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蒔田広定

蒔田 広定(まいた ひろさだ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。備中浅尾藩の初代藩主。通称は権佐(ごんのすけ)。尾張国中島郡下津の住人蒔田広光の次男として織津で生まれた。豊臣秀吉に仕えてその小姓頭の1人となった。天正18年(1590年)7月、北条氏政・氏照兄弟が小田原城を出て自害した時、広定は秀吉の小姓の身であったが、石川貞清・榊原康政らと共に検使役を務めた。同19年(1591年)8月、河内国で104石の知行を与えられた。文禄元年(1592年)からの朝鮮出兵では、秀吉の旗本の後備衆の1つとして200人を出して、肥前名護屋城に駐屯し、東二の丸を守備した。文禄3年(1594年)、伏見城普請に参加。翌年に父の広光が死去したため家督を継いで、河内・伊勢・備中にあった所領の1万16石を領した。本拠は雲出(現三重県津市雲出)。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、西軍に与して伊勢口や大坂本町筋橋の警固をした後、占領された伊勢安濃津城に駐屯した。関ヶ原本戦で西軍が敗北すると、高野山に逃れて蟄居し、所領は没収されて改易となった。しかし岳父の大島光義や、浅野長政・幸長親子の尽力もあって、罪を許されて所領安堵された。その後、備中浅尾1万石に転封されて、浅尾藩を立藩した。大坂の陣後に徳川秀忠の御伽衆となった。元和9年(1623年)、寛永3年(1626年)の秀忠・家光父子の上洛にも付き従った。寛永13年(1636年)に死去。享年62という。

出典:wikipedia

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