが説得にあたるも、小園大佐ら厚木飛行場の将兵たちは首肯しなかった。8月18日、小園大佐は当時罹患していたマラリアにより、40゜C近くまで発熱し、興奮状態が続いたため、8月20日に航空隊軍医長の手で鎮静剤を打たれ、革手錠をかけられ野比海軍病院(現在の国立病院機構久里浜医療センター)の精神科へ強制収容された。この厚木空の武装解除について政府首脳は以下の様に心境を語っている。8月21日、フィリピンのマニラへ降伏軍使として派遣していた停戦全権委員より、「連合国軍東京占領の拠点として厚木飛行場に8月26日に第一陣、8月28日にマッカーサー連合軍総司令官と司令部が到着する予定である」との文書がもたらされた。これにより8月22日、小園大佐の拘束後も逃走せず暴動状態であった兵たちが強制退去させられ、厚木飛行場の反乱は収束した。8月23日厚木飛行場に山澄大佐率いる大本営厚木連絡委員会がはいった。悪天候のため当初通告より2日遅れの8月28日に、連合国軍の1国であるアメリカ軍の大規模な軍先遣隊(指揮官テンチ大佐)の輸送機ダグラスC54が打ち合わせと逆の方向から着陸し、ジープを下ろして飛行場の接収を行った。その2日後の8月30日、ダグラス・マッカーサー連合軍総司令官の乗った輸送機「バターン号」が厚木飛行場に着陸。「メルボルンから東京へ、長い道のりだった」と第一声を放った。このとき、彼が細いコーンパイプを咥えてタラップを降りる写真(『ライフ』カメラマンのカール・マイダンス撮影)が現存し、日本の敗戦や連合国による占領時代を象徴する1枚としてしばしば用いられる。その後、厚木飛行場は連合国軍の一つであるアメリカ陸軍の管理下に置かれた。占領初期はアメリカ陸軍航空軍(USAAF)の飛行場となり、主に偵察や哨戒などの任務を行うため、次の部隊が駐留した。また、他の基地に駐留していた部隊も、連合国軍による占領任務を支援するため、次の飛行中隊を厚木に配置した。さらに1946年5月には、木更津飛行場からアメリカ海軍航空運輸サービス(Naval Air Transport Service, NATS)の分遣隊が移駐し、物資や人員の空輸を行うようになった。これら飛行部隊の多くは、アメリカ軍によって新たに滑走路が整備された他の基地へ移駐し、その後の厚木飛行場は、専らキャンプ座間附属の野外物資集積所として運用された。1949年には一旦閉鎖され、接収解除も目前であったが、翌1950年に朝鮮戦争が勃発したため、軍事施設としての重要性が再認識されると、アメリカ軍の極東における中核航空基地の一つとして復活、管轄も陸軍から海軍に移行する。朝鮮戦争の停戦後も飛行場は順次整備・拡張され、1960年代には現在とほぼ同じ姿になった。アメリカ海軍による、発着艦訓練、射爆訓練は房総半島南東のR-116と呼ばれる海域で実施されている。1970年、大阪万博の開催に伴い羽田空港の混雑がピークに達し、一部のローカル線が期間限定で厚木飛行場から発着した。ベトナム戦争の状況変化を受けてアメリカ海軍航空隊は次第に撤退し、代わりとして1971年には海上自衛隊が使用を始めた。その後、アメリカ軍がベトナム戦争より撤収した1973年にアメリカ海軍第7艦隊の空母ミッドウェイが横須賀港を母港にすると、ミッドウェイの艦載機が厚木に駐留するようになり、ここに「アメリカ海軍空母艦載機の基地兼海上自衛隊の基地」という位置づけが成立した。この位置づけは1970年代末期以降の冷戦再燃に伴って固定化し、空母がミッドウェイからインディペンデンス、キティホーク、ジョージ・ワシントンを経てロナルド・レーガンに代替した現在も引き継がれている。敷地は綾瀬市と大和市にまたがっているが、両市とも名前の由来となっている厚木市との間は海老名市や相模川によって隔てられており、地理的に「厚木」との関連性が全く無い。なぜこの飛行場に「厚木」の名がつけられたのかについては昔から様々に論じられているが、どの説も決定的な説得力を欠くため、これといった定説は無い。比較的知られている例を挙げると、などがある。とりわけ「大和」の名を避けたという説については広く知られて半ば都市伝説と化しているが、厚木飛行場完成後の1944年、海軍が奈良県で実際に「大和航空基地(柳本飛行場)」を建設しているため、この説には矛盾が生じる。また2については、飛行場という施設の特徴上、異なった土地の名前を付けた所で敵機が空から見れば一目瞭然の為、効果は疑わしく、他の飛行場でも同様の例が殆ど見られない事からこちらも信憑性が低い。一方、3及び4については、多少の妥当性が認められるものの、実際に命名に関与した者が生存している可能性は極めて低く、現在では真相を知り得る機会はほぼ完全に消失している。なお、同じ様に相模川東岸にあるにも関わらず、「厚木」を名乗っている物として小田急小田原線・JR相模線厚木駅がある。また、繊維メーカーのアツギ(旧社名:厚木ナイロン工業)も本社工場が海老名市であるが、こちらは厚木基地の知名度を利用して基地名が逆に企業名に採用された物である(詳しくはアツギ#社名の由来を参照)。周辺では離着陸する飛行機の墜落事故が多数発生しており、そのうち重大なものだけでも以下のような事故がある:現在でもこの様な事故が起こる危険性が解消された訳ではない。相模鉄道も1961年1月に墜落事故の為に不通となった事があり、リスク回避のため、滑走路延長線部分に当たる区間(大和駅、相模大塚駅間)はコンクリートによってトンネル化された。東名高速道路の大和トンネルも同様の理由により建設された。1973年にアメリカ海軍空母ミッドウェイが横須賀を母港としたのに合わせて、厚木基地は空母が入港した際の艦載機基地として用いられるようになった。艦載機訓練の中でも特に騒音被害の大きい夜間離着陸訓練(NLP)は当初岩国基地と三沢基地で行われてきたが、1982年になり厚木でもNLP訓練が開始された。基地の周辺は住宅地で囲まれており、空母艦載機、特に戦闘機の騒音は極めて大きく、住民は早くからこれらに激しい抗議を申し入れた。防衛施設庁を通した補助金により大和市や藤沢市などの一部地域では二重窓化などの住宅改造が公費で行われている。騒音被害の賠償と飛行差し止めを求めて、三次にわたる訴訟が行われ、裁判は最高裁判所までもつれ込んだ。第一次厚木基地爆音訴訟(1973年~1995年)、第二次(1984年~1999年)、第三次(1997年~2002年)のいずれの例でも損害賠償は認められたが、飛行差止は棄却された。国でも厚木基地の騒音問題を早くから認識しており、1980年代前半には三宅島への移設が検討されたが、住民の激しい反対活動により計画は撤回された。関東周辺の自衛隊基地への移転も、各基地の地元自治体と住民の反対により正式な検討作業にも至らなかった。メガフロートの利用も検討されたが、技術的に問題が解決されていないとして諦められた。これらの候補地への移転がいずれも難しくなる中で、厚木から1000㎞以上離れた硫黄島へのNLP移転が検討されるようになった。1988年8月には瓦力防衛庁長官が硫黄島への訓練移設について言及している。米軍は厚木から余りに距離が離れすぎているとして難色を示したが、最終的に暫定的処置として硫黄島通信所に夜間離着陸訓練用施設を建設し、1991年からNLP訓練については硫黄島に移転された。現在はNLPの約90%が硫黄島で行われている。これらの対策にも関わらず、昼間の離着陸訓練は依然として厚木において行われている。また、天候不順を理由としたNLP訓練、戦闘機以外の空母艦載機のNLP、NLPに属さない夜間の戦闘機離着陸訓練も厚木基地において行われており、騒音問題が抜本的に解決したわけではない。神奈川県や基地周辺各市といった周辺自治体は1988年8月16日に「厚木基地騒音対策協議会」を設立し騒音問題に関して日本政府および米国大使館に対策を求める活動を行っている。世界規模での米軍再編の一環である在日米軍再編計画において、空母艦載機の厚木基地から山口県の岩国飛行場への移転が計画されている。山口県および岩国市の賛否は依然流動的な状態であり、具体的なスケジュールは決まっていない。毎年4月下旬~5月上旬頃(ゴールデンウィーク期間)に、「日米親善春祭り(Spring Festival)」と題した基地公開が行われている (2011年以前は3月下旬~4月上旬頃に「日米親善桜祭り(Cherry Blossom Festival)」と題して行われていた)。厚木基地に駐留する航空機の地上展示、基地在住の米軍関係者や地域住民による模擬店出店、バンド演奏などが実施される。また、8月には「アメリカンフェスティバル&盆踊り(American Festival & bonodori)」と題した盆踊りイベントが行われる。入場にあたっては、本籍記載と顔写真の有る有効な公的身分証明書の提示が求められるので、基地公開ごとに公式ホームページ等で確認されたい。例えば、本籍が印字されていないICカード式運転免許証だけでは入場できない。過去には「Wings」と題して、在基地航空機を主とした展示飛行を含めた基地公開が行われていたが、2000年7月1日・2日の開催を最後に展示飛行は行われていない。基地公開に関連する話として、2001年8月2日に米海軍機(F/A-18:4機・F-14:1機)が編隊飛行を行った。第27戦闘攻撃飛行隊の司令官交代に際し、司令官に敬意を表すために行ったと後に米軍側が回答。しかし日本側への事前連絡・合意も無く、横浜の市街地・横浜駅上空を展示飛行さながらに低空飛行した為、多数の苦情が市・県・警察に寄せられた。元々展示飛行自体は基地の周辺自治体が中止を求めていたが、この事件により無期限の展示飛行中止を余儀なくされた。

出典:wikipedia

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