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ノルウェイの森

『ノルウェイの森』(ノルウェイのもり)は、村上春樹の5作目の長編小説。2010年にトラン・アン・ユンの監督により映画化された。1987年9月4日、講談社から書き下ろし作品として上下二分冊で刊行された。1991年4月15日に講談社文庫として文庫化され、2004年9月9日に文庫改訂版が出された。単行本にはあとがきが付されているが、文庫版には掲載されていない。第二章と第三章は、短編小説「螢」(『中央公論』1983年1月号掲載)を下敷きにしている。また、短編小説「めくらやなぎと眠る女」(『文學界』1983年12月号掲載)も本作にまとまっていく系統の作品だが、「螢」とは違って本作との間にストーリー上の直接の関連はないという。「多くの祭り(フェト)のために」というエピグラフがある。村上は本書についてこう述べている。「この話は基本的にカジュアルティーズ(うまい訳語を持たない。戦闘員の減損とでも言うのか)についての話なのだ。それは僕のまわりで死んでいった、あるいは失われていったすくなからざるカジュアルティーズについての話であり、あるいは僕自身の中で死んで失われていったすくなからざるカジュアルティーズについての話である」主人公が神戸市出身であること、大学に入学した年が村上と同じ1968年であること、東京の私立大学で演劇を専攻していること、主人公が入っていた寮が村上も入寮した和敬塾をモデルにしていることなどから、「自伝的小説」と見られることもあるが、本人はこれを否定している。1986年10月3日、村上は妻の陽子と共に日本を発つ。10月半ば、ギリシャのスペッツェス島に住み、C・D・B・ブライアンの『偉大なるデスリフ』の翻訳に取り組む。11月にミコノス島に移動し、翻訳を最後まで仕上げてから本作品の執筆に取りかかった。大学ノートにボールペンで書き進める。清書前のこのノートは今でも著者の手元に残っているという。12月28日、ミコノス島を出る。1987年1月から1ヶ月間、シチリア島のパレルモで書き続け、それからローマに移動。3月7日、早朝から17時間休みなしで第一稿を深夜に書き上げる。直後の日記に「すごく良い」とだけ書き記した。3月26日、第二稿完成。4月初め、イタリアのボローニャ国際児童図書展に来た講談社の社員に原稿を手渡す。「ノルウェイの森」というタイトルがついたのはボローニャに行く2日前のことだった。本書は「雨の中の庭」というタイトルで書き始められた。このタイトルはドビュッシーのピアノ曲集『版画』の中の一曲「雨の庭」("Jardins sous la pluie")に由来する。前述のとおりタイトルは原稿を版元に渡す2日前に変更される。題名に迷った村上が妻に作品を読ませて意見を求めると、「ノルウェイの森でいいんじゃない?」という返答があったという。ビートルズの曲の題をそのまま本の題にするということで、本人は当初気が進まなかったというが、周りの「題はもう『ノルウェイの森』しかない」という意見が多勢だったため今のタイトルとなった。また、村上自身は著書の中で、「ところでビートルズの“ノルウェイの森”というタイトルが誤訳かどうかという論争が以前からあって、これについて書き出すとかなり長くなります」とだけ述べている。単行本の発行部数は、2008年時点で上巻が238万部、下巻が211万部の計449万部、2009年8月5日時点で上下巻あわせて454万4400部。単行本・文庫本などを含めた日本における発行部数は2008年時点で計878万部、2009年8月5日時点の増刷で1000万3400部となり、1000万部越えを達成した。村上人気が高い中国でも100万部以上が出版されている。上巻は、片山恭一の『世界の中心で、愛をさけぶ』に抜かれるまで、日本における小説単行本の発行部数歴代1位であった。本書がベストセラーになったことについて、村上はこう述べている。「小説が十万部売れているときには、僕はとても多くの人に愛され、好まれ、支持されているように感じていた。でも『ノルウェイの森』を百何万部も売ったことで、僕は自分がひどく孤独になったように感じた。そして自分がみんなに憎まれ嫌われているように感じた」37歳の僕は、ハンブルク空港に到着した飛行機のBGMでビートルズの「ノルウェーの森」を聴き、激しい混乱を覚えた。そして学生時代のことを回想した。直子とはじめて会ったのは神戸にいた高校2年のときで、直子は僕の友人キズキの恋人だった。3人でよく遊んだが、キズキは高校3年の5月に自殺してしまった。その後、僕はある女の子と付き合ったが、彼女を置いて東京の私立大学に入学し、右翼的な団体が運営する学生寮に入った。1968年5月、中央線の電車の中で偶然、直子と1年ぶりの再会をした。直子は武蔵野の女子大に通っており、国分寺のアパートでひとり暮らしをしていた。二人は休みの日に会うようになり、デートを重ねた。10月、同じ寮の永沢さんと友だちになった。永沢さんは外務省入りを目指す2学年上の東大生だった。ハツミという恋人がいたが、女漁りを繰り返していた。翌年の4月、直子の20歳の誕生日に彼女と寝た。その直後、直子は部屋を引き払い僕の前から姿を消した。7月になって直子からの手紙が届いた。今は京都にある(精神病の)療養所に入っているという。その月の末、同室の学生が僕に、庭でつかまえた螢をくれた。夏休みの間に、大学に機動隊が入りバリケードが破壊された。僕は大学教育の無意味さを悟るが、退屈さに耐える訓練期間として大学に通い続けた。ある日、小さなレストランで同じ大学の緑から声をかけられる。演劇史のノートを貸したことがきっかけで、それから緑とときどき会うようになった。直子から手紙が来て、僕は京都の山奥にある療養所まで彼女を訪ねた。そして同室のレイコさんに泊まっていくよう勧められる。レイコさんはギターで「ミシェル」や「ノーホエア・マン」、「ジュリア」などを弾いた。そして直子のリクエストで「ノルウェイの森」を弾いた。(以上、上巻)ある日曜日、緑に連れられて大学病院に行った。そこには彼女の父親が脳腫瘍で入院していた。父親は数日後に亡くなった。永沢さんは外務省の国家公務員試験に受かり、ハツミとの就職祝いの夕食の席に僕は呼ばれる。僕の20歳の誕生日の3日後、直子から手編みのセーターが届いた。冬休みになり、再び療養所を訪れ、直子、レイコさんと過ごした。年が明け(1970年)、学年末の試験が終わると、僕は学生寮を出て、吉祥寺郊外の一軒家を借りた。4月初め、レイコさんから直子の病状が悪化したことを知らせる手紙が届いた。4月10日の課目登録の日、緑から元気がないのねと言われる。緑は僕に「人生はビスケットの缶だと思えばいいのよ」と言った。6月半ば、緑が2ヶ月ぶりに僕に話しかけてきた。緑は恋人と別れたと言う。僕にできることはレイコさんに全てをうちあけた正直な手紙を書くことだった。8月26日に直子は自殺し、葬儀の後で僕は行くあてもない旅を続けた。1か月経って東京に戻ると、レイコさんから手紙が届いた。レイコさんは8年過ごした療養所を出ることにしたという。東京に着いたレイコさんを自宅に迎える。彼女は直子の遺品の服を着ていた。風呂屋から戻ると彼女はワインをすすり、煙草を吹かしながら次から次へと知っている曲を弾いていった。そして50曲目に2回目の「ノルウェイの森」を弾いた。翌日、旭川に向かうレイコさんを上野駅まで送った。僕は緑に電話をかける。世界中に君以外に求めるものは何もない、何もかもを君と二人で最初から始めたい、と言った。村上自身が装幀を手がけた。赤と緑のクリスマスカラーでまとめた鮮やかなデザインが、日頃小説を読まない若い女性層の支持を呼び込み、売上に貢献したとされる。最も売れた版には金色の帯が付けられたが、この金色の帯は村上の意図したものではなく、発売後しばらく経ってから出版社の意向で変えられたものである。もともと初版の帯は上下巻ともそれぞれのカバーとまったく同じ色(赤と緑)であり、金色の帯に変わったとき村上は日本にはおらず、もし相談されていたら断っていただろうと書いている。帯文も注目された。村上自身が書いた「100パーセントの恋愛小説」というキャッチコピーについて本人は、「僕はそのときほんとうは『これは100パーセントのリアリズム小説です』と書きたかったのだけれど(つまり『羊』や『世界の終り』とはラインが違いますということです)、そんなことを書くわけにもいかないので、洒落っけで『恋愛小説』というちょっとレトロっぽい『死語』を引っぱり出してきたわけです」と述懐している。

出典:wikipedia

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