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ニクソン大統領の中国訪問

ニクソン大統領の中国訪問(ニクソンだいとうりょうのちゅうごくほうもん)は、1972年2月21日にアメリカ合衆国大統領リチャード・ニクソンが中華人民共和国を初めて訪問し、毛沢東主席や周恩来総理と会談して、米中関係をそれまでの対立から和解へと転換して第二次世界大戦後の冷戦時代の転機となった訪問である。また、前年の1971年7月15日に、それまで極秘で進めてきた米中交渉を明らかにして、自身が中華人民共和国を訪問することを突然発表して世界を驚かせたことで、「ニクソンショック」と呼ばれている。第二次世界大戦後、ヨーロッパは東西対立で冷戦を迎えていた。一方アジアでも、中国大陸、朝鮮半島、ベトナムで対立した結果それぞれで分断国家が誕生した。中国大陸では日中戦争の時期に中国国民党と中国共産党とが共同戦線を張ったが、日本の敗戦で日本軍が去った後に国共内戦が始まり、やがて共産党が勝利して1949年10月1日に成立した中華人民共和国と、台湾に逃れた中華民国の2つの国が存在した。中華人民共和国はソビエト連邦を筆頭にした共産主義陣営に属し、中華民国はアメリカ合衆国を筆頭とする自由主義陣営に属して、多くの国は中華民国は承認するが中華人民共和国は承認しない状態が続き、中国はアメリカ合衆国と冷戦を背景に対峙する関係にあった。特に1950年6月25日に勃発した朝鮮戦争では、中国人民志願軍(抗美援朝義勇軍)をアメリカ軍と大韓民国国軍を主体とした国連軍相手に派遣した戦争の相手国であった。米中双方は戦場において戦い、互いに多くの死傷者を出し、そのために和解できない敵対関係になった。中国とソ連は同じ共産主義を目指す国家で、ソ連は共産主義陣営の盟主であり、後発の中国も大戦を大きな犠牲を払いながら勝ち抜いた点は共通していた。しかし、当初の段階においても関係は必ずしも円満と言い切れるものではなかった。ただ、ヨシフ・スターリンがソ連の指導者だった時代の両国は、強固な同盟関係(中ソ友好同盟相互援助条約を1950年に締結)と西側から見られ、日米安保体制も中ソ同盟を前提として成り立っていた。しかし1953年のスターリンの死後に指導者となったニキータ・フルシチョフは1956年にスターリン批判をおこない、中国側は不快感を抱く。さらに平和共存外交を展開した時期から中ソ間に外交や共産主義運動の方針をめぐって不協和音が生じ、やがて1960年代に入ってから、それまで曲がりなりにも友好関係を維持してきた中ソ間に深刻な衝突が起こり、中華人民共和国はソビエト連邦とは袂を分かち、独自路線を歩んでいった。1960年代には中国やフランスが独自の外交を展開したことで、国際関係は単純な東西対立とは異なる状況に進んだ。この時期にはアメリカはベトナム戦争を抱え、1960年代後半にはソ連の「衛星国」だったチェコスロバキアで自由化を求めるプラハの春が起き、両国の覇権が脅かされた。一方中国では1966年から始まった文化大革命で国内が混乱し、中国外交は硬直した状態が続いていた。そんな中で1969年3月に中ソ国境付近のウスリー河の中州にある珍宝島(ダマンスキー島)で国境線をめぐる武力紛争が起こり、中ソ対立がやがて戦争状態に突入することが懸念されるほど緊張した状況が生まれた。この時には中国はアメリカを帝国主義として批判し、ソ連を修正主義として批判していたが、前年のチェコの自由化の動きをソ連が戦車で圧倒してから主要な敵はソ連と考えるようになった。1965年からのアメリカのベトナムへの軍事介入は、それまでの対中封じ込め政策の帰結でもあったが、やがて泥沼化して収束の見通しが困難になると対中政策の根本的な再検討を迫られることになった。1966年に上下両院の外交委員会で中国問題に関する公聴会が開かれてH・J・モーゲンソーやA・D・バーネットらの国際政治学者や中国問題専門家から中国政策の転換の必要性が指摘された。ニクソンが大統領選挙に当選する前の年1967年、「フォーリン・アフェアーズ」誌に「中国のような巨大な領土と人口を持つ国を国際社会で孤立させておくことはできない」と述べて、それまで反共の闘士と思われていただけに大きな驚きをもって受け止められている。ニクソンが大統領に就任した1969年、中ソの緊張状態は夏から秋にかけて最も戦争の危険性を孕んでいた。中国の毛沢東は慎重に情勢を見極める中で、当時の人民解放軍の中華人民共和国元帥の10人のうち、文革で一時失脚して地方に送られた陳毅・聶栄臻・徐向前・葉剣英の「四元帥」に中国の今後の戦略的課題の分析を行うよう指示した。しばらくしてまとめられた報告書ではソ連がすぐに攻めてこない理由として国内での支持の弱さ、兵站の問題と合わせて米国の姿勢への疑念を上げて、「二頭の虎が戦う様子を山頂に座って眺めている」という中国のことわざを使った。この時はまだ大胆な政策転換をめざしたものではなかった。しかしこの当時毛沢東は彼の医師との会話の中で「我々の祖先は近隣諸国と戦う際には遠方の国々と交渉することを勧めなかったか」と語っていた。1969年5月に毛沢東は再び陳毅・葉剣英ら「四元帥」にさらなる検討を指示したところ、6月から7月まで6回の座談会で「戦争情勢についての初歩的評価」を周恩来に提出し、以後7月末から9月中旬までの10回の座談会で「当面の情勢についての見方」の報告を提出した。この中で「四元帥」の議論は「中国がソ連の攻撃を受けた場合に米国カードを使用すべきか否か」という点に議論が集約され、陳毅は第2次大戦直前のヒトラーとスターリンの例を、葉剣英は魏呉蜀の三国時代の諸葛亮の例を出して、毛沢東が同盟関係の逆転につながる戦略的ひらめきを得るために先人たちを調べるように勧めた。しかも「ソ連修正主義者が中国への侵略戦争を開始するかどうかは、米帝国主義者の姿勢にかかっている」として、中国と米国とソ連の三大国の相互関係を分析して、中ソの矛盾は米中の矛盾より大きい、米ソの矛盾は中ソの矛盾よりも大きい、すぐに反中戦争が起こる可能性は少ない、しかし米中でソ連を牽制することが肝要で米国との大使級会談の再開を進言して、陳毅はまた補足で大使級会談を閣僚級会談に引き上げるべきで、そのために台湾返還の問題などは前提条件にすべきではないとまで書き入れていた。米国にとって、もし中ソが戦った場合にソ連が勝って米国以上に大帝国になることが一番望ましくないことであり、傍観者の立場に限定することはなく、しからば中国は米国と接触することが中国の防衛には必要なことであるということであった。これは毛沢東がその時考えていたことではあったが、文革派の勢いが強かった1969年当時では毛沢東でさえ党内強硬派に配慮せざるを得なかった。一方、ベトナム戦争の泥沼に嵌まり込み、国内から強い批判を浴びて、再選出馬を断念した民主党のジョンソン大統領の次に、1968年アメリカ合衆国大統領選挙で当選して大統領に就任した共和党のニクソン大統領は、アメリカ軍のベトナムからの名誉ある撤退を選挙で公約しながらもその後北ベトナムとの対話が進まず、兵力を漸次縮小はしていたがカンボジアやラオスに侵攻するなど、インドシナでの戦争は逆に拡大し、また中国を封じ込めて国連総会で台湾を支持し中華人民共和国の加盟を認めない方針を朝鮮戦争後ずっと続けてきたが、1970年秋の国連総会で中国の加盟を認めるアルバニア案が多数となり(重要事項案も可決され三分の二の賛成が必要で結局加盟できなかった)、アメリカ外交の以後の戦略の見直しを模索していた。ニクソンはたんにベトナムからの撤退だけを考えていたわけではない。ただ撤退するだけでは戦後築き上げた世界最強国家としてのアメリカの威信や自由世界の守護神としての重要な位置を失うだけであった。「戦争を終わらせると同時に戦後の国際秩序を一つ一つ構築していくうえでアメリカが力強い役割を果たす」ことが重要であり、こうした考え方の中でアメリカにとって中国は重要な役割を果たすパートナーとして、長期的な平和の見取り図が提示できると考えていた。中ソが緊張関係にあった1969年8月の国家安全保障会議でニクソンは「もし中国が中ソ戦争で粉砕されればアメリカの国益に反する」という主張をしており、ほぼ同時期に米中の最高首脳はまったく同じ方向で外交政策の見直しを行っていた。端緒はワルシャワでの大使級会談であった。実は中華人民共和国が誕生してから20年間ワルシャワで細々と大使級会談を行っていた。何度も中断することがあり、それでも当時は唯一の米中間のチャンネルであった。文革後1967年3月から中断していた米中大使級会談が1970年1月20日にようやく再開して若干の進展を見せた。それは「両国の緊張を緩和して抜本的に関係を改善するために他のチャンネルを通じた会談を検討する用意がある」と中国側が明らかにしたことであった。このシグナルは現場でのアメリカ側の交渉担当者には読めなかった。そして2月20日の「第136回会談」の後に5月20日に行う予定が直前でのアメリカのカンボジア侵攻でキャンセルされて失敗に終わったと外交関係者は見ていた。この時期は3月にカンボジアでシアヌーク元首が追放されて、アメリカの援助を受けてロン・ノル政権が実権を握り、その後5月に南ベトナムからカンボジアに侵攻してホーチミン・ルートを攻撃して中国との対話が凍結された状態になった。これより前の1969年7月から8月にかけてニクソン大統領がアジア・ヨーロッパの国を訪問した時にパキスタンとルーマニアの首脳に自分が中国指導者との交流を求めている旨の伝言を依頼していたが、その後1970年12月8日になってパキスタン大使がホワイトハウスに周恩来からの書簡を持ってきた。内容はパキスタンを通じてのメッセージを受け取った旨を明らかにして特使の派遣を留意するというものであった。この中には、首脳から首脳を通じて首脳に宛てた最初のメッセージなので回答したこと、この件については毛沢東と林彪の承認を得ていること、台湾の立ち退きについて話し合うため特使を北京に招待することが書かれてあった。そしてルーマニアからも1ヵ月後に同じメッセージが届いた。周恩来がパキスタン経由が万一の場合を想定してルーマニア経由も使ったとキッシンジャーは理解した。しかもルーマニア経由の文章にはニクソン大統領を招待する内容があったが、アメリカはルーマニア経由で特使派遣を承諾する旨(大統領の訪問は触れず)の返事を送った。キッシンジャーはこの時に周恩来からのメッセージに台湾問題はあったがベトナム戦争に触れていないことに注目していた。1970年8月23日~9月6日にかけて開かれた中国共産党中央委員会総会(第九期二中全会)で毛沢東の支持を得た周恩来が林彪を抑えて対米接近路線を勝ちとっていた

出典:wikipedia

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